第333話 モコシ計画

 その日の夜。

 オルガは用意された部屋の浴室で、温水を頭から浴びていた。

「……」

 普段は微笑で本音を隠しているのだが、彼女も人間だ。

 隠蔽していた本音が漏れだす。

「どうしてよ……どうしてよ」

 力なく鏡を叩く。

 オルガが意気消沈なのは、煉が原因だ。

 彼がオリビアと婚約した時、ウクライナ保安庁スルージュバ・ベスペークィ・ウクライィーヌィ附属対テロリズム本部は逸早いちはやく反応し、宇ト友好の為にを進めていた。

 それが加速したのは、ロシア系日本人のエレーナとの結婚だ。

 彼女は、旧ロシア帝室の末裔でクレムリンとも繋がりがあり、ロシアを仮想敵国としているウクライナには、エレーナを通じて日本やトランシルヴァニア王国がロシアと関係を深めることには反対であった。

 幸い日露関係、あるいは、ト露関係がそれほど友好関係になる事は無く、宇露戦争により、その関係は一気に白紙化した為、事なきを得たのだが。

 地政学上、日本とトランシルヴァニア王国を重視しているウクライナは、両国をどんな方法であれ繋ぎ止める必要があった。

 その方法が、政略結婚である。


・出自の家格が高位(→ハプスブルク家の末裔)

・前世の煉を知っている

・軍人


 などの点から、オルガがその候補に選ばれ、派遣されたのが真相である。

 その為には慣れない礼儀作法や料理などを猛勉強し、何とか出向という形で潜入出来た訳だが、正直精神状態はズタボロだ。


・慣れない異国での生活

・周りが王侯貴族の中、庶民出身の違和感


 そして、何より最大の精神的負担が、最近亡くなった曾祖父のことだ。

 大好きであった曾祖父が、遺書も残さず自刃したのだ。

 警察の調査では、「認知症と老いていく自分に嫌気が差してのことが契機になったのでは?」という話だが、オルガは余り納得出来ていない。

 元気だった曾祖父が、急に自殺したのだ。

 無論、病気や老いなどは本人にしか分からない為、真相は分からないのだが、それでもいきなりは、納得出来ない。

(限界かも)

 過剰なストレスが心身にのしかかる。

 オルガは、そのまま力なく倒れた。

 シャワーヘッドから出る温水が、その肢体を濡らしていく。


 消灯時間後、ウルスラとキーガンは、公邸内を見回る。

 巡回は2人1組で行われる駐在武官の重要な任務の一つだ。

 以前は煉も行っていたが、オリビアが女王になった後、「流石に王配にはさせることができない」と王室からの要請により、彼は外れ、現在は、

・ウルスラ

・キーガン

・エレーナ

・スヴェン

 の4人が日替わりで行っている。

「……あれ?」

「電気点いていますね?」

 2人は、オルガの部屋の前で立ち止まった。

「消し忘れですかね?」

「うーん?」

 2人は顔を見合わせて、ウルスラがインターホンを押す。

 ピンポーン。

「「……」」

 1分ほど経っても出てこない。

 それどころか無反応だ。

 2人は眉を顰めて同時にある考えを思い浮かんだ。

 出向、とはいえどもオルガは、外国の軍人である。

 居るように見せかけて、諜報活動に出掛けて実は不在なのかもしれない。

「「……」」

 念の為、2人はグロックを抜き、合鍵を使って開錠する。

 そして、ウルスラが指を3本立てて、カウントダウン。

 直後、キーガンがドアノブを捻り開け、ウルスラが侵入した。

「……」

 玄関やそこから見える居間は、誰も居ない。

 キーガンが、扉越しに声を掛ける。

「……どうです?」

制圧クリア。玄関と居間は無人よ」

「後は台所キッチンと浴室―――ん?」

 ザアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!

 豪雨のような水の音が浴室から聞こえる。

 公邸の各部屋は、一部を除き同じ間取りなので、2人は、警戒しつつも浴室に向かった。

 ガララララ!

「「!」」

 思いっきり扉を開けて、浴室に入ると、そこには、青褪めた顔で倒れているオルガが。

「キーガン!」

「は!」

 キーガンは、素早く出ていき皐月を呼びに行く。

 一方、ウルスラは、シャワーを止めた後、脈などを診た。

(大丈夫そうね……でも、心臓がヤバい)

 誤射や暴発を防ぐ為にグロックを居間の机上に置いた後、ウルスラは心臓マッサージを始めた。

(何なんのよ! 全くもう!)


