第122話 チェチェン流復讐
日本は旧ソ連の、
・中立条約反故
・シベリア抑留
・北方領土問題
等で、歴史的に反露感情のある国だ。
・2月7日の北方領土の日
・8月9日の反露デー(旧反蘇デー)
は、特に右翼団体の感情を興奮させる日でもある。
その為、在日ロシア人も極右派からは、憎悪の対象になる可能性が考えられる。
在日ロシア人は当然、極右派が怖い。
昭和64(1989)年1月7日、昭和天皇が崩御され、日本国内で自粛ムードが高まる中、在日ロシア人は困った。
不幸にも崩御日当日がロシア正教の言う所の降誕祭であった為である。
なので、信者は極右派に怯えつつ、カーテンを閉めて密かに祝った。
悪気は無いのは重々承知なのだが、公になれば極右派以外からも
その家長、セルゲイは、迫りくる2月9日に憂慮していた。
「我が家は、白。犯罪者は赤なのに。糞ったれ」
ウォッカを水の様に浴びる。
日本政府の保護下にあるとはいえ、やはり不安はある。
彼等の家は、港区赤坂。
近くには、アメリカ大使館がある立地だ。
というか、隣接している。
その為、何かあれば、直ぐにアメリカ大使館に分かるくらいの近さだ。
「
ロビンソンが、肩を叩く。
その横にはナタリーも居る。
ロシア人、アメリカ人、ドイツ人の奇妙な飲み会だ。
使用言語は、日本語。
3人共、日本での暮らしが長い為、日本語に抵抗が無い。
「あの
「はい。アメリカ、ロシア、ドイツ、イスラエルも高く評価していますよ。現代版船坂弘です」
「あのような者が白軍に100人は居たら、帝政は復活していただろうな」
スターリングラードの戦いまでソ連は、負け続けていた。
東欧ではロシア人捕虜で構成された反共
これらの動き次第では、ifではあるにせよ、ソ連を挟撃出来ていたかもしれない。
枢軸国の支持者という訳では無いが、ロマノフ家が復活を遂げるには、唯一の手段だっただろう。
セルゲイは、ロビンソンから貰った煉の写真を見る。
何度見ても若過ぎる。
ただ、トランシルバニア王国での
「娘は如何だ?」
「
「流石、我が娘だ」
絶縁しても、娘は娘。
人生観の違いはあれど、幸せになって欲しいのは、事実だ。
「あの娘の目は如何だ?」
「ナタリー」
『はい』
ナタリーは、パソコンを開く。
『日本の障碍者認定の等級で言えば、1級です』
「そんなにか……」
ロシア人の王侯貴族だと、エレーナは、《ヴァシーリー盲目公》以来の人物だろう。
『これはFSBからの情報提供ですが、チェチェンの分離独立派が御令嬢を狙っています』
「うむ。それはクレムリンから聞いた。然し、何故、我が娘を狙うんだ? 筋違いではないだろうか?」
一家は、ロシアの政治問題に関与していない。
セルゲイの意見は、当然であった。
『コーカサス戦争が動機です』
「あの戦争か」
指摘されるまで忘れていた。
何せ先祖の起こした事だ。
被害者に悪いが、今を生きる自分達には、何も感じない事であった。
1817~1864年の47年にも及ぶコーカサス戦争は、日本で言えば江戸時代、アメリカの頃で言うと南北戦争の時期にあった戦争だ。
北コーカサス支配を目指すロシア帝国と、それに反発する現地人との間で行われた。
これにより、現在のチェチェン共和国、イングーシ共和国、ダゲスタン共和国に当たる地域がロシア帝国の版図になった。
1864~1870年には、北コーカサス地方の大部分等に居住していたチェルケス人が大虐殺に遭った。
その内容は残虐で、ロシア軍とコサック軍は、
・妊娠中の女性の腹を引き裂く
・赤ちゃんを誘拐
・赤ちゃんを犬に与えたりする
等して楽しんだと記録されている。
ロシアの将軍は、チェルケス人を「人間以下の汚物」と表現し、彼らの殺害と科学実験での使用を正当化した。
これにより、実に80万〜150万人ものチェルケス人(総人口の少なくとも75%)の追放を余儀無くされた、とされる(*1)。
目の前でチェルケス人があの様な目に遭ったら、チェチェン人が、執拗に闘争心を掻き立てられるのは、当然の事だろう。
明日は我が身なのだから。
そして、チェチェンには仇討ちの文化がある。
所謂、『血の報復の掟』だ。
男子は物心がつくと、父方の7代前までの祖先の名前、出生地と死亡地を暗記させられ、7代前までの祖先が、誰かに殺害された場合、その子孫にはその掟が適用される(*2)。
日本では評論家・西部邁(1939~2018)は、これについて、次の様に言及している。
———
『以前、新聞で読んだのですが、チェチェンでは、自分の肉親を殺されると7代に渡って復讐の義務が発生するというんです。
