第230話 苦悩を突き抜けて歓喜にいたれ
2022年5月23日(月曜日)。
世界では、情報戦が繰り広げられていた。
イスラエルやキプロス、ギリシャ等の反土国の報道機関は、
・オザル大統領暗殺事件 ギュルセル関与説
・シェバア農場駐留イスラエル国防軍襲撃犯 トルコ軍説
・キプロス駐留英軍襲撃犯 トルコ軍説
を盛んに報じ、日本等、中立派の国々では諸説挙げた上で結論を出していない。
イルハンは、首を傾げた。
「やっぱり、キプロスでの失敗が響いたかな?」
祖国平和協議会は、キプロス駐留英軍を攻撃した際、土壇場で躊躇い、意図的に宿舎を外してしまったのだ。
その所為で思った程、イギリスは攻撃的ではない。
これは、大きな転換だろう。
27日は、挙兵の日だ。
祖国平和協議会の政変計画は、
・イスラエル
・シリア
・ロシア
・西クルディスタン
等、周辺諸国にも通知され、政権が変わった時に国家承認する予定になっている。
問題は、アメリカだ。
モサドの長官の説得を無視し、大統領はアメリカの仲介の下、トルコとの和平交渉に前向きだ。
ベイルートを緩衝地帯に南をイスラエルが支配する代わりに、アメリカはトルコが西クルディスタンを支配する事を認めた、と思われる。
その証拠に、西クルディスタンにどんどんトルコ軍が入り込み、陣地を構築している。
今後は、トルコ人の入植が進み、事実上、トルコの一部になっていくだろう。
当然、シリアは返還を求め、政治問題になる筈だ。
イスラエルの中でも祖国平和協議会を見限ようとする動きもある為、今後、イルハンは更なる亡命を強いられる必要が出てきた。
(……何としても成功させなければな)
思い立ったが吉日。
イルハンは、スマートフォンを取り出すのであった。
その日の夜。
煉はウルスラと
「zzz……」
気持ちよさそうに眠る煉。
そんな夫を確認しつつ、ウルスラは注射器を用意していた。
(……大丈夫。殺意が無ければ)
世の中には片目を開けて眠ったり、就寝中でも枕元に拳銃や刀を忍ばせている
「……」
深呼吸をして、睡眠薬を中の容器に入れて、煉に近づく。
抜き足差し足忍び足。
そして、煉の首筋に針を向ける。
その時であった。
「
叫び声と共に壁の板が、反転し、忍び装束のスヴェンが登場。
ウルスラと目が合った。
直後、スヴェンが手裏剣を投げる。
針の糸を通すような良いコントロールで、注射器を弾き飛ばした。
虚を突かれたウルスラだが、すぐに態勢を整える。
煉の眉間にベレッタ92を突き付けたのだ。
「な!」
明確な反逆にスヴェンは、戸惑った。
「な、何故?」
ウルスラは、泣き顔で答える。
「私だってしたくないのよ」
「……何故?」
「言えないわ。少佐を殺したくなければ、撤退して。お願い。戦争は嫌なの」
「……」
スヴェンは、ウルスラの指を見た。
引き金に掛けられ、震えている。
本心からではないようだ。
然し、この状態だと誤射の可能性もある。
非常に危ない。
「撤退して。お願い」
ウルスラが懇願した。
数瞬後、彼女は吹き飛んだ。
銃声と共に。
「!」
スヴェンが振り返ると、背後でグロックを構える女性が居た。
ライカ―――ではなく、キーガン。
親衛隊副隊長だ。
身内でも無いのに、居住空間まで来るのは、褒められたものではないが、ライカよりも遠い場所に居た筈なのに、彼女よりも早かった。
右肩を撃ち抜かれたウルスラが、ベレッタに手を伸ばすも、キーガンが駆け寄ってベレッタを遠くに蹴飛ばす。
それから、
「年貢の納め時ね?」
と、ウルスラの米神にグロックの銃口を押し当てた。
「撃つな」
「師匠?」
ゆっくりと煉は、起き上がる。
あれだけの騒ぎで然も、銃声まであったのだ。
それでも熟睡しているのであれば、何等かの睡眠障害を抱えている、と疑った方が良いかもしれない。
「キーガン、良い腕だな?」
「有難うございます」
膝でウルスラの首を軽く抑えつつ、キーガンは、彼女を組み伏せたまま敬礼する。
「何処で覚えた?」
「親衛隊の訓練で―――」
「上官への嘘は、反逆罪だぞ?」
「きゃ♡」
スヴェンを抱き寄せて、煉はその頬にキスする。
「……イギリスです」
「だろうな」
「何故、分かったんです?」
「敬礼の仕方だよ」
「え?」
「掌を見せているだろ? そりゃあイギリス式だ」
「あ……」
癖で正体を露見させてしまうのは、致命的なミスであろう。
「それで
「……はい。少佐の分析力を以前より高く評価しており、今回の問題に貢献させようと」
「……ウラソフが解任覚悟で誘ったのは、イギリスが黒幕か?」
「はい」
トランシルヴァニア王国は、親米国であるが、親英国でもある。
冷戦中、王室が英国王室を頼ってイギリスに亡命したのだから、当然、政府としても好意的な感情があってもおかしくはない。
「……ライカは?」
「薬で安眠してもらっています。
(……言ってくれるな)
親衛隊の人事権には、殆ど関与していない為、キーガンがどの様な経緯で入隊したのは分からない。
然し、口ぶりから察するに、今までは、猫を被っていたようだ。
「……今もイギリスと関係が?」
