第272話 廃太子と老人

 2022年7月18日(月曜日)。

 午前0時。

 ディートリッヒの寝室の前に、多数の武装した男達が集まっていた。

「「「……」」」

 皆、個人が特定されないように目出し帽フェイスマスクを被り、防弾ベストを着用し、その手には、グロック19を持っていた。

 グロック19は、SAT特殊急襲部隊が制式採用されている、とされているものだ。

 彼等の正体は、王宮警察。

 日本で言えば、皇宮警察に当たる警察機関である。

 普段は、王宮を守っている警察官が、皇太子―――然も、王位継承権第1位の寝室前に武装している時点で、異常事態であることは言うまでもない。

 先頭の男が、手話でカウントダウンを行う。

3ドライ2ツヴァイ1アインス0ヌル

 そして、

「GO!」

 と叫んだ。

 と同時に横っ飛びし、扉は後方に控えていた者達が持っていた大きな丸太で打ち破る。

 ドーン!

 大きな音と共に扉は、後ろに倒れ、数瞬後、警官隊が雪崩れ込む。

 文字通り、寝込みを襲われた形のディートリッヒ。

「! 何だ! 不敬だぞ?」

「殿下は、売国奴ではありませんか?」

「! なんだと?」

 責任者の言葉にディートリッヒは、眉をひそめた。

「殿下の言動を問題視した陛下の御命令により、この度、逮捕に来ました」

「陛下? ……何の話だ? 冗談にしては不敬が過ぎるぞ?」

「陛下のお名前を出しても、まだ冗談とお思いで?」

「……」

 しまった、とディートリッヒは内心舌打ちする。

 今のは、流石にヤバい発言だ。

 アドルフは退位を宣言しただけで、今はまだ国王である。

 にもかかわらず、その名を出しても、信じない=軽視している、と同義なのは、明白であった。

「……殿下、残念です」

 責任者は、部下達に目配せすると、彼等は、一斉にガスマスクを装着する。

 最後に責任者が装着し終えると、部下の1人が大きなガスボンベを持ってきて、開封した。

「!」

 シュウウウウウウウウウ……

 空気が漏れ出る音が出てくる。

 同時にディートリッヒに強烈な睡魔が襲った。

 吐き気もある。

「うぐ……」

 喉を掻きむしりながら、嘔吐した。

 胃酸の臭いが寝室を包む。

「……ぐへ」

 そして、吐瀉物としゃぶつの海に倒れるのであった。


 その日の朝。

 朝食中のアドルフの下に執事が耳打ちする。

「(陛下、廃嫡はいちゃく、終わりました)」

「……ふむ」

 口元を布で拭いた後、アドルフは、問う。

「公表日は、いつになる?」

「明後日、例の件が終わり次第、発表の流れになります」

 大事なことなので、早めに国民に伝えたいのだが、自分の出自を公表したばかりだ。

 続けて公表すると、国民に更なる衝撃を与え、王室の権威が揺らぎかねない。

 明日のワルキューレ作戦後に準備をしているのは、国民の目がワルキューレ作戦に向いている間に発表し、衝撃を和らがせる、というのが、政府の計画である。

 アドルフも政府の考えに同意し、今回の計画には、一切、介入していない。

 何か提案があっても、政府を信任し、《そうせい候》と呼ばれた毛利敬親(1819~1871)の様に同意するまでだ。

「……分かった」

「失礼しました」

 執事が下がった後、アドルフは、ノンアルコールの赤ワインを見た。

「……」

 連想しているのは、血だ。

(王位継承者を無慈悲に切り捨てることが出来る私は……やはり、悪魔の血を引いているのだろうな……悔しいが)

 そして、人知れず落涙するのであった。


『少佐、廃嫡、終わりました』

「有難う御座います。これで、安心出来ます」

 王宮警察のトップと電話会談した後、煉は大きく息を吐いた。

(後は、大尉か……)

 外国なので、当然、煉の権力は、使い辛い。

(……物は試しだな)

