(4)
ふたりとも、ぎょっとして飛び上がった。ミカは鋭く俺を見ると、絆創膏を貼った人差し指を口に当てて「しー」と言ってから、インターホンに向かった。その画面に映ったのは――私服の女子。南高の同級生かな?
ああよかった! 組織の刺客とかじゃなさそうだ。俺は心底ほっとした。
「は。はい?」
「あ! 上遠野さん? よかったあ、留守じゃなくて。あたし覚えてる?
「ああ! 花染さん」
「あの。昨日プリント忘れてったでしょ? 先生が届けてくれって。あたし、うち近いから」
「あ、そう! どうもありがと! 今行きます!」
やっぱり同級生だ。俺も挨拶した方がいいかな。この機会に、もう一人、南高女子に友だちの輪を広げとくってのも妙案かも。だが一緒に立ち上がろうとした俺を、ミカは無言で制止した。顔が怖い。「引っ込んでろ出てくんなボケ」的な。
そして玄関を開ける音。
「どうも! 花染さん。わざわざありがとう。助かっちゃった。じゃあ! また月曜に」
「あの! ・・・今大丈夫? 忙しい? お客さんとかいる?」
「え? ・・・いないけど」
いるだろ俺が! 無視すんな!
「あのさ! ラインとか分かんなかったから、急に来てあれだったんだけど、よかったら、お邪魔してもいい? あの。前から一度、おうち、お邪魔してみたかったんだ! 外からいつも見てて。すごいおうちだなあって。お父さん建築家でしょ? どんなおうちなのかなって。すっごい気になっちゃってて。ずっと」
「ああ・・・うん・・・でも・・・」
「お父さん有名だよね? テレビで見た! ゴールドメダルとか、もらってんだよね?」
ミカは急に弾んだ声になった。
「花染さん! よく知ってるのね! じゃあちょっと待ってて! 今ちょっと散らかってるから。片づけるから。ちょっと待っててねっ。すぐ来るっ」
「ほんと? ありがと! 嬉しいっ」
まあ、さすがに門前払いだと角が立つだろうしな。じゃあ俺も挨拶して、失礼するかな。戻ってきたミカにそう言おうとしたとたん、もっと怖い顔で「しー」が来た。ジェスチャー交えて、「玄関のドア半分開いてるのよ。今喋ったら墓地送りよ!」的な感情表現。おいおいパントマイムかよ。で、向こうは「待て」の合図を出したかと思えば、さっさとコーヒーカップを流しに片づけ始めた。おいおい犬かよ俺。
人格の尊厳を無視されて、いたく傷ついた俺は反撃に出た。素早くケータイを出して応戦! 目の前の相手にラインかました。バカか俺。
〈別に隠すことないじゃん。カメの事情説明して紹介してくれれば。俺すぐ帰るから〉
ミカは、鬼のような顔で鬼のように打ち返してきた。にらみ合いながらの激しいラリー応酬が続く。
〈ダメ。絶対。噂になる。隠れて〉
〈いいじゃん別に。彼氏じゃないし〉
〈うるさい〉
〈紹介してくれたっていいじゃん〉
〈死ね〉
そんなに北高イケメンへの布石を独り占めしたいのか? エゴイストめ!
