第50話 物凄く静かで、有り得ない程遠い

「熱は無し、ね」

 煉が拉致されている頃、ナタリーが院内でカウンセリングを受けていた。

 主治医は、皐月。

 何時もなら看護助手に司やシャロン、シーラが居るのだが、今回は居ない。

 精神科という事で皐月が配慮したのだろう。

 ナタリーも流石に皐月以外の人間には、知られたくはない為、この環境には満足だ。

「それで、悩みは、うつ状態って事?」

『……まぁ』

 間違ってはいない、と思う。

 最近、不眠症気味で学校も休みがち。

 食欲不振で体重も減少傾向だ。

 下痢も酷い。

 それでも健康診断では、何も不備は無かった。

 精神的なもの、と思うのは当然の事だろう。

「……最近は、何を考えている?」

『……自分の容姿の事』

「容姿コンプレックスって事?」

『……多分』

 男を憎み始めて以来、容姿を気にする事は無かったのだが、煉とあのオンライン以来、何かと気になっている。

 爪の長さや髪の色、髪型、香水……

 最近では、化粧にまで興味を持つ様になった。

「……急になるとは考え難いから何が契機なの?」

『……ある人と会ってから』

「それは、どんな人?」

『不愛想で目付きが悪くて……でも優しい人』

「……そう」

 明らかに煉を連想したが、皐月はそれを口に出さない。

 診断においての主観は、誤診を生む可能性があるからだ。

「その人の為に尽くしたい?」

『いえ、そういう訳じゃ……』

「じゃあ、一緒に添い遂げたい?」

『いえ。全く』

「じゃあ、何が楽しい?」

『一緒に居るだけ……です』

「……多分だけど、それが答えじゃない?」

 皐月は、白衣を脱ぎ、ハンガーにかけた。

 診察は終了といった所か。

「今からは診察料には、含まない雑談よ。良い?」

『? は、はぁ……』

「若し、その人を私が盗ったら私が憎い?」

『……かもしれません』

「じゃあ、単刀直入に聞くけど、その人が好き?」

『嫌いです』

 ノータイムで返した。

 ナタリーが自分でも驚く程の早さで。

 男嫌いは、治っていない証拠だ。

 もっとも、完治はがん並に難しいだろうが。

『婚約者が居るのに、色んな女性を侍らさせて……大嫌いです』

「そうよねぇ。駄目だよねぇ。そういうのは」

 良い精神科医は、相手の気持ちに異論反論せず傾聴する事だ。

 患者は、同意を得られる事により、孤立感や怒りが軽減し易い。

 無論、本当は十人十色なのだろうが、ナタリーと皐月はそれ程関係性が構築出来ていない為、現状、探り探りなのであった。

「私もね。想い人がそんなんだったら、嫌だな」

『そうなんですか?』

「だってねぇ。折角、尽くしてきた事が無駄にもなるのよ? 経済的にも時間的にも赤字なのは、嫌よ」

『……若し、浮気されたら?』

「そりゃあ、勿論、睡眠薬を持って私が寝取り返すか、宦官にするかな? 外科医メッサ―も出来るし、去勢何て簡単な事なんだから」

『……』

 皐月が意外と怖い医者だった件。

 前後を切り取って、この言葉だけ聞いたら、皐月の名医としての心象イメージはがた落ちである。

「まぁ、冗談は、さておいて。ナタリーちゃん、煉の事が好きなの?」

『! そんな事は―――』

「でも、動揺しているじゃない? それを日本語では、『図星』というのよ」

『……』

 反論し様にも反論出来そうな材料を、ナタリーは持ち合わせていない。

 人としても、人生の経験値としても、皐月の方が、上だった。

「まぁ、良いけどね? 子供がモテるのは、親としても鼻が高いし」

『……嫉妬しないんですか?』

「そりゃあ好きだからしてるよ」

 冷蔵庫を開けて、緑茶のペットボトルがナタリーに放られる。

 中々、野性的な女医だ。

 煉が気に入るのも当然だろう。

「あの子はね? あの人と言った方が良いのかな? 多分、前世で苦労しただんだろうね? 聞いたよ。戦死なんだってね?」

『……はい』

 精神科医でもある皐月に嘘は通用しない。

 素直になった方が、好印象だろう。

「あの人は、前夫と似ているんだよ。若しかしたら、似た様な苦労人を前夫が呼んでくれたのもかもね」

「……」

 今でこそ自衛隊は、尊敬されている職業の一つだったが、左翼全盛期の昭和の時代は、テロの標的になる等、苦難であった。

 自衛隊を生んだ吉田茂も世情は分かっていた為、当時の自衛官に対し、「耐えてくれ」と頭を下げた。

 皐月の前夫は、そんな時代に自衛官になったのだ。

 色々な苦労があった事は、想像に難くない。

『……彼に恋を?』

「まぁね。嫌いじゃないよ」

 皐月は、微笑む。

 同性のナタリーでさえ、ドキッとしてまいそうな、飛び切りの笑顔で。

「でも、1番は、娘に譲らなきゃね。母娘の仲を裂きたくは無いし」

『……では、2番目に挙手を?』

「そうなるかな? まだまだ恋はしたいし。かといって、年を取れば取る程貰い手は少なくなるし、まだまだ元気な内に煉に可愛がってもらうのも一つの手よね。事実婚狙いよ」

『……』

 養母が養子に手を出す等、聞いた事が無い。

 これが、国会の答弁なら大騒ぎだろう。

 麦茶を飲みつつ、皐月は続ける。

「ま、事件にならない限り、煉に恋し様が自由よ。何たって、日本は民主主義の国なんだから」


 カウンセリングでナタリーの症状が治った訳ではない。

 念の為、

・睡眠導入剤

・抗精神病薬

 を貰い、家に帰る。

 そして自室に入ると、早速、ノートパソコンを開く。

 デスクトップ画面は、煉の前世での写真だ。

 アフガニスタン辺りの熱砂で撮影されたのか。

 煉は―――否、ルーは現地人から聖典の講義を受けていた。

 パシュトゥン人と思しき生徒達の中で白人が居るのは、不思議な光景だが、生徒達も教師もルーを嫌う様子は無い。

 むしろ好意的な様で、隣席の生徒なんかは、教科書を見せている。

 この手の写真は、国防総省ペンタゴン辺りが、「解放戦争の結果、我が国に親近感を覚える現地人」と言った具合に宣伝プロパガンダに使われそうだが、使用歴が無い所を見ると、本当に現地に溶け込んでいるのだろう。