 大きく背伸びして、煉は、部下を呼ぶ。

「スヴェン」

「は」

 喜々として、机の前に立つ。

「例の作戦ですか?」

「ああ」

 煉は、裏社会経由で入手した小瓶を見せる。

 ラベルには、『Bacillus anthracis』―――炭疽菌たんそきんと印字されていた。

「……危険ですね?」

「本当だよ。種類は、『エームス』だ」

「!」

 その危険度の高さにスヴェンは、身震いした。

 炭疽菌には、1千以上、種類がある(*1)のだが、その中でも危険で知られているのは、『エームス』と『ボラム』である。

 前者は、米軍が生物兵器として開発し、2001年の炭疽菌テロ事件でも使用された(*2)。

 後者も英軍が開発実験し、イラクが所有していたものである(*2)。

 エームスに関しては、2001年のテロ事件で死者5、負傷者17人を出した。

 特に炭疽菌が肺に侵入した場合は、肺炭疽症を発病し、

・高熱

・咳

・膿

・血痰

・呼吸困難

 等と言ったインフルエンザのような症状で苦しむことになる(*2)。

 未治療の場合の致死率は、90%(*3)と高く、これは、エボラ出血熱のそれ(40~70% *2)よりも上だ。

「酸の意趣返しが、炭疽菌なんですね?」

「そうだよ。これを反政府軍名義で送るんだ」

「!」

 全てを察したスヴェンは、煉を二度見した。

「……また、内戦が激化しますね?」

「そうだな」

 対岸の火事のように煉は、答えた。

「……御言葉ですが、師匠は、民主主義者ですよね?」

「そうだよ」

「……同じ民主主義者が弾圧されますが?」

「そうなるな」

「……良心の呵責は無いんですか?」

「あったら、マザー・テレサになってるよ」

「……」

「スヴェン、思い違いしているのなら、はっきり言うぞ?」

「!」

 煉に腕を掴まれ、スヴェンは、そのまま彼の膝へ。

「……師匠?」

「俺はこの国の外交官だ。他国の人間が何人死のうが知ったことではない。大事なのは、国益と国民の命だ。シリアの民主化云々は、国連やアメリカの仕事だよ」

「……」

 前世で煉は、シリア民主軍と共闘したこともあるが、あれは仕事であって、シリアには酷な言い方になるが、何にも思い入れが無い。

 その考えは、外交官になった今でも変わっていない。

 自分が民主化を支援しても、シリアにはロシアがついているし、万が一、ロシアが弱体化し、シリアが民主化を達成しても、恐らくイラクやリビアのような内戦が待っていることだろう。

 長らく独裁下にあった国が急に民主化しても、そのような前例がある以上、失敗する可能性が見えている。

 なので、最初から期待していないのだ。

 スヴェンを抱き締めつつ、煉は囁く。

「人道支援は、その専門分野の人々に任せたら良い。シリア問題に介入して、火の粉を被る訳にはいかないよ」

「……はい」

 煉の意見にスヴェンは、少し理解した。

 逆に言えば、シリア問題がトランシルヴァニア王国に国益をもたらすのであれば、民主派を支援する可能性もあるだろう。

 もっとも、一介の外交官(正確には駐在武官)たる男が、民主派を視線し、ロシアの怒りを買えば、それこそ不忠であり、無能である。

 普段、女性陣に優しく甘々な煉だが、政治に関しては、冷酷とも言うべき非情さで切り捨てるのは、流石は、現役の外交官であると言えるだろう。

 情に流されない。

「あ♡」

 煉はスヴェンを抱きつつ、翌日に控える、ワルキューレ作戦に思いを馳せるのであった。


 2022年7月19日(火曜日)。

 午前7時。

 シリアの隠れ家に居たブルンナーの下に茶封筒が届く。

「……なんだこれは?」

 住所は、リビアから。

 反米を掲げるイスラム過激派の名前が記されていた。

 清拭をする介助者が考える。

「激励の手紙なのでは?」

「激励か……老い先短い儂の為に?」

 首を傾げつつ、開封すると、

「!」

 中身に紙は同封されていた。

「……なんだこれは?」

 その文面を読んで、ブルンナーは、違和感を覚えた。


『THIS IS NEXT.(次はお前だ)

 TAKE PENACILIN NOW.(すぐにペニシリンを用意しろ)』


 暫く考えて、答えに行き着く。

「……! 糞、炭疽菌だ!」

 慌てて、口と鼻を手で塞ぐが、時既に遅し。

「……ぐは!」

 使用人が嘔吐し、倒れた。

 次にブルンナーも嘔吐する。

 何とか机にしがみつくも、呼吸困難で苦しむ。

 熱も平熱から40度に上がったような感覚だ。

 何とか部屋を出ようとするも、手が届かない。

(……駄目か)

 100歳以上の高齢者だ。

 体力も免疫力も落ちている。

 その場で力なく倒れこみ、ブルンナーは、息を引き取るのであった。


 日本時間同日。

 午後10時。

 就寝していた煉は、スマートフォンの振動で目覚めた。

「……」

 ヘッドライトを点けて、相手を確認する。

(シリアとの時差は、7時間……向こうは、午後3時か)

 同衾どうきんしている司を起こさないよう、抜き足差し足忍び足で退室。

 中庭で、未だ鳴るスマートフォンに応答した。

「はい、もしもし?」

『小僧、やってくれたな?』

「……大統領?」

 シリアの内通者かと思いきや、相手はロシアの大統領、イゴールであった。

『駒を殺したな?』

「何のことです?」

『貴様が有能なせいで、我が国と友好国は、重要な駒を一つ失ったぞ? その代償は、分かっているよな?』

 怒り心頭である。

 然し、煉は欠伸を噛み殺しつつ答える。

「大統領、そう仰らずに。演技なのは、バレバレですよ?」

『そうか?』

 一転、イゴールの口調は明るくなった。

「こっちは、国際問題を避ける為に、ああしてイスラム過激派の名をかたったんですよ。逆に感謝して下さいよ。大義名分が出来たんですから」

『お前は、サイコパスだな』

 今度は、ドン引きした声だ。

 元スパイでも、これほど感情表現が豊かな人物は珍しいかもしれない。

 それだけ煉を信用している、という事かもしれないが。

『全部、お前の手の上で転がされている気がしてならんよ。ラスプーチン様は何処まで見えておられる?』

「何も。シリア全土をシリアとロシアの連合軍が制圧に走ることくらいですかね?」

『お前は、悪魔だ』

 イゴールは吐き捨てると、電話を切った。

 計画していることが当てられたのかもしれない。

(ロシアに行った時、ウォッカしこたま飲まされるかも?)

 出張で訪露が無いことを祈りつつ、煉は愛妻の眠る寝室に舞い戻るのであった。


[参考文献・出典]

 *1:「サリン事件の真実」アンソニー・トゥー 新風舎 2005年

 *2:ウィキペディア

 *3:国立感染症研究所 HP 2018年4月25日

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