第269話 横浜港の謎

 皐月が日本医師会を通じて、1940年代以降の子供の予防接種の記録を調べ、それをフリッツやモサドに提供。

 同時に当時の外務省の記録も照会し、結果が判ったのは、令和4(2022)年7月12日(火曜日)の事であった。


『時期          :在日ドイツ人

 昭和20(1945)年終戦時点:3千人程度(*1)

 昭和22(1947)年    :送還開始(*1)

              →残留者は、700~800人(*1)』


 戦後、ドイツは東西に分断され、東側は共産国となった為、送還後に住んだのは西ドイツの可能性が高い。

 然し、戦う民主主義の下、民衆扇動罪を作り、ナチズムの復活を警戒している。

 そんなドイツで長らく生活出来たとは考え難い。

 又、ナチ・ハンターも居る為、実在した場合、

・送還後に再び日本に戻った

・日本での残留を選んだ

 事が考えられる。

 この記録も先述の両者に複写を送る。

 そして、夕刻。

 煉が下校した時機で、フリッツから電話がかかって来た。

『情報提供有難う御座います、少佐』

「何か分かりましたか?」

『はい、冷戦期、BND連邦情報局国家保安省シュタージが調査していました。然し、両者とも「虚報」と判断し、撤退しています。モサドにも連絡したんですか?』

「はい。貴国には申し訳無いのですが、我が国は、イスラエルとこの手に関して協定を結んでいる為、どうしてもナチス関係は、イスラエルが優先されます」

 国内にユダヤ人の自治区を作り、早くにイスラエルの国家承認を行い、果ては、イスラエル国防軍ツヴァ・ハ=ハガナ・レイスラエルの駐留を認めるほど、親以感情が強いトランシルヴァニア王国だ。

 ドイツよりも重要視するのは、当然の事だろう。

『貴国の事情は理解しています。モサドの反応は?』

「情報提供しただけで、何もありませんよ」

 あっても言わない、と煉は心の中で舌を出す。

 フリッツは信用出来る人物であるが、100%ではない。

 BfV連邦憲法擁護庁の内部には、共鳴者が居る可能性がある。

 その為、念には念を入れて、情報は知っていても、より機密性が高いモサドの方が信頼出来るのだ。

『……そうですか。では、日本政府は?』

「内閣情報調査室や公安が調べています。但し、発見しても、人権の観点から、公表はしないでしょうが」

『そうですね。それもありだと思います』

 人権は守られなければならない。

 ヒトラーが大罪人である事は確かだが、その子孫も同じ罪を背負うのは、連座制の時代で無い限り、認められないだろう。

 フリッツもその点については、理解していた。

 各国政府が出来る事は、本人を保護し、ネオナチから守る事くらいだろう。

「長官、Xデーまでは残り1週間となりましたが、貴国は耐えれますか?」

『耐えてみせます。我が国は、連合軍に破壊されましたが、日本と同じく、奇跡の復興を遂げ、東ドイツを吸収しても尚、耐えました。今回も耐えてみせます』

「分かりました」

 その時、煉の仕事用のスマートフォンの下にメールが届く。


『送信者:神に仕える者サムソン

 件名 :無題

 本文 :ライヒスアドラーを多数、討ち取った。

     今回の戦果については、貴殿も貢献している。

     この為、我々は政府に掛け合って、貴殿に勲章を授けたい。

     貴殿の返答次第では、勲章が授与される。

     色よい返事を望む』


 分かり難い言い回しだが、要はナチスの残党を沢山、拘束或いは処刑したようだ。

 メールは複写コピー及びスクリーンショットが出来ない仕様になっており、開いてから10秒ほどで自動的に消去された。

 証拠を残さない。

 情報機関としては、当然のことだ。

「……」

 煉も同様の仕様で「丁重に断る」とだけ送り返す。

 イスラエルとは友好関係にありたいが、勲章は必要ない。

 これまでトルコ、ロシアから贈られているが、煉から望んだものではなく、向こうが勝手にしたものだ。

 そもそも煉は、アドルフ国王直属の兵士であって、彼の許可無く、勲章を貰うのは、不敬に当たる可能性がある。

「……」

『少佐?』

「! ……ああ、何でもないです。それではまた」

 電話を切った後、煉は大きく息を吐いた。

(……さて、動くか)


