第172話 ışık

 アメリカの大統領が代わっても、俺達の生活には変わりない。

 日々、

・仕事

・学業

・家事

 をこなすのみだ。

「……」

 ほぼ無感情で陸上の周回走路トラックを走る俺。

 そんな俺を見て、

「勇者様って《人間機関車》とは真逆ですね」

「そうだね」

 ドン引きするオリビアと司。

 並走している、シャロン、ライカ、スヴェン、エレーナ、ウルスラは、きつそうだ。

 それもその筈、俺達は、もう100㎞近く走っているのだから。

 幾ら体力に自信があっても、これほど走れば誰でも、しかめっ面で苦しそうに走る所謂、《人間機関車》と呼ばれたチェコスロバキアの陸上選手、ザトペック(1922~2000)のような走り方になるだろう。

 優雅に紅茶をたしなみつつ、皐月が尋ねる。

「ナタリー、煉は、どのくらい体力あるの?」

『500㎞は休憩なしで完走出来るかと』

「……マジ?」

 500㎞は、東京~大阪間に匹敵する距離だ。

『ランクで表しますと少佐がSで他の方々がBくらいでしょうか』

 ライカが最初に脱落し、倒れた。

 すぐさま親衛隊の衛生兵が駆け寄り、彼女を担架に載せる。

 次にエレーナ、シャロンと続く。

 後は、スヴェンとウルスラの直接対決だ。

「……!」

 スヴェンは、何度もウルスラを見るが、当の本人は、一切気にしていない。

「……」

 シーラは、俺を気にしつつ、タオルと水の飲み水をしていた。

 一応、給水所は設置してあるのだが、俺好みに味を調節するのが彼女の仕事だ。

 長距離走の訓練の際、走者は手首に脈等を図る特殊な器具を装着している。

 これを皐月が確認し、問題があればドクターストップさせる、というのが、チームの方法だ。

 科学的且つ医学に則ったこれは、根性論を根底から否定するものだ。

 脱落しても怒られないし、減給も降格も無い。

 恐らく、世界で最も緩い軍隊だろう。

「……!」

 スヴェンがふらついた。

 その瞬間を俺は見逃さない。

「よく頑張った」

 転倒寸前で何とか支えて、ゆっくり速度を落とす。

 急な減速は体に負荷がかかり易い為、ゆっくりゆっくりだ。

「ウルスラ」

「は」

 ウルスラもゆっくりと、スピードダウン。

「よくついてこれたな?」

「向こうで厳しい訓練をしていた甲斐ですよ」

 全然、呼吸も髪も乱れていない。

 超人的な体力だ。

 一方、スヴェンは今にも吐きそうだ。

「……」

 顔が真っ青で、口元を手で抑えている。

「シーラ」

 呼ぶとシーラがバケツを持って駆け付けた。

 1で10を悟るのは、良いことだ。

 スヴェンは、そのバケツに頭から突っ込み、嘔吐。

「おええええええええええええええええええええええええ!」

 運動後の体調不良の原因は、

・貧血

・酸欠

・水分不足

・血流の関係による老廃物の蓄積

 等が挙げられている(*1)。

 それを防ぐには、

①クールダウン

②こまめな水分補給

③糖分、塩分の補給

④疲労やストレスを溜めたまま運動しない

⑤胃に食べ物が残ったまま運動しない

⑥炎天下での運動厳禁

 が提唱されている(*1)。

 ジョギングの提唱者、ジム・フィックス(1932~1984)は、ジョギング中に心臓発作を起こし、そのまま死亡した例があるように、運動は体に負担がかかるものであり、これ以外でも虚血性心疾患で死亡する例も多い。