「そうですね」
「ライカからは、革命後、貴家はこっちに帰化したと聞いているが?」
「はい。ですが、今回の件は、我が国の国益にもなると思い、話に乗りました」
「……では、祖国は?」
「勿論、この国です」
「……そうか」
返答次第では国家反逆罪で射殺も検討していたが、目を見る限り、愛国心はあるようだ。
キーガンは、額に大量の汗を噴き出しつつ、続ける。
「今回の発案者はイギリスです。是非、少佐に現地に赴いて頂いて、調停者になって頂こうかと」
「……トルコも同じ考えを?」
「いえ。トルコ―――というか、この反逆者の上官の指示でしょう」
「……スレイマン?」
「はい。トルコは、2016年の政変失敗以降、軍の権力が弱まっています。このままだとアタチュルク以来の伝統である、政教分離の原則が現体制下で破られてしまいます。その為、今回の工作を行いました」
「……」
直接、政変を起こせば早い話だが、2016年に失敗している為、保守派は、大義名分が欲しいのだろう。
ギュルセルは国家を破滅に導く戦争屋―――という、印象操作で国民を扇動した上で。
「27日、祖国平和協議会が再び決起します。1960年の成功した政変の記念日に合わせて」
「ほぉ……」
関心を示しつつ、煉はスヴェンの顎を撫でる。
「にゃあ♡ にゃあ♡」
猫の様に、スヴェンは嬉しそうに鳴く。
とても人の話を聞く態度では無いが、煉の視線は、キーガンに固定されている為、少なくとも真面目には、聞いているようだ。
「ウルスラ、どこまで本当だ?」
ウルスラは、申し訳なさそうに答えた。
「……申し訳御座いません。全て事実です」
「……分かった」
自分の上官に薬を盛って拉致しようとしたのは、反逆罪は勿論の事だが、誘拐罪等も上乗せされ、重罪中の重罪だ。
反逆罪の時点で、軍法会議の末、死刑は免れないのだから、死刑よりも厳しい罰が課される可能性もある。
例えば、人体実験の被験者等。
「……キーガン、放せ」
「え? いいんですか?」
「……」
「……は」
目力に負け、キーガンは膝を離す。
「ごほっ! ごほっ!」
激しく咳き込んだ後、ウルスラは、近くにあったペットボトルの水を飲む。
キーガンがウルスラに科したのは、2020年にミネアポリス等で起きた反人種差別デモの発端になったジョージ・フロイド(1973~2020)に対して白人警官が行ったのと同じものだった。
彼は8分46分、膝で首を圧迫され、心停止。
最後は、死亡が確認された。
相手の動きを封じる方法としては、手っ取り早いが、逆に言えばそれ程訓練しなくても簡単に人の命を奪えてしまう為、諸刃の剣と言えるだろう。
キーガンが加えた力がどれ程かは分からないが、少なくとも白人警官よりも鍛えている軍人なので、8分もかからずにウルスラを殺す事が出来る筈だ。
「ウルスラ、今の話は事実か?」
「……はい」
500mlを飲み干した後、ウルスラは、力なく首肯した。
肯定した以上、これでスレイマンの思惑が判明した事になる。
「……分かった。スヴェン」
「はい?」
「明日、ウルスラから調書を取れ。その後、
「? モサドではなく?」
「秘密主義のモサドの事だ。若しかしたらスレイマンと内通している可能性がある」
「は。調書後は?」
死刑、という言葉を聞きたいのだろう。
スヴェンの目は、キラキラ輝かせている。
恋敵を討てる、と。
「不問だ」
「「え?」」
スヴェン、キーガンの声が重なった。
「……少佐?」
死刑を覚悟していたウルスラも、驚きを隠せない。
「スレイマンに強要されたのだろう? じゃあ、ウルスラも被害者だ。上官が黒を白に変えても、部下はそれに従うしかないだろう?」
「「「……」」」
「もう一つ、キーガン」
「は、はい」
「俺が出張出来るのは、上の許可があってからだ。上にかけかってくれないと俺からは答えられない」
「……は、はぁ」
「この件は、これで終了だ。ウルスラ、もう暗器は無いよな?」
「は、はい……」
「失礼」
スヴェンが念の為、身体検査を行う。
「……大丈夫です」
「分かった。ウルスラ、おいで」
「え?」
「肩、痛むだろう? 診るから」
「……はい」
穏やかな笑みにウルスラは、吸い込まれるように引き寄せられる。
この中で最も階級が上な煉が、無罪を下した以上、スヴェンとキーガンには、なすすべが無い。
ウルスラの肩を診つつ、
「キーガン、今晩の件は感謝する。いずれ、残業手当を出すから、休んでいいぞ?」
「ですが―――」
「イギリスと繋がっていた件、上に報告しようか?」
「……分かりました」
キーガンもまた、この件には、弱い。
国益の為とはいえ、イギリスと秘密裏に繋がっていたからだ。
「失礼します」
嫌々、退室していく。
「……師匠」
スヴェンの視線が痛い。
犯人隠避は、重罪だ。
それでも煉は、強権で揉み消す。
「示談だよ」
「少佐―――あ♡」
抱擁されたウルスラは、痛む肩を忘れて生きる喜びを実感するのであった。
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