(3)

「す、すげえ・・・」


 ちょっとした林を抜けて小道を曲がった瞬間、俺は息をのんだ。


 なんかもう、別次元の空間。こんなとこにこんな大邸宅。いつの間に。だがよく見ると第一印象とは違って、実はそれほど大きくない。戸建て天国のこの街の水準から言えば、むしろこじんまりしてるんじゃないか? しかも平屋。なのに、どうしてこんなに強烈な存在感があるんだろう。やっぱ世界的な建築家が建てる家は、どっか圧倒的にレベルが違います。


 デザインかな? 色かな? でかい窓かな? でも特に奇をてらった変なものじゃないし。説明できないけど、なんか隅から隅まで、卓越したセンスで完璧に考え抜かれているっていうか。見惚れるというか。ずっと見ていたいっていうか・・・。


「鍵、取ってくれる? 左のポケット」


 あ! ごめん! そういえば緊急事態だった!


 玄関に立ったミカの両手は、カメでふさがっている。俺は言われたとおり、反射的に彼女のスカートのポケットに手を伸ばしかけて――固まった。そんなとこに手を突っ込むだと!? 男の俺が? 許されるの? 道義的に? 法令的に? とたんにミカが、すっとんきょうな声を上げた。


「あっ! やっぱりいいっ! いいから! 自分で出すからっ! 山本くんカメ持ってて!」


 耳元まで真っ赤になっている。ああびっくりした。最初からそう言ってよ。こっちはもうちょっとで、鼻血で輸血ですよ。


 俺がカメをうやうやしく保持している間に、ミカは玄関のドアを開けた。それじゃあこれで、俺は、お役御免ってことで――。


「なにしてんのよっ。早くっ」


 イラついたミカの声が飛んだ。開けたドアを肩で押さえて待っている。


「俺も入るの?」

「ったり前でしょ! 見捨てる気?」

「でも・・・」


 何の心構えもなく、いきなりVIPご令嬢のご自宅訪問ですと? 俺はびびった。建築家いるかも。挨拶どうする? 「このたびお嬢さまのオフィシャルアンバサダーを仰せつかりました、不肖山本と申します。決してストーカーではございません。以後よろしくお見知りおきを――」。それにもし万一、組織のやつらが見てたら? これまずくね?


「早く入れ!」

「はいいいっ」


 ミカの剣幕に押されて、俺はよろけるように邸宅に踏み込んだ。


「お邪魔しまあす」

「誰もいないわよ」

「へ? お父さんは?」

「出張」

「お母さんは?」

「うち母親いないから」

「あ、そうなんだ・・・」


 まずいこと聞いちゃったかな。・・・え? でもそれって、この邸宅に、ふたりっきりってこと? ・・・ヤバい! これはヤバい! バレたら俺の命が!


「お邪魔しましたっ」

「ちょっと! 逃げる気? 私一人でカメと闘えって言うの?」

「いや・・・むしろ仲良くしてもらって、お互い、納得できる妥協点を見つけ出していただきたく・・・」


 確かに、この状況じゃ、一人でブランデーの栓を開けるのも無理だろう。俺は覚悟を決めた。


     *


 カメにブランデー飲ませる。


 ・・・どうやるんだ? 教科書にも書いてないぞそんなの。もうほんと、頭からぶっかけたいところだが、怒らせるとまずいし。動物虐待になっちゃうかもだし。しょうがないんでストローに伝わらせて、ミカの指とカメの口の間のわずかな隙間から、ちょっとずつ流し込んでみた。おいおい、これ、そこらで売ってないような超高級ブランデーだぞ。樽を載せた船で、世界一周して熟成したとか書いてある。心して味わえよ。


 ミカはカメを支えながら、俺の動作を必死の顔で真剣に見守っている。まあ当然だけど。でもなんかちょっと、ドラマのかっちょいい脳外科医になったみたいな気分で嬉しい。俺って、こんな美少女に、心から頼られている!


