第5話
それからしばらく経ってやっと足腰を動かせるようになった。
時間にしておそらく10分が経過した頃だろうか。何せ携帯の時計を確認しても一向に数字に変化がないので、時間の変化もわからない。
「って、はあ?」
壊れたのか?
電源ボタンをいくらオンオフにしても、表示が変わらず、数字も変わらず。
「あれ、説明してなかった? ここでは時間なんて意味がないわよ」
「あん?」
「だって私が止めたもの」
「止めたって、何を」
「時間」
「じか……え?」
腰を抜かして立てなかった間、自分の身に降りかかった事態を女が説明してくれた。
「覚えていると思うけれど、あなた、このバスごと崖から海に真っ逆さまだったじゃない? そんな絶体絶命の危機から、私がバスに乗り込んだ時まで時間を巻き戻してあげたのよ。オーケー?」
「ええ? ああ? うん」
頭の中で上手く噛み砕けない。
いやいやちょっと待てよと、この空間同様に思考もストップする。
「巻き戻したって何? 時間を? どうやって」
「詳しいことは企業秘密だから。禁則事項だから」
「そんな重大なことをサラッと説明しておきながら今更秘密とか……!」
「いや言えないから。未来変わっちゃうかもって、以前見たドラマでも言っていたし」
本音を言ってしまえば、理解はしたものの納得はしていなかった。
しかし今しがたこうして「時間を止めた」とか言われて、正直揺らいでいる。確かに、笹島を含めた乗客達がさっきからマネキン化していることは事実だし、僕を陥れるためのドッキリにしては大掛かりすぎる。
現実味に欠ける現状であるからこそ、現実味のない話の方がしっくりくる。
がくがく震える脚を叱咤しながら立ち上がり、女の方へ向き直った。
「……なあ、えっと」
「タマよ」
某国民的アニメに登場する飼い猫が脳裏をよぎった。
しばらくして、それが女の名前だと理解するが、それが氏か名かもわからなければ、年上か年下かもわからない。
「タマ……さん?」
「タマでいいわ」
相も変わらずぶっきらぼうな口調。だけれど呼び捨ての許可を頂いた。
「じゃあタマ」
「何よ」
「僕はお前に命を救ってもらったことになるのか」
この女の素性が何であれ、いくら礼の言葉を言っても言い足りない。
礼の言葉で済むなら、の話だが。
「そうよ。だけど、ただの礼なら要らない。その分に見合った働きで返してもらえれば」
飄々とした口調で見返りを求めてくる。
そうくるだろうと腹を括ってはいたが、実際に言われると背筋を冷たいものが伝う。
時間を巻き戻して、更に、時間を止めた。この人知を超越した何かの期待に沿えるようなことが、一介の学生である僕にできるとは思えない。
「あら。そんな怯えなくてもいいわ」
僕の顔色を察してか、タマが付け加える。
「何も空を飛べと言っているわけではないのよ。できないことをさせるつもりは毛頭ないわ。ただ、あなたに殺して欲しい人間がいるだけ」
「こ、殺して……?」
いきなり出てきた物騒なワードに肌が粟立った。
「そう、殺して欲しいの。具体的に言うと、あなたが立っている斜め前の」
そう言って、タマが僕の斜め前に座る男を指差した。
そこには、焦げ茶色の革ジャンパーに、カーキ色の作業ズボンに身を纏う茶髪ロンゲの男が、他の乗客と同じように口を半開きにしながら一点を見つめ、固まっている。
バス停で先頭に立っていた、あの男だ。
「この男の正体は、最近このあたりに出没している放火魔。いわば、罪人よ。で、罪人を少しでも多く地上から一掃するのが私の仕事なのだけれど、私にも制約があって、直接手を下せる訳ではないの」
「はあ」
「手を下すのは、あなたの仕事。要は手伝ってほしいということなのだけれど、質問があるなら言ってごらんなさいな」
「ま、待て。殺すって、どうやって? あ、いや、というか、殺す以外の方法は?」
