(5)

 花染さん。見てないよね? 俺が、ミカのベッドの下から這い出してきたのを? 見てないよね? 見てない。あんたは見てない。頼む。そう言ってくれ!


 以前ネットで、表情研究の専門家ってのを見たことがある。人間の表情をいくつかの種類に分類する、という話だった。その人に、今の彼女の顔を、ぜひ見ていただきたい。俺が思うに、これこそ、人類が進化の末にたどり着いた、透きとおる水のように限りなく純粋な、究極の表情――〈驚愕〉。


 その証拠に、よく喋るはずの花染さんが、しばらくの間、無言だった。ピュアな驚きに言葉は要らない。だが一定の潜伏期間を経て、突如爆発が起こった。せきを切ったように、


「な!? なに!? これ!? だれ!? なんで? どっから? そっから? その下から?」


 花染さん。お気持ちは分かります。けどそうやって、やたらに人を指差すのは、ちょっと失礼ですよ。特に、指の先にカメがぶら下がってる場合は。カメも困惑してるじゃないですか。


「話はあと! 後で、ちゃんと説明するから! とにかくブランデー!」


 ミカはもうベテランみたいな貫禄で、てきぱきと指示を出した。まあ経験者ですから。


     *


「ふえええ。助かったよ、もう。痛かったもん」


 花染さんは、自由になった指先を消毒しながら、顔をしかめている。そりゃそうでしょう。ミカのときより、もっと痛かったと思いますよ。ぶんぶんカメ振り回すんですから。


 おおっと失礼! 読者は待ってる。待ってるよね! それは美少女か? 美少女なのか? ・・・美少女です! ミカには負けるが、確かに、スポーツ系アクティブ美少女。そう躊躇なく呼べる存在です! 健康なお色気がほんのり嬉しい。ご声援よろしくお願いします!


 ミカは本当にすまなそうに、


「ごめんね。すぐ注意すればよかったんだけど」

「あ、全然大丈夫! 何のこれしき。こんなのテニスでしょっちゅうだよ」


 いいなあ仲良し女子。なごむなあ。よかったよかった。めでたしめでたし。じゃあ、そろそろ俺は、これにて失礼をば――。


「ちょおっと待ったあ!」


 花染さんの眼が、爛々と輝いている。


「いや。まことにすみませんが、俺は、これから抜き差しならぬ大事な用件が控えてますんで――」

「二人とも、ここに座りなさい」

「あ。・・・はいぃ・・・」


 ミカは俺と顔を見合わせたが、すぐに目を逸らした。テーブルを挟んで、俺たちふたりは花染刑事と対峙した。


「さあて! その説明とやらを、聞かせてもらいましょうか!」


 その顔にありありと書かれているのは、次のような重厚な思想だ。


「なんかこれ、すごくない? すごい現場に出くわしちゃった! こんなの人生で初めてかも! ミカすご! やっぱ東京の女子違うわ! 進んでるっていうか。ぶっとんでる! もう校則どころかモラルとか常識とか、月の彼方まで吹っ飛ばしてくれちゃってるわこれ! まだひと月でしょ? もう地元の男、部屋に引っ張り込んじゃってるとか! ベッドの下に隠れてるとか、アニメかよ! ・・・だけど、それにしちゃ、なんか冴えない男ね。謎。イケメンとかマッチョならまだ分かるんだけど。もしやブサ専? 地味専? まさかね・・・」


 俺は横目でミカを見た。神妙な顔つきで頬が上気している。ミカが説明するんだよね? 俺じゃないよね。だってさっき自分で説明するって言ったんだから。


 花染さん。すごく期待してくれてるのは大変嬉しいんだが、がっかりさせてごめんね。事実は、アニメほどエキサイティングじゃないんだよ。俺は、単なる一介のカメ・レスキュー隊員にすぎないんだ。現場に派遣されて、ブランデーを注入しただけなんだよ。だから全部誤解なんだ。大騒ぎするようなことじゃないってこと。


 だったらなぜベッドの下から出てきたのかって? それはだね・・・ええと・・・そうだ! ミカさんが、ベッドの下にもう一匹隠れてるかもっておびえてたから、それを調べてたんだよ。それにしちゃ時間が長すぎるだろって? ええとそれは・・・。


