(2)

「蜃気楼?」


 ミカが顔を上げた。


 案内をひととおり終えたので、俺たちは二階のフードコートで一休みしているところ。かねてより懸案の、大自然ツアーについて鋭意協議中だ。


「有名だぞ!」

「却下」

「・・・いきなり・・・すか・・・」


 ミカはヨーグルトアイスを美味しそうに頬張りながら、アイス同様の冷たい口調で、


「見たことあるもの。テレビで。『ぶらり・ど田舎二人旅』とか、そんなような番組で」

「いやタイトル絶対それじゃないから」

「あれでしょ? 煙突とかが、びょよよよ~んって縦に伸びたりするやつ。工場とか、上下逆さにひっくり返ったりして見えるやつ」

「そうだけど」

「面白くないわよ」

「そんなことないぞ! あれはな、大自然がもたらす驚異のオプティカルイリュージョンなのだよ。見れば絶対感動ものだって。暖まった空気の屈折率がだな・・・とにかくサイエンスなんだ」

「確かに見えたら面白いかもしれないけど、行けば必ず見られるわけじゃないのよ、あれ。けっこう条件厳しいらしいわよ。大気層の厚みとか。肉眼じゃ難しくて、望遠鏡が要るとか」

「・・・ミカさん、ひょっとして俺より詳しいんじゃね? テレビ食い入るように観てたんじゃね?」

「そういう山本くんは、何回行って、何回目ぐらいに見られたの?」

「・・・」


 俺はタピオカをすすりながら、どう言い逃れるか、必死で神に問うた。神は沈黙した。


「まさか一回も見てないとか?」

「・・・」

「まさか一回も見に行ってないとか?」

「・・・そのまさかです・・・」


 ミカの視線が突き刺さった。あうちっ。


「あきれた! 自分で行ったことないのに、私を連れてくつもりだったの、それ?」

「いや、来週あたり下見するつもりでっ」

「却下。次は、自分で少なくとも30回は下見してから話を持ってきなさい。そしたら考えてあげる」

「ははああっ」

「タピオカ飲みながらひれ伏すと、こぼすわよ」


 手ごわい! 大自然ツアーに同意させるだけでもあれだけ苦労したのに。お先真っ暗とはこのことだ。公務員枠が遠のいてゆく。ふがいない俺は、テラスの上に広がる青空を仰ぎ見た。季節は春から夏へ移ろうとしている。


 見晴るかすと――渡す限りの地平に一点の曇りもなく展開する、透き通るように淡い水色の山々。はかなげで、この世のものとはとても信じられない。いつ見ても感動しますね。


 ふと横を見ると、ミカも同じように地平線を見つめていた。もしやこれはチャンスでは? 彼女にも、ようやくこの風景への畏敬の念が生まれたのか? もう一度アタックしてみようか。「どうでしょう。やっぱり癒しを求めて山へ行きませんか?」とか。


 そのときミカが、ちらとこっちを見た。その顔にこう書いてあった。


「あなたが、また山を持ち出すのはお見通しよ。却下するわ。そして、あなたが、『ミカの考えてることはお見通しだ。却下する気だな。でもいちおう提案するだけしてみよう』と思ってるのもお見通しだわ。だから却下するわ。そして、あなたは、『俺がいちおう提案するつもりなのを知っててそれでも却下する気だな。だけどそれを知りつつ俺はあえて・・・』・・・」


 ミカはぼそっと言った。


「まあ、きれいだけど。でもツェルマットほどじゃないわね」


 はあああ~。お嬢さま、いいかげんセレブ人生ひけらかすの、やめて! 友だちいなくなっちゃうよ。いつかふたりで、こんな景色を眺めながら感動を分かち合う日が、来たりするのであろうか。・・・ないない。


     *


 結局、どこへお連れするかは継続審議となった。俺はとっとと名所巡りを始めたくて内心うんざりしていたが、ミカは妙に上機嫌だ。裏表のない、誠実を絵に描いたような男子を相手にごねるのが、そんなに楽しいんでしょうか? やな性格。