数多くある質問の中で、まずはそこだった。
こんな馬鹿げた状況は飲み込めても、犯罪行為までは飲み込めない。論外である。
「殺し方は何でも構わないわ。無抵抗な今ならその男をおぶって崖から落とすということも難しくはないし、誰かの持ち物から凶器になるようなものを漁って心臓を一突きすることも可能ね」
「なんと」
「勿論、断ればこの話自体なかったことになるわけだから、あなたの命も保証できないわね。厳密に言うなら、時間をバス転落時まで早送りするわけだから、後悔しながら溺れてもらうことになるわ」
「……」
時間を早送りして、ということは。
つまり、男を殺さなければ、海面直下するあの頃に戻ることになると。
「考えるまでもないわよね?」
「考えるわ!」
ただの手続きみたいに促してくるが、倫理観ギリギリのラインで踏ん張る。
人間に生まれた以上、そう簡単に人間なんか殺せない。ましてやこれまで生きてきて殴り合いの喧嘩すらしたことないんだぞ。
「安心して。この男は立派な犯罪者で、下手をすれば死人が出るようなことばかりをしている極悪人よ」
「極悪人といっても、お前」
犯罪者であろうが、極悪人であろうが、そこには人を指し示す漢字が入っている。
悪である前に、一介の人間なのだ。そして、人間を殺す権利など僕にあるわけがない。
更にいうなれば、罪を裁くのは僕ではない。司法だ。
「そうだ、警察に通報しよう。万事解決だ」
「さっきも言ったでしょう。直接手を下す以外の方法はないと」
「何で」
「だって、ほら。江戸時代とかならともかく、今のご時世、打ち首とかないじゃない?」
「う、打ち首……?」
いきなり時代錯誤なことを言い出したな。そりゃあ、ただの放火魔が捕まったところでいきなり死刑が確定するわけではないだろうけれど。江戸時代て。
「ん? というか、ちょっと待て」
誰を殺すとか殺さないとかはひとまず置いといてだ。
「あんた、一体何者なんだ?」
すごく今更ではあるが、インパクトの強すぎる出来事の連続ですっかり聞き忘れていた。
そういえば、彼女は何の意図を以て何を成そうとしているのか。
「え? わ、私?」
当の本人はといえば、目をぱちくりさせながら、こちらからゆっくりと視線を外していく。
明らかに狼狽えている。が、そんなに予想外の質問をしたのだろうか。
「お、おい?」
「私は………………たいむとらべらーよ」
「ト、トラベラーだと?」
心なしか、彼女が答えるまでの間が異様に長かったような気もするし、「タイムトラベラー」の単語が平仮名に聞こえたような気もするが。
「そう、そうなの。私はこの世に愛と平和をもたらすため、じご……じゃねぇや、未来から派遣されたエージェント的なやつなのよ」
「う、うーん……」
……嘘くせぇ。
命を救ってもらった手前、こんなことを思うのは失礼にあたるのかもしれないが、下手な詐欺師と話をしている気分になる。たまにうちのアパートにやってくる押し売り業者の方がもうちょっと上手く話をするぞ。
「ふふん。驚いた?」
しかも彼女は何故かご満悦だ。
いや、こうして自在に時間を操っているところからしたら、あながち嘘じゃないのか?
でも江戸幕府からやってきたタイムトラベラーだからなぁ。逆ならまだしも。
「……で。トラベラーさんはなしてこの人を……?」
彼女がタイムトラベラーかどうかは、これも一旦さておいた。さっきから色々な問題を保留にしている気がするが、裏の取りようがないのも事実。諦めて、犯罪行為についての説得を継続することとした。
「ほら。私、未来からやってきた未来人じゃない?」
「う、うん」
未来という単語に抵抗を覚えながらも、渋々相槌を打つ。
「で。この男が将来世界を滅ぼすことを止めにきたの」
「マジで」
スケール!