(……アラビア語を学ぶアングロサクソン、か)

 情報将校であるナタリーだが、アラビア語は読めない。

 頑張って学んだが、如何もあの流れる様な字体に慣れず、断念したのである。

 英語圏からもアラビア語は、日本語と並び非常に難解な言語とされる。

 FSI外務職員局が以前、公表した「英語圏話者から見る、習得が困難な世界の言語ランキング」で、両方首位だったから、国家機関からも御墨付を得ている難しさだ。

 以下、その資料である。

 ―――

『【カテゴリーⅠ: 英語と密接に関連する言語】

 23~24週(575~600時間の授業)

・アフリカーンス語 ・デンマーク語 ・オランダ語 ・フランス語 ・イタリア語

・ノルウェー語 ・ポルトガル語 ・ルーマニア語 ・スペイン語

・スウェーデン語

【カテゴリーⅡ: 英語と大きな言語的乃至ないし文化的違いを有する言語】

 44週(1100時間の授業)

・アルバニア語 ・アムハラ語 ・アルメニア語 ・アゼルバイジャン語

・ベンガル語 ・ボスニア語 ・ブルガリア語 ・ビルマ語 ・クロアチア語

・チェコ語 ・エストニア語 ・フィンランド語 ・グルジア語(ジョージア語)

・ギリシャ語 ・ヘブライ語 ・ヒンディー語 ・ハンガリー語 ・アイスランド語

・クメール語 ・ラオス語 ・ラトビア語 ・リトアニア語 ・マケドニア語

・モンゴル語 ・ネパール語 ・パシュトウ語 ・ペルシャ語 ・ポーランド語

・ロシア語 ・セルビア語 ・シンハラ語 ・スロバキア語 ・スロベニア語

・タガログ語 ・タイ語 ・トルコ語 ・ウクライナ語 ・ウルドゥー語

・ウズベク語 ・ベトナム語 ・コサ語 ・ズールー語

【カテゴリーⅢ: 英語のネイティブスピーカーにとって極めて困難な言語】

 88週(2200時間の授業)

・アラビア語 ・広東語 ・北京語 ・日本語 ・韓国語

 その他の言語

・ドイツ語     :30週(750時間の授業)

・インドネシア語  :36週(900時間の授業)

・マレー語     :同上

・スワヒリ語    :同上』(*1)

 ―――

 アラビア語の聖典を読み、アラビア語の授業を受けているのだから、相当、言語学的に頭が良いのだろう。

 写真の撮影時期が分からないが、9・11直後だと、米国内では反イスラム主義感情が爆発していた。

 若し、その時期に受講していたとなると、ルーは本当に勉強熱心なのだろう。

(……あの人みたいに、なりたいな)

 恋愛と思しき感情は、徐々に憧れに変わっていく。


 夜。

 俺は、皐月に呼び出された。

 彼女は、自分の寝室でネグリジェを着て、寝台ベッドに座っていた。

「……如何した?」

「貴方に会いたくて」

 酔っているのか、頬は赤い。

「? 何時も会えるだろ?」

「嘘。何時も小屋でイチャイチャしているじゃない?」

 皐月は、俺の手を握り、抱き寄せた。

「……愛してるって言って?」

 その瞳には、濡れている。

「……司が居るのに?」

「良いのよ」

 酷い親だ。

 然し、俺は皐月も好きだ。

 何たって命の恩人だからな。

「……診察、お連れ様」

「貴方だけよ。労ってくれるのは」

 化粧を落とした彼女の顔は、少しやつれている。

 疲れが溜まっているのだろう。

 くまも酷い。

 最近、快眠出来ていないのかもしれない。

「……添い寝してくれる?」

「甘えたい時期なのか?」

「そうかもね。司も了承しているわ」

「……分かった」

 寝台に入ると、皐月は微笑む。

「有難う」

 皐月は、俺の頬に接吻すると、抱き枕の様に抱き締める。

「……今晩だけは、『貴方』と呼ばせて」

「……良いよ」

「大好き♡」

「……ああ」

 頷いた後、俺は、皐月をじっと見る。

「……何?」

「疲れが出ている。少し、休んだ方が良い」

「……そう?」

「ああ。体調不良の医者に診てもらっては、患者が不安になる。少し、休みを取った方が良い」

「……病院を閉めろ、と?」

「医師会に相談した上だな?」

「……難しいよ」

「ああ。知ってるよ。でも、俺は、患者より皐月の方が大事だ。病んでほしくない」

「……」

・皐月を産んでくれた事

・煉を育てた事

・破産覚悟で俺を救ってくれた事

 この様な事から、俺は、皐月に頭が上がらない。

「……じゃあ、守ってくれる?」

「皐月を?」

「世間から叩かれても、さ」

「勿論だよ」

 その額に接吻し返し、俺は皐月の手を握るのであった。


[参考文献・出典]

 *1:EMO

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