 ファイル化された戦犯の名簿をナタリーと一緒に見る。

「……この赤字は?」

『モサドが処刑した者。青字は、テルアビブまで連行出来た者』

「……赤と青の基準は?」

『抵抗された者、又は、モサドにとって無価値、と判断された者よ』

「……成程な」

『その他、自殺者や拘束直後に、心臓発作で起こして死んだ者も居るから、全部、モサドの所為、という訳ではないけどね』

「……」

 ナチスの残党は、その過去から相応な最期を遂げることがある。

 20万~30万人もの人々が殺害されたソビボル強制収容所(正確な犠牲者数は、歴史家等の間で見解が異なる)で悪名高い看守として知られている、グスタフ・ワーグナー(1911~1980)は、戦後、ブラジルに逃亡し、潜伏生活を送っていたが、後に正体と過去の悪行が露見すると、ドイツ人社会から村八分を受け、最期は自殺(*2)。

 この他、戦犯の末路は、以下の通り(*4)。


①アイヒマン(1906~1962)

 1950年、アルゼンチンに逃亡。

 1960年、逮捕。

 1962年、絞首刑。


②クラウス・バルビー(1913~1991)《リヨンの虐殺者》

 1951年、ボリビアに逃亡。

 1983年、フランスに連行。

 1984年、裁判開始。

 終身禁固刑の判決を受け、その後、病死。


③エドゥアルト・ロシュマン(1908~1977)《リガの屠殺人》

 1947年、大晦日に逮捕されるも護送中にアルゼンチンに逃亡。

 1960年、西ドイツが逮捕状を出す。

     然し、アルゼンチンが政情不安定だった為、有耶無耶に。

 1977年、パラグアイに逃亡を図り、その途中で病死。


④エーリヒ・プリーブケ(1913~2013)

 戦後、アルゼンチンに逃亡。

 1994年、逮捕。

 1995年、イタリアで裁判開始。

 1998年、終身刑の判決を受けるも、

・高齢(当時85歳)

・体調不良

 を理由に拘禁の許可が出ず、弁護士宅で刑期を過ごす事になる(*3)。

 2013年、百寿ひゃくじゅ(100歳)で死去(*3)。


➄ポール・トゥヴィエ(1915~1996)

 戦後、カトリック教会に潜伏。

 1985年、潜入捜査で居場所が突き止められ、同年、逮捕。

 1994年、無期刑確定。


⑥ヘルベルトス・ツクルス(1900~1965)《リガの処刑人》

 1941年、ルンブラの虐殺に関与(関与を否定する歴史家も居る)。

 戦後、ブラジルに逃亡。

 1965年、ウルグアイでモサドにより暗殺される。

 1985年、モサドが暗殺を認める。

 

⑦クルト・リシュカ(1909~1989)

 1942年、ドイツ占領下のフランスでユダヤ人3万人の殺害に関わる。

 戦後、戦犯を取り締まる法律が未整備だった為、ドイツで悠々と暮らす。

 1978年、法整備により逮捕。

 1980年、懲役10年の判決が下るも、その後、「病気」を理由に釈放。


⑧ヘルベルト・ハーゲン(1913~1999)

 1955年、フランスで終身強制労働刑を受けるも、仮釈放で西ドイツに戻る。

 1979年、ケルン地裁から告訴。

 1980年、12年の禁固刑。


⑨フランツ・シュタングル(1908~1971)

 1940年、T4作戦責任者に就任。

 戦後、イタリアやシリアに逃亡。

 1951年、ブラジルに逃亡。

 1961年、逮捕され、西ドイツに移送される。

 1970年、終身刑判決

 

 この為、逃げおおせた大物は、


 ヨーゼフ・メンゲレ (1911~1979     ブラジルで水難死)

 アロイス・ブルンナー(1912~2001?/2010? シリアに逃亡)


 の2人だけだろう。

「100人の方は?」

『約80年前のことだからね。そう多くは無いわ』

 日本でも太平洋戦争を知る者は、少なくなっている。

 時間の経過は、戦争の記憶を薄れていくものだ。

『目ぼしい人達は、公安がリストアップしたのだけれど、殆どが故人よ。生きていても、認知症を患っている可能性があるだろうし』

「……だろうな」

 現代、認知症は、癌同様よく聞く病気だ。

 発見した場合、認知能力が低下している可能性がある為、保護も難しいかもしれない。

『ただ、1942年の夏にエヴァ・ブラウンがドレスデンで産んだ男児の消息が掴めたわ』

「!」

 ヒトラーの子供は、2通りの説が唱えられている。


 ①ジャン・マリー=ロレ(? ~1985)