 体を動かすのは良いことだが、場合によっては死をもたらす危険な行為とも言えるだろう。

 俺は、スヴェンの背中を擦る。

「どんどん吐け。毒素を出すんだ」

 吐瀉物の臭いが不快だが、それ以上にスヴェンが心配だ。

 ひとしきり、吐きまくった後、スヴェンは疲れ果てたらしく、ぐったり。

「よっと」

 俺は今にも失神しそうなスヴェンをおんぶした。

「少佐、どちらへ?」

 復活したライカが、タオルで俺の汗を拭う。

 シーラはその間、用意していた飲み物が入ったペットボトルを持って待っていた。

「医務室。内弟子の世話は、大変だぜ」

 苦笑いしていると、スヴェンが俺の胸部に手を回し、必要以上に抱き着く。

 何だかんだで愛でる元気はあるらしい。

「御疲れ」

「はい♡」

 幸せそうにスヴェンは、応えるのであった。


 医務室に運ばれたスヴェンは、皐月が診ることになった。

 その間、俺は、皆と入浴だ。

 今日は、露天風呂。

 高い外壁に囲まれたその空間は、俺が改築の際に業者に作らせたものだ。

「あ~極楽」

 人工の雪が降る中、浸かるのは心地良い。

 チームや親衛隊は、訓練後には入浴するのが、習わしだ。

 無論、習慣であって義務では無い為、入らなくても良い。

 俺が居るのは、家族風呂。

 司等と混浴しており、居ないのは、ウルスラ、ナタリーのみ。

 2人は、親衛隊と共に女湯に浸かっている。

「パパ、後で髪の毛、洗って♡」

 シャロンが頭を見せる。

「分かったよ。後でな」

 シャロンの頬を指で突っつきつつ、俺は、シャルロットを見た。

「風呂は慣れない?」

 フランス人(彼女は、フランス系トランシルバニア人だが)は、入浴よりシャワー派の人が多い(*2)。

 王制の時代には、香水で不快な臭いを誤魔化していた、という歴史もあるように、日本とはまるでその手の歴史が違う。

「旦那様と一緒なら」

 来日当初、慣れない風呂に四苦八苦していたシャルロットだが、俺が一緒だと安心するらしく、今の所、精神的に不安定になることは少ない。

「シャルロットは甘えん坊だね」

 司は、笑って俺とシャルロットを抱き寄せる。

「だけど、駄目だよ。正妻は、私なんだから」

「分かっていますよ。奥方様」

 地位が愛人なので、基本的に正妻優先だ。

 シャルロットは、俺から離れようとするが、

「まあ待てよ」

「え?」

 俺がその手を掴み、引き寄せた。

「戦争は無しだよ」

 それから、司にキスをし、嫉妬心を和らげた後、今度は、シャルロットを抱き締める。

「疲れてるんだ。俺から離れないでくれ」

「……分かった♡」

「ねぇ、私は?」

「分かってるよ」

 エレーナともキスをする。

「あ~あ。寝取られちゃった」

「まぁ、勇者様は、誰にでも御優しい方ですから」

 司とオリビアはそれぞれ言い合う。

 嫉妬心は無い訳ではないが、これが惚れた弱みだ。

「ライカも御行き」

「え? 良いんですか?」

わたくしに気を遣うことはありませんわ。勇者様の妻ならば、妻に徹するのです」

「……は」

 ライカはオリビアに気を遣って、笑顔ではないが、直ぐに俺の下へ来た。

「御疲れ様です。少佐」

 唯一、来ないのは、シーラだ。

 日中は俺の傍にべったりな場合が多いが、最近、私的な時には距離を作ることがある。

「シーラは行かないの?」

「……」

 オリビアの問いにシーラは、申し訳なさそうに首を横に振った。

 シーラのことだ。

 あれだけべったりな癖に、ここで気を遣うのは、相当、苦しい筈だ。

 それをおくびにも出さないのは、流石、元軍人だろう。

 俺は、シャロンとエレーナを抱っこしつつ、右にシャルロット、左にライカに侍らせ、イチャイチャするのであった。


『……』

 私は、緊張していた。

 隣に居るのは、ウルスラ。

 トランシルバニア王国が国家を挙げて、直々に送って来た、恐らく世界最高の軍人だ。

