第347話 Anisakis

 令和4(2022)年11月11日(金曜日)。

 トントントントン……

 台所キッチンで、小気味好こぎみよい音が鳴り響く。

 音源の正体は、

「……」

 エマが切るねぎのそれだ。

 チェルシーは、味噌汁を作り、キーガンは米をぐ。

 フェリシアは、刺身の担当だ。

サーモン、切りにくいですわね」

「フェリシア様、これはですね」

 近くで見守っていたシャルロットが助け舟を出す。

 BIG4が行っているのは、11月22日―――『いい夫婦の日』に予定している、パーティーで出す料理の練習だ。

 この日は、女官や給仕は食事を作らない。

 臨時休暇が与えられ、家族が居る者は家族で過ごし、独身者は友達と遊ぶなり、家でゆっくり過ごす日でもある。

 これは記念日が設立された際、逸早いちはやく当時の大使が注目し、臨時休暇に加えたのだ。

 日本より早婚な風潮であるトランシルヴァニア王国であるが、結婚しない者も居る。

 結婚のするしないは自由だが、国としては、


・多子化

・内需拡大


 などの為にも出来たら結婚して頂きたい所だ。

 時々は一家で調理するのだが、食中毒防止や栄養管理の観点からは、基本的には調理師が作っている。

 しかし、彼らにも休みが必要だ。

 以前だったら一介の王族相手に出していたのだが、オリビアが即位してからは、以前よりも更に調理に気を付ける必要が出てきた。

 調理中は常に気が抜けず、という精神的負担が祟り、休職する職員も多い。

 その為にも、この手の休みは必要不可欠なのであった。

 BIG4の指導役であるシャルロットは、まるでしゅうとめのように厳しく見る。

「チェルシー様、味噌汁は、煮立てるのはNGです」

「え? そうなのですか?」

「沸騰させてしまうと、香りが飛び、食べ頃ではなくるのです」

「「「「なるほど」」」」

 いつのまにか、エマ、フェリシア、キーガンもメモを取っている。

 貴族階級出身者である彼女たちは、あまり料理の経験が無い。

 キーガンも軍の所属だが、野戦食レーションの簡単な調理は経験があれど、台所を本格的に使ったことはない。

 シャルロットは専属調理師という訳ではないが、煉からの信任を得て、一家の中では、1番料理を作っている方だ。

 時には、皐月の指導の下、媚薬を煉の料理に仕込む場合もある。

「遅くなりました」

 仕事を終えたオルガも加わる。

「お疲れ様です。殿下は?」

「陛下、皐月様、司様、シャロン様、レベッカ様、ミア様、ヨナ様と私室にいらっしゃいます」

 ミア、ヨナ、レベッカが一緒に居る所を見ると、勉強会の真っ最中なのだろう。

 疲れを癒しに行きたい所だが、煉には煉の時間があるし、何より自分は愛人だ。

 夫婦の時間を邪魔してはならない。

「では、オルガさんには、精米して頂きましょう」

 溢れる想いを必死に抑えつつ、シャルロットは指導に熱を入れるのであった。


 夕食の料理が進む中、

「きゃあああああああああああああああああああ!」

 突如、フェリシアが飛び跳ねた。

 包丁はその弾みで吹っ飛び、壁に刺突する。

「「「「「!」」」」

 驚いた4人は、最初に包丁を。

 次に俎板まないたを見た。

 そして、皆、声を失う。

 さばの中から、何か白いものがうごめいていたから。

 フェリシアは、腰が抜けたようで動けない。

 シャルロットの腰に抱き着いたまま、尋ねる。

「シャルロット様!? こ、これは?」

「アニサキス、よ。初めて見ました……!」

 恐れおののき、彼女も足腰が立てなくなる。

 日本でも危険視されているが、海外では、更に怖がられているのが、これだ。

 特に被害を受けているのはスペインであり、イギリスに在るスコットランド・アバディーン大学の研究者によれば(*1)(*2)、


・年間約8千件(日本では、年間2千~3千件)