「今日はありがと! 途中まで一緒だよね。サイクリングロードの先まで」


 俺の返事を聞かずに、彼女は颯爽とクロスバイクを漕ぎ始めた。すらりとした脚が陽にまぶしい。俺は慌てて追いかけた。もう慣れた道の感じで、ぐんぐん先を走っていく。心地よい風に乗って、ときおり微かにシャンプーの香りがした。


 広い道路をしばらく走ったところで、途中からサイクリングロードに入る。やっぱいいよね。俺のお気に入りだ。白いセンターラインが無駄に美しい。


 今は北へ走っているわけだが、逆に南へと下って行けば、はるか空港の方までつながっているらしい。まだそこまで行ったことはないけど、いつか行ってみたいな。できればミカとふたりでとか。うふ。ツアー用名所リストの最後の方に、そっと入れとこうかな。


 うん・・・でもやっぱり、俺は組織の監視が気になって、ときどき振り向いたり見回したりした。むろんさりげなく、ミカに気づかれないように。


 どう見ても人っ子一人いない。ゆるふわなやつらめ。サイクリングロードは管轄外ってか? まあでもほっとした。


「あれなあに?」


 突然、前方のミカがチャリを停めて飛び降りた。


「なにこれすごい! かっわい~いっ!」


 ・・・カメが歩いていた。


     *


 説明要りますよね! 東京もんには信じられないだろうが、この街のサイクリングロードには、カメが歩いてます。


 これ普通です。っていうのも、ロードに沿ってその片側には、緑色のフェンスがずう~っと立っていて、その向こうは小川(てか用水路かな)なんですね。そこにお住まいのカメさんが、天候の良い日、気が向いたときに、ふと甲羅干しに上がってくるってわけ。まあ何が楽しいのか、カメの人生哲学はよく分かりませんけども。


 俺も初めて見たときには、さすがに仰天した。だが人間、慣れってのは恐ろしい。三回目には「またか」、五回目になるともう「あぶねえな。どけよ邪魔だぜ」っていう、冷ややかなリアクションになっちゃう。


 なので、今回は俺も冷静に、


「あ、あのね。指、出したら危ないよ。噛ま――」


 ぱく。


「ぎゃあああああああっ!」


 断末魔の叫びが田園地帯を切り裂いた。鳥が一斉に飛び立った。


「だから言ったのにっ!」

「遅いわよ! 痛いっ」


 カメは、ミカの人差し指の先を、見事にぱっくんちょとくわえている。野郎! ご令嬢に何という狼藉ろうぜきを! 俺は青くなった。


「待て! 無理に引っ張っちゃだめだっ。ますます強く噛んでくるぞ。スッポンと同じだ。死んでも顎を開かないぞっ」

「うう・・・どうしよう・・・」


 恐怖にゆがんで泣きそうなミカの顔を見たら、俺も全面パニック。慌ててググった。押すのか? 引くのか? こじ開けるのか? くすぐるのか? でも脇腹ないぞ! 人生でこれほど速くググったことはない。


「・・・やっぱり死んでも離さないらしいぞ。最悪、手術が必要になるとかっ」

「ひいいいいい」

「お! アルコールで眠らせると離すんだって! 消毒用だと強すぎるから、ブランデーがいいって書いてある」

(※このへんは、俺も取り乱していて記憶があいまいなので、カメに襲われた読者の方は、この情報を鵜呑みにせず各自でググってくださいね。自己責任でお願いします。)


 ええと――うちブランデーあったっけ? たぶんないな。親父はビールと日本酒しかやらないから。日本酒でもいいのか? 弱すぎる? それに、ここからだとちょっと遠すぎる。カメを指にぶら下げたまま、ミカにチャリを漕がせるわけにはいかない。


 コンビニは? ブランデー売ってるよな? あ、でも未成年には売らないか。でも事情を説明して――。そのときミカが言った。


「うちにブランデーある! すぐそこだから!」

「良かった!」


 ミカは、両手で――正確には右手の指一本、プラス、左手だが――カメを抱えながら、小走りに脇道へ入っていった。俺も、チャリ二台を引きずりながら、よたよたとその後に続いた。


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