 少佐に認められて以降、専属秘書官になったが、その人間性は謎だ。

 イスラム教徒らしいのだが、ロボットのような無表情ポーカーフェイスで、他人を寄せ付けない雰囲気をまとい、少佐以外の人に心を許していないように思える。

 スヴェンと似ているが、彼女は明るく誰とでも打ち解けている。

 一方、このウルスラという女性は全然、隙を見せない。

「……何ですか?」

 少佐には、言わないような無機質な声音だ。

『……少佐に何故、近付いたの?』

「勅令ですから」

『……GSG-9をされた癖に?』

「!」

 瞬間、ウルスラは、両目を大きく見開かれた。 

 やっぱり、私のは、正確だったようだ。

「……」

 ウルスラは一瞬、動揺したようだが、直ぐに落ち着きを取り戻す。

「……よく、御存知で」

 あれほど優秀だった筈なのに、辞職するのは謎だった。

 そこでBND連邦情報局経由で調べた結果、彼女がGSG-9を去った理由が判った。

 彼女がGSG-9を去った真の理由は―――

MIT国家情報機構NSU国家社会地下組織BfV連邦憲法擁護庁との関係を暴露後、亡命したんです。トランシルバニア王国に」

『……』

 ドイツの闇を外国の情報機関に暴露。

 その後、ウルスラは、

 ———

・人種

・宗教

・国籍

 若しくは、

・特定の社会的集団の構成員であること

 又は、

・政治的意見を理由に迫害を受ける恐れがあるという十分に理由のある恐怖を有する為に、国籍国の外に居る者であって、その国籍国の保護を受けることが出来ない者

 又は、

・そのような恐怖を有する為にその国籍国の保護を受けることを望まない者及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることが出来ない者

 又は、

・そのような恐怖を有する為に当該常居所を有していた国に帰ることを望まない者(*3)

 ———

 に則って、難民申請を行い、受理され、トランシルバニア王国に亡命をした。

 前年の東京五輪でも、独裁国家、ベラルーシの選手の1人が、駐日ポーランド大使館と日本の外務省等の助けを借りて、無事にポーランドに亡命を果たした。

 難民申請が受理されたということは、彼女に命の危険があった、ということだろう。

 難民条約に入っていないトランシルバニア王国が、態々わざわざ受け入れたのは、それほど彼女に利用価値がある、ということだろう。

 幸い、トランシルバニア王国はドイツ系の国だ。

 本国、ドイツとの結びつきは強いもののの、今ではもう別の国なので、ドイツの圧力には屈しなかったことは言うまでもない。

を裏切った以上、私は、もう帰る場所が無いんです。少佐は―――イシックなんですよ」

『……』

 光。

 その表現は、正しいかどうかは分からないが、実際、少佐の周りは、過去、心に傷を負った者ばかりだ。

 皐月は、前夫をテロで亡くし、シーラは発達障害で虐められ、シャルロットはDVから精神病を発症。

 オリビアに至っては、母親が外国人と関係を持って出来た子供なので、保守派の王室関係者からは、酷く嫌われている。

 スヴェンは、ナチスの残党の子孫だ。

 言わないだけで、イスラエルでは、相当な差別に遭った筈だ。

 そして、私も、言葉に出すのを憚られるほど、嫌な過去がある。

「私は、少佐と会って、彼を支えます。光だから」

『……』

 何処までも無表情だったが、少佐のことを語るウルスラの目には、光が灯っている。

 いつまで経っても素直になれない私とは、対極的であった彼女が眩しく見えたことは言うまでもない。


[参考文献・出典]

 *1:ArtRoot

 *2:家電Watch 2018年5月7日

 *3:難民条約第1条A(2) 一部改定

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