 深夜であったが、急患にも対応することが出来る皐月は、この時間でも大抵起きている。

 熟睡中でも1コールで目覚めることが出来るくらい目覚めが良い人間だ。

 すぐにオルガの下まで行き、指示を出す。

「ウルスラ、上出来よ。何とか脈が戻っているわ」

「そうですか」

「まだ予断を許さない状況だから担架で運んでおいて。キーガン」

「は」

 ウルスラとキーガンは、力を合わせて、オルガを担架に乗せる。

 そして、皐月と共に診察室に急行するのであった。


 健康診断では何も引っかからなかったが、精神的負担は、名医でも時に見逃すものだ。

 家族から見ても、ピンピンしていた者が次の日、自殺している例もある。

 近年でも、芸能人でもそのような事例が見受けられる為、精神病を診るのは非常に難しいのである。

「……」

 MRIなどの結果をて、皐月はお手上げだ。

「わかんないわ。ただ、ストレスが半端ないみたい」

「そうか」

 寝間着のまま煉は、首肯する。

「大使館に帰す?」

「連絡した方が良いかもな。ウルスラ」

「は」

 ウルスラが出ていこうとした時、

「ん……」

 オルガが目覚めた。

「……少佐?」

 そして、煉を視認すると、病衣をはだけ抱き着く。

「ん?」

「少佐♡」

 妖艶に笑いつつ、オルガは頬にキスした。

「あ」

 ウルスラが慌てて止めに入ろうとするも、時すでに遅し。

 そのまま唇を奪われる。

「えへ♡」

 満足したのか、オルガは微笑んだ後、そのまま煉の腕の中で寝息を立て始めた。

「……えっと皐月、今のは?」

「多分、ストレスの原因は貴方じゃない?」

「俺?」

「じゃなきゃ『少佐』って言いながら、キスしないでしょ?」

「そりゃそうだが……」

 言葉を発しないままキスしていたら、単純な寝ぼけな可能性があるが、それでも今回は、煉を意識してのことだ。

 オルガは幸せそうに眠っている。

「そのまま愛人にしちゃえば?」

 ケラケラと皐月は笑うも、煉は穏やかではない。

「馬鹿言え。客人だぞ? 国際問題に―――」

「ウクライナはそう望んでいるのかもよ?」

 女の勘が働いたのか、皐月には既にお見通しであった。


 ウクライナの大統領、ステファンは続々と集まる情報に満足していた。

 無精髭ぶしょうひげにラフなTシャツは、大凡おおよそ、多くの日本人が想像する国家元首には、ほど遠いだろう。

 このスタイルは戦争勃発時、最前線に立っていた際のままで、その後、イメージチェンジする時機タイミングが無く、国民からの受けも良い為、このままの状態であった。

 元芸人でドラマの中で大統領を演じていたことから、その手腕は疑問視され、戦前の支持率は2割台と早くも死に体レームダックを国内外から指摘されていたのだが、戦争では最前線に立ち、国民を鼓舞していることが評価されている。

 もっとも、「元芸人」という経歴キャリアが注目されがちの所謂いわゆるタレント政治家であるが、本人はウクライナを代表する高等教育機関の一つであるキエフ大学を首席で卒業している為、厳密にはインテリ層でもある。

 又、2022年3月23日に日本の国会で演説し、多くの日本国民の心を捉えたように演説も巧みだ。

 今では英雄視されているトルーマンも副大統領から大統領に昇格した際は選挙を経験していないことから地味な感じもあり、国民からも高い支持率とは言えなかった。

 が、太平洋戦争でアメリカを勝利に導いたことから一気に人気者になり、2期目の選挙でも勝った例があるように。

 時に戦争は、政治家の運命を変える。

 ステファンもまた、国は違えどトルーマン以来の成功者であった。

(《モコシ》が我が国に繁栄をもたらしますように)

 オルガのウクライナ側の暗号名コードネームは《モコシ》である。

 スラブ神話の女神(*1)であり、その名前は、ロシア語の『湿った』『濡れる』に由来する(*1)。

 その為、豊穣神とされる(*1)。

 オルガの政略結婚計画は、戦前から親欧米派の間で立案され、「結果次第では、ウクライナに豊潤を齎す」との意味を込めて、その女神の名前があてがわれているのであった。

(この国を守り抜く)

 決意溢れるその顔は、愛国心に満ち満ちていた。

 

[参考文献・出典]

*1:ワーナー エリザベス『ロシアの神話』訳・斎藤静代 丸善 2004年

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