 ヒトラーが第一次世界大戦中、フランスで知り合った現地人女性との間に儲けた(*4)。

 彼の事は、1978年、ミュンヘン現代史研究所の歴史家、ヴェルナー・マーザー(1922~2007)が発表(*4)。

 余談だが、マーザーは後年、『ヒトラー日記』贋作説を最初に主張した人物した(*5)。

 その後、多くの矛盾点が露わになり、発表者であるマーザー自身も1979年以降、この件に関しては沈黙を貫き、ロレは1985年に死亡(*4)。

 2008年、DNA検査が行われ、「ロレ=ヒトラーの子供」説は否定された(*4)。


 ②名前不明

 1942年夏、エヴァ・ブラウンがドレスデンで男児を出産。

 この子供がヒトラーの実子の可能、という説がある(*6)。

 ①に関しては、DNAで否定され、矛盾点も多い為、歴史学的、科学的に否定されているが、②については、その詳細が殆ど分かっていない為、可能性は否定出来ない。

 その男児の消息が判ったのは、歴史的に大きな事である。


『その子は、同年の11月30日、ウッカー・マルクに乗船していた事が分かったわ』

「! 横浜港で?」

 その日の午後1時40分頃、ウッカーマルクは、停泊中であった横浜港で大爆発した。

 所謂、『横浜港ドイツ軍艦爆発事故』である。

 夏に生まれている為、時系列的に矛盾点は無い。

 但し、以前、可能性が指摘されていた遣日潜水艦作戦が始まったのは、1943年の事なので、この点については、矛盾が生じる。

『当時は、戦時下だけあって事故自体、機密扱いだったんだけど、特別高等警察は、死亡者の中の赤子に対して、ドイツが最敬礼で見送ったのを疑問視していた資料が見つかったわ』

 それから、変色した資料を机上に置く。

 表紙には、『横浜港独逸軍艦爆発ニ関スル調査報告書』と書かれている。

『これによれば、当時、日本に赴任していたSS親衛隊のヨーゼフ・マイジンガー(1899~1947)が隠蔽工作をした為、これ以上の資料は無いの』

「……《ワルシャワの虐殺者》が?」

 1939年10月から1941年3月の僅か半年の間に、マイジンガーは、多数のポーランド人とユダヤ人の虐殺に関わった(*4)。

 その根っからの反ユダヤ主義ぶりは、赴任先の日本でも隠さず、日本政府に対し、ホロコーストに参加するよう要請している(*4)。

 これに対し、日本政府は、1938年12月6日の五相会議(首相、陸軍相、海軍相、大蔵相、外相による会議)でユダヤ人を他の外国人と同様に接する、所謂、『猶太人対策要綱』が決定されていた為、ホロコーストに日本が関わる事は無かった(*4)。

 戦後、良好な日以関係を考えると、この選択は両国関係に大きな+を与えていることは言うまでもないだろう。

 一方、マイジンガーは戦後、戦犯として絞首刑された(*4)。

 マイジンガーが日本に居たのは、1941年4月から終戦まで(*4)。

 時期としては矛盾点は無い。

「……SSの大佐が隠蔽工作、信憑性はあるな」

 煉の言葉に、ナタリーは貢献出来た、と小さくガッツポーズをするのであった。

 

[参考文献・出典]

 *1:『終戦前滞日ドイツ人の体験(2) : 「終戦前滞日ドイツ人メモワール聞取り

    調査』荒井訓 2010年3月

 *2:サイモン・ヴィーゼンタール『ナチ犯罪人を追う―S・ヴィーゼンタール回

    顧録』訳・下村由一 山本達夫 時事通信社 1998年

 *3:AFP 2013年10月12日

 *4:ウィキペディア

 *5:ニューヨークタイムズ 2007年4月11日

 *6:アラン・バートレット『エヴァ・ブラウンの日記 ヒトラーとの8年の記録』

    訳・深井照一 学研M文庫 2002年

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