 うん。やっぱりこの際、ミカに説明してもらうのが正解だな。ちゃんと全部、きちんと説明してくれるだろうから。整然と。誤解のないように。


 ミカは意を決したらしく、真剣な眼差しで顔を上げた。そして言った。


「ええと。こちらは、北高1年の山本くん」


 そして、


「・・・私の彼氏です」


     *


「ええええ! やっぱそうなんだ!」


 テーブルの向こうの花染さんが、顔を真っ赤にして嬉しそうに叫んだ。一瞬、「でもなぜこんな地味男?」と続けるんじゃないかと思ったが、さすがにそれは言わなかった。


 俺はと言えば・・・時空の観念を失っていた。最初は聞き間違いかと思った。次に込み上げてきたのは大感激。「隣に座ってるこんな美少女が、なんと、ほかでもないこの俺を、なんと、彼氏認定! すごおおおおおおおっ天国行ってきますっ」。成層圏を超え、月と太陽を超え、銀河の向こう側まで。桃源郷が見えましたっ。


 だが――その直後に、超絶リバウンドが待っていた。落ちてゆく俺。落ちてきた俺。地表をぶち抜いて、マグマ地獄の底まで。


 まずいよこれえええええっ! もう公務員枠どころじゃない! 組織が知ったら! ミカパパが知ったら! 〈偉い人ルート〉が知ったら! 抹殺されちゃう! 用水路に浮きたくない! 助けてアンパンマン! 全身が氷結した。


 それにこれ、絶対、理屈に合わない。「彼氏」というのは、れっきとした社会的ステータスなのであるから、本来、告ったり告られたりがまずあって、それから正式に認定されるべきものではないのか? そういう定義ではないのか? いくら絶世の美少女であったとしても、正式な手続きをすっ飛ばして一方的に通告するということは、許されないのではないか?


 だが待て。彼女側の言い分にも、公平に耳を傾ける必要があろう。例えばだ。本日の〈マモ~レ〉事案。あれは「デート」なのか?


 ・・・なるほど。本件の一方の当事者(以下甲とする)は、「俺の人生初デート」と、確かに記述していますね。甲が、デートという認識なのは、間違いないですね。既にデートしているのであれば、これはもう、事実上「彼氏」ということなのではないですか?


 ・・・裁判長。異議あり。世間一般の常識として、「彼氏」でなくともデートは可能です。したがって、この事案が「彼氏」認定の根拠にはなり得ません。認定の依拠であるためには、少なくとも、「こくり」―「彼氏就任」―「デート」という時系列が、証明できなければなりません。


 ・・・裁判長! 異議あり。今の発言は、記録から削除願います! ・・・


「・・・ねえ大丈夫? 山本くん、だっけ? なんか目を白黒させてるけど」


 花染さん。優しい言葉ありがとう。心にしみてます。だけどそもそも、ミカの意図が理解不能だ。いったい、なんでまた彼女はあんなことを?


 横目で見ると、ミカは乙女ちっくに、恥じらうようにうつむいている。俺の方は見ない。でもその表情は、何だか満足げだ。「わあ! 遂に言っちゃった!」みたいな。・・・何だよ。知らない人が見たら、「彼氏」発言、本気で信じちゃうぞ。どうなってんだこれ?


 ミカの横顔を見つめながら、必死で考えを巡らせていると、ようやくその思考回路が見えてきた。ははあ。読めてきたぞ。たぶんこうだな。


 論理の基本から始めよう。世界の全ての事物は「Aである」か「Aではない」かのどちらかだ。つまり今の場合、目撃された事象は、


(a) 彼氏が、ミカのベッドの下から這い出してきた。

(b) 彼氏でない男が、ミカのベッドの下から這い出してきた。


の、いずれかということになる。どちらにしても、あまり褒められた状況でないのは確かだ。だが、それでも前者の場合、それなりに筋が通っているし、たぶん風紀の乱れまくった東京では、ありふれた日常的光景と言えるのではないか。対外的にもギリでセーフだろう。東京ならな。


 ところがだ。仮に後者ってことになれば、これは東京的にも確実にアウトだ。「不特定多数の男との、無節操かつ親密な交際」を示唆してしまうからだ! このハレンチ性のもたらすダメージは、あまりにも大きい。だから、あえて「清楚なお嬢さま」像を捨ててでも、前者を選択する、という決断を下したのではないだろうか? 何という計算高さだ! さすがだ東京人。