7代といえば、仮に25年で世代交代するとして175年ですよ。
175年後に生まれた男の子は、175年前の復讐をしなければいけない』(*3)
―――
2022年から175年前は、1847年。
丁度、戦争真っ只中の時期だ。
その4年後の1851年には、抵抗軍の有能な指導者であり、トルストイの小説の題材にもなったハジ・ムラートの家族が処刑され、翌年には彼も殺害され、その首がニコライ1世の下に届けられいる。
……
「指導者の名前は?」
『ハジ・ムラート。自称で本名は分かりません。ただ、FSBによりますと、
・ロシア高層アパート連続爆破事件 (1999年)
・グロズヌイ警察庁舎爆弾事件(死者:25人以上 2002年10月10日)
・モスクワ劇場占拠事件 (死者:130人以上 2002年10月23日)
・北オセチア軍用バス自爆事件(死者;16人 2003年6月5日)
・モスクワ公演会場自爆事件 (死者:16人 負傷者;50人以上 2003年7月5日)
・北オセチア軍病院自爆事件 (死者:42人 2003年8月3日)
・モスクワ地下鉄爆破事件 (死者:240人以上 2004年2月6日)
・チェチェン大統領爆殺事件 (死者:40人以上 2004年5月9日)
・旅客機同時墜落事件 (死者:90人 2004年8月24日)
・ベスラン学校人質事件 (死者:354人以上 2004年9月1日)
等、少なくとも10件には、関与している模様です』
「……」
ロシア政府にとって、超危険人物、という訳だ。
因みにチェチェンの独立派の大統領は、5人居るが5人共、ロシアの軍やFSBに殺害されている。
テロには、絶対に屈しない。
ロシアの強い姿勢が分かるだろう。
アメリカもロシアを仮想敵国にしているが、テロとの戦い、という点では、ロシアの対テロ戦争を支持している。
ナタリーは、セルゲイの顔色を伺いつつ、続ける。
『ムラートが御令嬢を狙うのは、自分の存在を世界にアピールする為でしょう。貴家は、ドイツの帝位、イギリスの王位も兼ねてますから』
「……うむ」
ドイツは、既に帝政を廃止したが、その継承権は脈々と受け継がれている。
イギリスも沢山の親類縁者が居る為、イギリスも親族が殺られたら黙ってはいないだろう。
『既に何人かは、来日し、御令嬢を狙っています』
「防げるのか?」
『少佐は、世界一です。彼女に傷一つ出来ませんよ』
「ほぉ……」
セルゲイは、感心する。
「表立っての支援は出来んが、頼んだぞ?」
『は』
エレーナを狙うムラートは、仲間達と共に入国していた。
「あの家か……」
近くのマンスリーマンションを借りて、北大路病院を双眼鏡で覗いていた。
「余り日本人を傷付けたくないな」
ムラートは、親日家であった。
東郷平八郎を尊敬し、日本語も勉強している。
今回、厄介なのは、エレーナの上司が日本人な事だ。
チェチェン・マフィアによれば、FSBとも繋がりが深いらしい。
(病人を装って、侵入するか? いや、バレるかも)
《貴族》の指揮官・煉は、噂によれば、スターリン並の偏執病で、一見さんの素性を調べている様だ。
院長・皐月は知らない様だが、
・前科者
・犯罪者
・煉が個人的に問題ある、と判断された者
は、急患の場合は、他院へ
予約した場合も、他院への紹介状で済ましている。
どれだけ家の事を思っているか、一目瞭然だろう。
煉は、病棟で見回りに来た警察官と何やら話し込んでいる。
『 』
詳細は分からないが、脇の下の拳銃を見せている為、恐らく、銃器の確認だろう。
外交官特権を有している彼に、警察官も丁寧な対応だ。
「……不味いな」
「司令官、どうしました?」
「いや……何でもない」
「?」
ムラートは、汗を拭った。
多汗症でも、夏でも無いのだが、発汗が止まらない。
(蛇に睨まれた蛙、か)
睨まれた訳ではないのだが、何故かその諺が連想した。
(ここでの襲撃は止そう)
煉への苦手意識から、ムラートはここでの襲撃を止めるのであった。
[参考文献・出典]
*1:ウィキペディア
*2:佐藤優インテリジェンス・レポート
『ボストン爆弾テロ事件におけるチェチェンファクター』ほか
佐藤優直伝「インテリジェンスの教室」vol012より 現代ビジネス 2013年4月27日
*3:西部邁 黒鉄ヒロシ『もはや、これまで: 経綸酔狂問答』PHP研究所 2013年
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