「だからお願い、現在と未来のために、ひいては世界のために戦って。今ここで踏ん張ればあなたは一躍英雄よ」
「待て、さすがにあんた設定盛りすぎだ」
とうとう我慢ができなくなって声を荒げた。
「第一、どうして僕に加担させる?」
他の人間なら掃いて捨てるほどいるし、そもそも時間を止められるくらいなら彼女一人でも十分片付けられる仕事だ。それこそ、時間を止めている隙に崖に落とすなり、心臓を突くなり好きにすればいい。まだタイムマシンすら存在していない現代なら、警察に見つかることもないだろう。
「ワタシ、ミライジン。ゲンダイノニンゲン、カンショウデキナイ」
「誤魔化し方が雑すぎるだろ」
一介の大学生が、人一人をそうあっさり殺せるはずもない。
それともこいつの目には、僕がヒットマン級の極悪人に見えたのだろうか。
「話を戻そう。どうして僕なんだ?」
明らかに人選ミスだと思うのだが。
すると、僕の問いにタマがぴしゃりと言い放つ。
「それは、あなたが悪人だからよ」
「は? はあ?」
再び彼女から鋭い視線を向けられ、「どいうことだ」たじろいでいる場合ではない。
何だか知らない内に悪人認定されている。
「ということはあれか? お前には僕が人を簡単に殺せるような悪人に見えたのか?」
気分も悪くなるし、当然、語気も強まる。
しかし彼女も譲らない。
「そうよ。あなたは自分の為なら他者がどうなったって構わないと思っている。性根からして腐っているのね。でも、今、あなたはそのことにすら気付いていないの」
「なんだと」
命の恩人云々などもはやどうでもよくなった。
沸々とした感情が込み上げて、胸の内をかきむしる。いわゆる、怒り、というやつなのかもしれない。煽られているだけという線もあるので、迂闊に発露はできないが。
「どうしてそんなことが言える? 僕の何を見てそう思った?」
現にこうして葛藤に苦しんでいる。
もし僕が彼女の言う通りの人間であるならば、思い悩むことすらなかっただろう。
「そうねぇ」
対して、彼女の声音には余裕が戻った。切れ長の目元を更に伸ばし、口端を僅かに歪ませ、そしてひどく酷薄な笑みがそこに生まれた。
「例えば、自身の手が汚れない方法を探していることとか」
「な」
「確かに、誰も犯罪者になりたくはないもの。証拠が残ろうと残るまいと、罪の意識は心に刻まれるもので、それは一生消えないわ。でも、あなたの心中はそれだけ。単に自身の手を汚さずに現状を回避しようとしているだけ」
「ふざ……」
ふざけるな、と言おうとして、すんでのところで思い留まる。
考えてみれば、彼女の言うこともあながち間違ってはいない。
殺さない方法を探してはいたが、誰も死なない方法を探していた訳ではない。
病死や事故死、或いは第三者の悪意でもいい。この男が死ぬ要因が自分以外であれば。それで自分が助かるならば――。
「――世間ではそれを悪と呼ぶのではなくて?」
責め立てている風でも、貶している風でもなく。
それなのに、彼女の言葉が胸に響いて、次第に息苦しくなる。
悪とは偽善の中に存在するもの。
ひどく曖昧で漠然としたその概念が、己の内で輪郭を宿していく。
反論したところで、覆せない。ならば、僕はまさに「自分さえ良ければ他者がどうなっても構わない」人間だ。
「…………わかった」
「え、じゃあ引き受けてくれる」「あんた、人のそういうところがわかるんだな」
タマの言葉を遮って、そろそろ本題に戻る。
「あ、え?」
何の話かわからないという風に、彼女は首を傾げる。
構わず、僕は続けた。
「タイムトラベラーなんて、さすがに無理があるだろ」
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