「ごめんね~。もうちょっとだから~」
ミカは爽やかに玄関の方へ声をかけると、俺の腕をむんずと掴んで、奥の廊下へと引きずり出した。廊下の突き当たりで一瞬ためらったが、左のドアをさっと開けて俺を押し込んだ。
*
へいへいお嬢さんよ。俺、いちおうお客さんでしょ? この扱いはないんじゃない? 問答無用で、いきなりこんなとこに軟禁するってのは。・・・ってえ! これミカの部屋じゃないか! 俺は絶句した。
上品な明るい色調で、完璧にコーディネートされた女子の部屋。天窓から差す柔らかな光に包まれて、部屋に溶け込んだ作り付けの勉強机やクローゼット、それにシンプルだがおしゃれなベッドが見える。美しい中庭がよく見える大きな窓。覚えのあるシャンプーの香りとミックスして、よく分かんないがとにかくふんわりといい匂いが漂っている。おいおい天国かよ。
しかし! これって問題じゃないですか? いやしくも妙齢のご令嬢が、こともあろうに
・・・だがここで、俺の心に、うすら寒~い季節外れの木枯らしが吹き始めた。ちょっと待て。もしやこれって、ひょっとすると、俺って、男として認識されてないってこと? 出し忘れたリサイクルごみみたいに、「お客さんが来たら見えないとこに片づけちゃお」って感じで? はあああ~。俺は暗澹たる寂寥感に沈み込んだ。孤独なごみの気持ちが、よ~く分かる。
「・・・っご~い! お城みたい!」
ミカがさっき慌ててたせいか、ドアは少し開いたままだ。体育会系っぽい、歯切れの良い元気な声が、廊下の先から微かに聞こえてくる。まあ俺はミカの声の方が好きですけどね。そのミカは、嬉しそうに、またパパのことを花染さんに説明している。
長居する気なんですかね? 俺、もう帰りたいんだけど。退屈なので部屋の中を見回してみたいが、やっぱ紳士かつ良い人なので、さすがに気おくれするよね。プライバシーに土足で踏み込むみたいで。踏み込ませたのは当のミカなんだけど。俺全然悪くないんだけど。
でもまあ、ゴテゴテした飾りのない、金持ちにしては簡素な
「・・・カメさん好きだったのか・・・」
それなのに、あんな風にこっぴどく裏切られちゃって。不憫だ。ちょっと泣けてくるね。
そのとき、机の上に写真が見えた。封筒から出したばかりの感じで、何枚か無造作に重ねてある。チェキだから、ラインじゃなくてわざわざ送ってきたのかな。見ちゃいけないとか思いながらも、一番上のが、どうしても目に飛び込んだ。
大掛かりなファッションショーのランウェイの写真だった。写っているのは、当然だがかなりのイケメン。へー。これって、東京の彼氏ですかね? どうみても高校生じゃないしストーカーには見えないし。もしミカと並んだら、絵に描いたような美男美女で、正にお似合いって感じ。そりゃこんなのと付き合ってたら、東京を離れるのは嫌だろうな。ミカパパは知ってたんですかね? まあ俺には関係ないけど。
*
窓から中庭の向こうを眺めると、大きなガラスを通して、ダイニングキッチンの二人が見えた。向こうから見えないよう用心しながら、様子をうかがう。
ミカは立って、ケーキか何かをお皿に用意している。ずるい。俺のときはコーヒーだけだったのに。俺は、このとき急激に立ち上がってきた内々の緊急用件について協議すべく、ケータイを出した。簡潔に用件のみにて打つ。さっきコーヒーお代わりしたからな。
〈トイレ〉
先方は、なにげなくケータイを見て固まった。
「・・・コーヒーでいい? ジュースもあるけど?」
あくまでも爽やかな声を保って会話をキープしつつ、鋭く打ち返してきた。
〈我慢して〉
「・・・お砂糖とかミルクは?」
〈いつまで?〉
〈死ぬまで〉
〈むり〉
遠目でも、ミカの顔がこわばったのが分かった。怖すぎです。彼女は、しばし頭を抱えた後、
〈今そっちに行くから準備して〉
そして、にこやかに、
「あ。ちょっとお手洗い!」
さり気なく平静を装って、ミカが廊下に出てきた。と、忍び足で猛然とダッシュ、俺が潜む自室のドアをそうっと開けた。トイレの方を指差すと、身振りで「行け。早くしろ。見張ってるから」。俺は、その指示どおり、首尾よくトイレに滑り込んでドアを閉めた。ミカはすぐ外でイラつきながら待っている。(お嬢さまとしては、ちょっと想像を絶する屈辱的場面でしょうね。俺悪くないけど)
・・・はああ~。よかったああ! 間に合ったあ! 何だろう、このこみ上げる幸せ感。
緊急用件を無事完遂すると、ほっとして、ようやくあたりを見回す余裕ができた。おお。さすがです。トイレも別世界。中はめちゃ広くて、高級ホテルの化粧室? パウダールーム? そんな感じ。鏡や洗面台のデザインも秀逸です。
そのときだ! 廊下の方で遠くから、花染さんのよく通る声が!
