(4)

 数秒ほど、どうしようか迷ってる感じの沈黙があった。続いて、バタバタと慌ただしい物音が暗室から聞こえ、わざとらしい上ずった声で、


「あ、山本く~ん? お久しぶり~。ちょっと待ってね。今現像してるから~」


 俺は礼儀正しく待った。と、窓がガラッと開く音がした。


 しまった! 慌てて入口の暗幕を引いて覗くと、赤い電球にぼうっと照らし出された内部は、既に、もぬけの殻だ。奥の窓があいている。俺は急いで教室からベランダに走り出た。非常用の縄ばしごが揺れていた。見下ろすと、時すでに遅し! 絵に描いたような脱兎が、中庭を、小走りで一目散に逃げてゆくのが見えた。背中にしょった写真集が、陽光を受けてきらりと光った。


「・・・こんな時くらい、ブレッソン置いてけばいいのに。・・・おや?」


 縄ばしごのそばに、ポケットティッシュが一個落ちていた。よく駅前で配っている広告入りのやつだ。だがよく見ると、広告の紙には、QRコードの下にただ一言、


いやしのライセンス〉


と書かれている。なにこれ? なんか不気味なんですけど。


     *


 やっぱりミカが電話に出てくれない! 脱兎の追跡を断念した俺は、こっちの件でも行き詰まっていた。6回目で俺の不安は最高度に達した。どうしたんだろ? 午後ももう遅い。時間が押してきている。このままでは謝罪はおろか、キャンセルもできないじゃないか。ご令嬢との約束をすっぽかすわけにはいかない。これはもう、急いで行くしかない。


 だがそうなると、白鳥先生に連絡して、例の組織にも知らせねばならない。正直気が重い。関わりたくない。でも無断で会ったのが後でバレたら、激ヤバなのは間違いない。俺はためらうことなく、面談の時にもらった先生のラインに送信した。「友だち」じゃないのに。違和感ありまくり。


「すみません。ちょっとさっき言うの忘れてたんですが、実は、今日の午後、ミカさんと約束してました。これから〈マモ~レ〉に向かいます。着いたらまた連絡します」


 ニコマークは付けなかった。


 北高は中心部寄りにあるので、市役所のバス停まで歩けば〈マモ~レ〉直通バスが速い。バスの中でチェックしたが、さっき送信したメッセージにはまだ既読が付いていなかった。


 そういえば徹夜明けで寝るとか言ってたな。これはまずいぞ。俺は焦った。空いているバスの後部座席に移って、電話してみた。・・・出ない。今日はみなさん、電話に出ないのが何かのトレンドなの? 4度目の電話で、やっと白鳥先生が出た。


「ほああ~い。山本か? うっさいな何度も! 寝てたよあったりめえだろ! 何事だよ。写真がインスタにでも出たのか?」

「いえ、実は今からミカさんと会うんですが――」


 先生の声から眠気が吹き飛んだ。


「今からだと!? バカかお前! 近づくなと、あれほど言ったのにバカかバカなのかバカかお前は! 昨日の今日だぞ? バカか? バカなのか?」


 バスの乗客が一斉に振り向いた。


「お怒りごもっともですっ。ですがやはり、いちおう組織の方々にもご連絡をお願い――」

「寝・て・る・よ! みんな寝てるよ! そんなことでいちいち電話しないでよ! 迷惑なの!」


 怒りのあまり女言葉に戻っちゃってますよ先生。


「は? でも必ず連絡せよと――」

「融通が利かないわねあんたも! そんなの自己責任で適当に処理しとけよ! 何かあったら後できっちり責任取らせるからな! 分かった? おやすみっ」


 それ理想の上司じゃないと思いますけど! 俺は拍子抜けした。何なのこの人たち。あんだけ脅しといて。これから乗り込んでゆく〈マモ~レ〉では、SWATに取り囲まれながら分刻みで組織に連絡を入れる、そんな感じのハリウッド展開を覚悟してたんだが。適当にやれとか言われても困るんですけど。大人がこんないいかげんじゃダメでしょ。公務員もっとちゃんとしろよ。