・水揚げされた直後の鯖の39・4%(調査場所:グラナダの複数の市場)

・スーパー5店舗で販売中の鱈の仲間の魚の半数以上が陽性


 この他、イギリス(*3)でも症例が報告されている(*2)。

 トランシルヴァニア王国でも日本食はブームで、スペインやイギリスのような症例は、報告されている。

 近年はその名前が有名になった為か、日本では減少傾向にあり、スコットランド・アバディーン大学の研究者の言う年間2千~3千件ほどはなく、


 平成30(2018)年     478件(*4)

 平成31/令和元(2019)年 338件(*4)

 令和2(2020)年     396件(*4)


 と、ここ3年間は、多くても約500件、少なくても約340件程度に落ち着いている。

 エマは、震えつつ尋ねた。

「シャルロット様、改善方法は?」

「ええっと、確か……」

 対処方法は学んだ筈なのだが、気が動転して思い出せない。

 シャルロットが思い出そうとしているのは、EUが紹介している、『生食用の魚介類は、-35℃で15時間以上又は-20℃で24時間以上の冷凍』(*4)なのだが、1単語も出てこないのが、こういう滅茶苦茶焦った時であろう。

 先ほどまで騒がしかった台所が、叫び声を機に静まり返った為、心配したエレーナが見に来る。

「どうした―――い!」

 エレーナも仰け反る。

 テレビ番組などでその存在を知ってはいたが、いざ目の前にすると、動けない。

 女性陣がガタガタと震える中、アニサキスは、鯖の中に戻ろうとする。

「あ」

 チェルシーが声を上げるも、それ以上は出ない。

 異常事態にキーガンは、這う這うの体で床に落ちていたスマートフォンに手を伸ばす。

 画面がひび割れたが、今はそのショックよりも目の前の軟体生物の方が問題だ。

 そして、電話帳から煉の名前を探し出し、震える指で発信ボタンを押すのであった。


「ほぅ、出たか」

 煉は、慣れた手つきで鯖の内臓を取り除いていく。

 アニサキスの予防方法の一つに『内臓を食べない』(*5)というものがある。

 これは、アニサキスは、主に内臓の表面に寄生しているからだ(*5)。

 その後、鮮度の低下と時間経過と共に筋肉(可食部)内へ移動する場合がある(*5)。

 この為、購入時は、鮮度が落ちないように氷や保冷剤で冷えた状態を保たなければならない(*5)。

 内臓を除去後、煉は、フライパンに火をつけ、熱した後、鯖や同様の処理を行った、

・秋刀魚

・鯵

・鰯

ヒラメ

・鮭

カツオ

烏賊イカ

 などを放り込んでいく。

 これらは全て、アニサキスが居ることがある魚介類だ(*5)。

「こういう時は加熱料理だよ。中心部分が60度で1分以上なら幼虫は死ぬ。それでも生が良い時は、-20度、24時間以上冷凍すれば良い」(*5)

 おずおずと、シャルロットが挙手した。

「調味料や噛むことは予防策と聞きましたが」

「ありゃ迷信だ。農林水産省も否定しているよ」

・酢

・醤油

山葵わさび

 でアニサキスは死ぬ、「噛めば大丈夫」などとされているが、前者は、はっきりと否定されている(*5)。

 後者も、アニサキスは、

・とても小さく、どこに潜んでいるか分からない

・表面はなめらかで丈夫、かつ細い糸のような形状の為、噛み切ることは困難

 と、こちらも全否定だ(*5)。

 手際よくアニサキスを処理し、焼き魚を作っていく煉に対し、女性陣は、

「「「「「「……」」」」」」

 感心と恥ずかしさの感情でいっぱいであった。

 

[参考文献・出典]

*1:CNN                         2020年5月11日

*2:J-CASTニュース                    2017年5月15日

*3:英医師会誌BMJウェブサイト版に付属する症例報告 2017年5月11日

*4:厚生労働省 HP

*5:農林水産省 HP

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