 それに、もしかすると、東京の「彼氏」と、地方中核都市の「彼氏」とでは、言葉の持つ重みが異なるのではないか? ミカは、イケメンを侍らすのが好きとか言ってたよな。それに、あんな年上ファッションモデル男と付き合うくらいだから、清純な外観とは裏腹に、けっこう恋愛経験豊富で、遊んでたりとかするのかな? だから、俺みたいな踏み台が相手でも、「彼氏」宣言とか簡単にできちゃうんじゃないかな? ぽこぽこ相手を変えたりとか?


 そんな風に考えると、確かに合点がいく。俺は次第にむしゃくしゃしてきた。


 ミカお嬢さま。あなたの、その打算に満ちた虚言にお付き合いしたいのはやまやまです。ですが、残念ながら、今回だけは、あなたに調子を合わせるわけには参りません。不肖わたくし、山本めの命がかかっておるのです。今、あなたの「彼氏」宣言を認めたが最後、わたくしの体は田んぼに沈むのです。川に浮かぶのです。


 決して命が惜しいわけではありません。ですが、わたくしにも、大義というものがございます。将来の夢というものがございます。なので、どうかご理解ください。お許しください。わたくしは・・・。俺は言った。


「・・・いやあ。彼氏じゃないですよ、俺。全然違います。カメ外すの、手伝っただけで」


 言ってやった! ふは! リサイクルごみにだって、矜持ってもんがあるぞ!


「え? だって・・・」


 今度は花染さんが、目を白黒させる番だ。そりゃそうだ。並んだふたりが正反対の主張をしてるんだから。しかも、これじゃまるで、ミカが俺に、一方的にストーカーかましてるみたいじゃないか。どう見ても配役が逆。


 ミカははっと顔を上げると、きっ、とこちらをにらみつけた。屈辱と怒りで真っ赤。すごい剣幕。ですよね! 目の前で否定されたんだから。だけど、俺だって、どうしてもここで譲るわけにはいかない事情がっ。


「じゃなくない! 彼氏でしょ? 彼氏じゃない! 何言ってるのよあなた!」

「あの。ごめん。でも俺――」

「今日デートしたじゃない! 楽しかったって言ったじゃない!」

「そう! 楽しかった! でも――」

「だったら彼氏でしょ? 彼氏でいいじゃない! 何が悪いわけ?」

「いや――」

「それともあれ? もしかしてあなた、彼女とか、いるわけ?」


 俺もここで切れた。くそ。何だその口調。人をバカにしやがって。リサイクルごみにだって(以下略)。


「いるよ! 俺だって。彼女くらい!」


 言いながら、自分のアホさかげんにあきれた。おいおい小学生かよ。


「ええっ!?」


 ミカと花染さんが同時に叫んだ。・・・二人とも、心底あっけにとられた顔。そ、そこまで意外ですかそうですか。俺も驚き、そして内心、深~く傷ついた。


 だけど、もっと驚いたのはミカの反応だった。急におとなしくなって、ちょっと唇を震わせたかと思うと、


「・・・そうなんだ。・・・分かった。ごめん」

「いや・・・あの・・・」

「ちょっとお手洗い」


 唐突に席を立った。


 今まで、ふたりの口論をぽかんと聞いていた花染さんは、我に返ると、無言で俺をにらんだ。え? 俺が悪いの? ・・・そして急いで廊下へ出て行った。


     *


 二人とも、なかなか帰ってこない。取り返しのつかない失敗をした気がするが、どこでどう間違えたのか分からなかった。罪悪感と心配が、重~く降り積もる。廊下へ出ようとしたら、トイレの前に立っている花染さんが、手振りで来るなと制止した。パントマイムが今日のトレンドなの?