     *


 バスを降りて西口から入る。まだミカに連絡はつかないままだった。見まわしたがそれらしい姿は見当たらない。


 自転車屋のおじさんは、俺を見て、初め「誰?」みたいな顔をしたが、


「ああ昨日の! それがね、まだなんだよ。やっぱり部品が必要でね。今、取り寄せ中。お嬢さんに何度か電話したんだけど、つながらないんだ。番号、これで合ってる?」

「そうですね・・・合ってると思います」


 知らんけど。俺は確かめるふりをして、素早くケータイ番号をメモした。おじさん個人情報ごっつぁんです。こっちにも、後でいちおう掛けてみよう。もうわらをも掴む心境だった。


 ここにもいないとなると、いよいよミカは行方不明じゃないか? まさか、例の組織が大暴走して、彼女を拉致とかしちゃったんじゃないだろうな? ・・・まさかね。どう考えても、そんなの理屈に合わないし。とか思いながらも、俺の不安はいや増してきた。


 どうする? いちおう念のため、白鳥先生にも報告しとこうか? 電話じゃなけれれば眠りの妨げにもならんだろ。自転車屋を出たところで、俺は打ち込み始めた。


「たびたびすみません。ここにはまだ来てないようなんですが、何かご存じ――」


 と、そのとき、


「山本くん!」


 いきなり耳元でミカの声が響いた。俺が仰天して振り向くと、ミカの顔が近い! しかも、からかうようにケータイ画面を覗き込んで、


「白鳥さんって誰?」


 まずいっ!


「ここここれはですね。先生です! 担任の。進路のことで、ちょっとっ相談をっ」

「・・・なんか怪しい。ふふ。まあいいけど」


 制服姿のミカは、よく見ると上気した顔で、うなじの辺りが汗ばんでいる。テンション高めで、


「ずっと待ってた? ごめん! 急いで走って来たんだけど」

「いや、俺もついさっき来たとこです。あの・・・電話つながらなかったんだけど」

「あ! だよね! も~う参っちゃったのよ。ケータイ取られちゃって。先生に」

「あ。なるほど」

「校内で使っちゃダメだって。電源切れって。バカみたい。放課後なのに」

「校則うちと同じですね。でもまあ、うちはそんなに厳しくないけど」

「明日返すって。ほとんど嫌がらせよね。今まで反省文書かされてたの。反省文とか! 反省してないのになんで反省文? ほんとバカっぽい」

「はは」


 ミカの話はちょっと意外だった。てっきりVIPだから特別扱いで、校則なんかフリーパスなのかと思ってたんだが。どうやら、庶民と同様の教育方針みたいですね。まあ考えれば当然かな。変に優遇したりすれば、他の生徒にえこひいきとか言われるだろうし、浮いちゃうからな。南高だからいじめはないと思うが、うちと同じで、うっすらカーストっぽいのはあるだろうし。


「ちょっと座っていい? 疲れた」


 ミカは通路のベンチにちょこんと腰掛けると、右隣の場所をとんとんと叩いた。はいはい俺にも座れと。俺は素早くリスクを計算した。ベンチに並んで座っている写真が流出した場合、そのネガティブインパクトはいかほどでしょうか? 違法行為は含まれてないから、大丈夫だよな。たぶん。通路にも激写人の気配はないし。・・・俺が座るのをまだためらっていると、


「気になる? もうだいたい治った。いちおう包帯してるけど。見る?」


 どどどどうして俺の目線を? 俺は断じて迷信など信じて・・・あれ? 言いましたこれ? それよりミカさん、スカートたくし上げそうな勢いなんですけど! やめてそれ! まずいよ公共の場所で! SWATとパパラッチ、仲良く突入来ちゃう!