「あ! あの~!」
次の瞬間、なんと! 仰天したミカが、反射的にトイレに飛び込んできた! 俺を見るなり目をむいて、ぱっと背中を向け、
「み・・・見てないからっ!」
うなじがピンク色に染まって、かわいいっ。
「大丈夫っ。もう、しまいましたっ」
「バカっ」
このときばかりは、これが俺んちのめちゃ狭いトイレだったらよかったのに、と――。一瞬そう思ったのは秘密です。・・・花染さんの声が続く。
「・・・お湯、沸騰してるから! 火、止めとくねっ」
結局、花染さんは廊下には出てこなかった。俺が元の部屋に戻るのを、ミカは、げっそりした表情で見送ってくれた。
*
女子って、けっこう長話ですよね。その後、二人は気が合ったらしく、延々盛り上がっている。ときおり、きゃっ、きゃっという笑い声が響く。
いいなあ。興味津々。どんな話してるんだろ。俺も仲間に入りたいなあ。一人でここで体育座りしてるの、寂しすぎです。ぐす。もう帰りたいよお。帰りたい帰れない。
突然、廊下で声がした。めっちゃびびり!
「・・・わああ! トイレもすっごおい! ホテルかよ!」
和やかな二人の笑い声。だが次の一言で俺は凍った。
「ミカ、後でさあ。ちょっとだけ、お部屋も見せてもらっていい? 素敵なお部屋なんでしょ? もう。うらやまし過ぎだよおっ!」
「・・・いっ! いいよっ。・・・ちょっと、なか、片付けるねっ今っ」
部屋のドアが素早く開いた。ミカの凍り付いた顔が、もうホラーです。花染さんがトイレから出てくる前に、玄関に猛ダッシュか? と思う間もなく、水を流す音! 体育会系はトイレも速い!
ミカは部屋に飛び込んできて、後ろ手にドアを閉めると、
「ちょっと待っててね~」
すごいね。女子って、こういうときでさえ爽やかな声が出せるんだね。感心しきり。そして、ふたりのパントマイム合戦が再開された。
〈クローゼット?〉
〈ダメ! 服がしわになる!〉
〈じゃどこよ?〉
〈ここ! すぐ! 入れ!〉
・・・まじかよ。・・・ベッドの下に横たわる俺がいた。
美少女が毎晩お休みになる、まぎれもないそのベッドの真下に、俺は隠れている。これって、そそる状況なのか、そそらない状況なのか? 微妙です。この広い世界には〈美少女のベッド下〉フェチとか、いるんだろうか。いるかもね。そいつに、謹んでこの状況を捧げたいと思います。
とか思った瞬間、またしても廊下で花染さんが!
「わああ! なにこれかわいい! ミカ、カメ飼ってるんだ! なんか、水槽から出ちゃってるよ? 廊下歩いてるよ!」
いつの間に! ミカはドアを開けて飛び出した。
「みどり! 指、出すとあぶな――」
一瞬の沈黙。
「ぎゃああああああああああっ」
断末魔の叫びが邸宅を切り裂いた。中庭から鳥が一斉に飛び立った。
何なのこのデジャブ!
いったい、昨今の女子高生は、どいつもこいつも、なにゆえに、〈カメの頭〉と見れば、見境なく手を出したがるのであろうか。まったくもって、何とも嘆かわしい風潮と言わねばなるまい。
・・・などと世を憂えている暇はなかった。ベッドの下に、いきなりミカの顔が覗いて、俺の手を引っ張った。
「早くっ! ブランデー!」
「え? でもお前、見てたからできるだろ?」
「いいからあなたプロだから! 早く来て!」
俺は慌てて這い出した。そして、顔を上げて――見てしまった。
開いたドアの前に仁王立ちで、その指にカメをぶら下げ、曰く言い難い表情で俺を凝視している――花染みどりの、その姿を。
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