 やがて戻ってきた花染さんは、テーブルにつくと、俺にも座れと。そうとう怒ってる。怖い。


「ひどいよ。山本くん。ひどい」

「あ。いや。・・・すいません」

「ミカ、たぶんちょっと泣いてた。中で」

「ええっ?」

「あたし、絶対許さないから。女の子泣かすやつ。初対面でも許さないよ。最っ低」

「すいませんっ」

「事情よく知らないけど。とにかく、今すぐ行って、ミカに謝って。早く」

「はいいいっ」


 俺は追い立てられるようにして、小走りにトイレの前までやってきた。泣き声とか聞こえたらどうしよう? でも中は静かだった。


「あのう。ミカさん? 大丈夫?」


 少し間があって、ドア越しにミカが応答した。落ち着いた声で、ちょっと安心。


「・・・うん大丈夫。ごめん。すぐ行くから」

「全然いいよ。それよりあの。さっきはごめん。あんなこと言って」

「ううん。私こそ。勝手に変なこと言っちゃって。勢いで。バカみたい。ごめんなさい」

「謝ることないよ! 謝ることないって! すげえ嬉しかったし。なんなら死ぬほど嬉しかったし! だけど俺、釣り合ってないし。ミカさんにふさわしくないっちゅうか。並んでも恥ずかしいだけだし俺」


 それに組織のことも。くそ。あいつらさえいなければ。言いたい言えない。でも、こんな言葉足らずの俺の言い訳に、ミカは意外なほど語気を強めて、


「そんなことない! そんなの全然関係ない。・・・でも迷惑だったよね。山本くん。彼女いるのに。私が強引に誘ったりして――」


 俺のバカ野郎! 死ねよ俺!


「あれ嘘だから! でたらめ。口から出まかせ。ごめん。彼女とか、いるわけないっしょ俺! 見りゃ分かるじゃんそれ。嘘だからそれ。ごめんっ」


 しばし沈黙。ミカさんまた怒った?


「・・・そうなの?」


 それからミカは、くすくすと笑い出した。ドアが開いて、いつものいたずらっ子の顔がひょいと出た。


「だよね! だと思った! 山本くんに彼女とか、いるわけないもの! 最初っから分かってたわよ、そんなの!」


     *


 チャリを押しながら、俺は、隣を歩いている花染さんの顔をそっと盗み見た。まだ怒ってるかな?


「・・・あの。花染さん。今日のことは――」

「分かってる。さっきミカにも釘刺されてるから。誰にも言わないよ。大丈夫。あたし口堅いから。陰でちゃらちゃら噂話とか、そういうの嫌いだから」


 そして俺をじろっとねめつけたが、急にケラケラ笑い出した。


「っかし驚いた! 心臓が飛び出したよ、口から。もう! あんた出てきたとき!」

「それは言わない約束で・・・」

「あんたら変! 絶対変! どんなカップルだよ! バカかよ! なんかよく分かんないよ。だいたいカップルなの? 付き合ってんのかどうかさえ――」

「いやそれは・・・」

「まあいいけど。でも嫌いじゃないよ。ミカ、すっごくかわいいし。あんたバカだけど」

「はあ」

「あんたにはもったいないよ、ほんと。大切にしなよ。じゃなきゃ怒るよ。・・・あ、じゃあ。あたしんち、こっちだから」


 行きかけたが、思いついたように戻ってきて、今度はなぜかちょっと照れ笑い。


「あのさ! 黙っててあげる代わりにさ。一つお願いしていい?」

「はい?」

「えっと。・・・やっぱり後でラインするわ。じゃ」


     *


 陽が落ちて、辺りが暗くなってきた。どっと肩に来た疲労感。はあ~。ミカと会うときはいつもこうだ。これじゃ寿命が縮むよ。いやまじで。


 でも、どうやら危機は乗り越えた。ご令嬢の「彼氏」宣言も、激怒絶交通告も、なんとか無事に回避できたな。両極端を巧みに避けつつ、つかず離れず、上手に世渡り。行きつく先は安泰人生。なんか道は見えてきた。いいね!


 急に小雨がぱらついてきた。慌ててチャリにまたがろうとしたとき、小さく、かーんという金属音が響いた。チャリに何か当たった? ・・・BB弾だ。


 ケータイをチェックすると――思ったとおり、消したはずの「友だち」が復活していた。〈P〉からの着信は、やはり短かった。


〈適切な距離を保て〉


 お節介だな。ソーシャルディスタンスってか? まあ、あの頃はまだ、そんな言葉はなかったけどな(笑)。


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