「いやいやいやいいですよそれっ! いいですからそれ!」

「なによそのリアクション。今さら。昨日もう、さんざん見たくせに」

「その発言、良くないですっ。誤解を招きますっ。さんざんとか見てませんからっ」

「そお?」


 ミカさん怖いです。無邪気なのか小悪魔なのか、どっちにでも解釈可能なその微笑み。ぞくぞくしますっ。・・・やむを得ず俺は座った。


「まったくもう。ほんとは着替えてから来るつもりだったのに」

「いや! 制服も、良くお似合いですっ」


 バカか俺。


「なんか変だよ今日。山本くん。昨日と態度、全然違う。喋り方とか。かしこまっちゃって。しゃちこばっちゃって」

「そうですかね?」

「そうよ。誰かになんか言われた?」


 鋭い。鋭すぎるぞミカ刑事。事実、誰かになんか言われまくりましたけど。


「・・・いや・・・でも、上遠野さんですよね?」

「ああ。そうなんだ。やっぱり」


 ミカの顔に、一瞬、影がよぎった。説明できないけど。寂しげというのか。諦めというのか。ほんの一瞬だけ。思い過ごしかな? でもすぐ元気になって、


「やっぱりね。分かっちゃった? だから苗字あんまり言いたくなかったの。必ず言われるから。『上遠野さんって、あの上遠野さんの?』とか。だから。もううんざりしちゃう」

「でも、お父さん有名人ってすごいじゃないですか。すごい人なんでしょ? 羨ましいですよ」


 ミカはきっとなって、


「怒るわよ山本くん。やめてよ。そのですます調」

「はあ。でも――」

「昨日の感じでいいじゃない。あれでいいの。あれがいいの! そんな他人行儀の口調とか、本気で怒るから!」

「いや他人ですから」

「それに、『お前』とか言われたの初めてだったから。ちょっと新鮮」

「は? そういうご趣味がおありで?」

「ちょっと! 何言ってるのよ。別にそう言われたいわけじゃないわよ。誰彼構わず、『お前』って呼ばれたいわけじゃないの。ただ、ちょっと新鮮だったの。山本くんの言い方が。ちょっとだけ。分かったぁ?」


 必死で説明するミカの様子がなんかおかしくて、俺は思わず笑った。つられてミカも笑った。


「なら、普段は何て呼ばれてるの? 君とか? あなたとか? お嬢さまとか?」

「なにそれ? お嬢さまとか。あるわけないじゃない、そんなの今どき。アニメじゃあるまいし」

「じゃ何て?」

「う~ん。改めて言われると、どうかなあ・・・。パパは『ミカ』よね。友だちは・・・女子はやっぱり『ミカ』かな?」

「じゃ俺も『ミカ』でいいすか?」

「ダメ。馴れ馴れしい。『上遠野さん』にしなさい!」

「ははあっ」


 俺はひれ伏した。


「・・・冗談だってば。『ミカ』でいいわよもう。昨日、苗字教えなかったし。だから『ミカ』で。あ、でもそうか、呼び捨てだと――やっぱりちょっとね。人が聞いたらあれだから。そうね・・・じゃ『ミカさん』で。人が聞いてるときは」


     *


 自転車の修理がまだだと知っても、ミカは、特に怒るでも落胆するでもなく、むしろなぜかちょっと嬉しそうだった。おじさんに挨拶して店を出ると、ママチャリの鍵を出しながら、


「ありがと。返すね、これ」

「いいよまだ。修理終わってからで」

「でも悪いよ。長くなっちゃうじゃない。1週間とか言ってたから」

「いいって。全然大丈夫」

「そう? ほんとにいいの?」


 彼女はちょっと迷っていたが、鍵をしまって、それからなにげなく思いついたように言った。


「じゃあね、お礼に、晩ご飯おごらせて。いいでしょ?」


 フレンチディナー来たあああっ。ミカさん、俺の心が読めたんですかね?


「何が食べたい? 詳しいんでしょ? ここのレストラン」

「ええと・・・」


 俺は、レストランを高い方から順に、正確に思い浮かべた。だが待て。高級レストランで、お二人さまディナー。インスタ映え度、高し。イコールヤバい。対外的に最も無難、かつスクープインパクト度の少ない場所は?


「・・・マックでいいです」


 くそ。後で、絶対、組織とやらに損害賠償させてやる。フレンチとの差額を。


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