 ミカ、強がるのはもうやめなよ。もっと俺を頼ってくれていいよ。君が傷ついたときには、いつでもそばにいてあげるからね。恥ずかしがらないで、君のその熱い想いを、俺にまっすぐぶつけてごらん。そうすれば、二人の絆はもっと――。


「ブランデーが口からあふれてるわよ」

「あっしまったっ・・・もったいない・・・」


 ふたりで、カメの顔を、じ~っと凝視し続けること数分。こいつもその長い生涯の中で、こんなに見つめられたことはついぞなかったことだろう。表情は読み取れない。無我の表情。ただこちらを、その無垢な瞳で一心に見つめ返している。なに考えてるんだか。もう、とっとと離せよヴォケが。


 ・・・。


「おおっ!!」


 奇跡は起きた。カメさんの目が幸せそうにゆっくり閉じたかと思うと、顎から、だらんと力が抜けた。指、取れました! 遂に! なんかハリウッド映画のクライマックスっぽい音楽が、俺の脳内で感動的に鳴り響いた。ミカも大きく息をついた。


「ほえええええぇぇ」


 ミカの目にも安堵の涙がにじんでいる。良かった。大した傷にはなっていない。とりあえず消毒。そして絆創膏。なんかデジャブ。


 しかしヒルといいカメといい、あのサイクリングロードの辺りで因縁とかあるんでしょうか、このひとは。前世で、あそこの地縛霊と壮絶バトルを繰り広げたとか?


「山本くんありがと。また助けてもらっちゃった!」

「いや。むしろ俺が謝んなきゃ。すぐ注意してれば、こんなことには」

「そんなことないよ。私がバカだったから。今コーヒー淹れるねっ。・・・お砂糖とかミルクは?」


 うわ。なんかすごくいい感じ。ふたりきりの世界。カメもいるけど寝てるし。これで、組織のことさえなければ・・・。くそっ。


 改めて周囲を見回すと、思ったとおりというか、それ以上に、これはもう別世界の空間が広がっていた。ハイセンスの王国。そもそも室内なのに、外光が差し込んで、ものすごく明るい。天窓がいくつもあるし、中庭に面した部分は、全面、見たことがないほど大きなガラスの扉になっている。比べるのも恥ずかしいが、昼間でも電気つけないと暗い、俺んちなんかとは天地の差だ。そういえば、ミカはうちを見たんだよな。どう見えたんだろ。・・・いかん。どんどん恥ずかしくなってきた。


「すげえうちだなあ、これ。さすがですねお父さん」

「そう思う?」


 ミカはちょっと照れながら、それでも嬉しそうに笑った。


「私が言うのもなんだけど、うちのパパ、けっこうすごいのよ。IIAゴールドメダルもらったんだよ。それって日本じゃあんまり知られてないけど、プリツカー賞と同じくらいすごいことなの」

「・・・プリツカーって? いやいい。後でググるから」

「若いころ、あのペーターツムドルにも認められたんだよ!」

「・・・ペーター? いや俺のことはいい。気にせず先に行ってくれ。後で必ず追いつくからっ」


 自分で死亡フラグ立ててどうする俺。


     *


 ミカはすっかり打ち解けて、饒舌にミカパパのことをいろいろ語ってくれた。若いころ無名で苦労したけど、イタリア、そしてヨーロッパ各地で頭角を現し、やがて日本でも認められるようになったこと。今は著名な建築家として、日本でも世界でも引っ張りだこ、超多忙な生活を送っていること。そして何年か先には、世界が驚くような巨大プロジェクトがミラノ近郊で控えていること。


 最初は上遠野氏の娘って言われるのを嫌がってたけど、内心では、やっぱり自慢のお父さんなんだね。専門用語はよく分かんなかったけど、ミカが、ひけらかしとか見栄じゃなく、心の底から本当にパパのことを尊敬し、誇りに思っているのが、ひしひしと伝わってきた。


「私もね、いつかパパのお手伝いをして役に立てたらいいなあ、って。夢なの」


 いいなあ。ただただ、うらやましい。こういうワールドレベルで活躍する天才みたいな人たちって、俺ら庶民とはまったく違うもんが見えてるんだろうな。住む世界が違うっていうか。まあ平凡な俺は、公務員枠ゲットで充分満足だけど。


 それにしてもこの雰囲気。同じミカの話を聞くのでも、やっぱりマックとかフードコートとは、ひと味もふた味も違う。神さまありがとう! そしてお願い。このふたりの時間が、ずっと続きますように・・・。


 インターホンのチャイムが鳴った。


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