第4話

 崖から垂直に落ちた。


 バスが。


 ガラスが豪快に割れて、海面に押しつぶされて、ついでに海水の冷たさを覚悟した。

 だから。だから、僕は、死んだ?

「っああああ、ああ、あ?」

 どこも痛くないし、息苦しくもない。

 いつの間にか固く閉じていた目を、おそるおそる開けてみる。

 光が眩しかったが、次第に視界が開ける。そして、息を飲んだ。

 フロントガラスの向こうには、穏やかな海岸沿線の道。

 つい先程まで鮮明だった海面がそこにない。どこだ? どういうことだ?


「な、な、な」


 足元を確認する。宙に浮いていない。

 思わず周囲を確認する。笹島も僕もちゃんと腰は座席に着いているし、他の乗客も然り。

 皆、これから宙に浮く様子もなく、重力に則って着席している。

 しかし、ただの白昼夢にしては、現実味がありすぎた。乗客の悲鳴や、海面に急降下する情景が今も頭から離れず、嫌な予感めいたもの確信せざるをえない。

「お、おい」

 声量の調節に苦労しながら、笹島に話しかける。

 返答がない。小声すぎて聞こえていなかったのだろうか。

「なあ、おい」

 携帯を探しているのか、笹島は尚も足元にかがんだまま、こちらに見向きもしない。

 苛立ち混じりに身体を揺さぶると、その姿勢のまま笹島が真横に倒れた。「は?」手すりに肩をぶつけて、それでもかがんだ姿勢を維持し、硬直している。

「お」

 おいおいおい。

 戦慄再び。しかも次は違う種類の。

 思わず笹島の頬をひっぱたく。

 ぺちんと音が鳴るだけだった。まるでマネキンである。

 困惑と焦燥が駆け巡る。この異常事態を周囲に拡散させようと、ガラガラの声を張り上げた。

「誰か」

 今度は絶対に小声なんかではない。

 だが、誰も反応しない。バスの運転手も、茶髪ロンゲも、サラリーマンも、不気味なくらい反応せず、まさか、背筋が凍った。

 硬直する笹島を脇にどけて、席から降りる。

 通路を歩きながら一人一人の顔を伺って「ひ」思わず声が漏れた。

 皆、虚ろな目を一点に絞らせたまま、びくともしない。笹島の例に漏れず、マネキン化している。あまりの気味悪さに咄嗟に口元を覆うが、悲鳴は堪え、皆が見据える視線の先に僕も視線を移す。


 フロントガラスの、その向こう。

 真っ直ぐ伸びた、海岸沿線の道。地平線の彼方は、海と空の境界がひどくあやふやだ。

 しかし、よく見ればこの景色には見覚えがある。バスが転落するよりずっと前。

 謎の女が立ち塞がりバスを停止させたあの場所と、どことなく似ていて――

 プシュー「わっ」

 エンジンも稼働していないのに、乗降口の扉がひとりでに開いた。

 驚いて腰を抜かし、背中を座席の手すりにぶつける。

 続いて鈍い痛みが響き、ついでに顎の痛みがまだ新しいことに今更ながら気が付く。

 そういえばこの時、前の座席に顎をぶつけた直後だったなあ。なんて呑気に現実逃避している場合ではない。

 勝手に開いた扉の向こうに「ハロー」あの謎の女がいた。

「は? ろー?」

「初めまして、といのもこの場合何だか変よね」

 ウェーブのかかった茶髪をなびかせて、女が入り込んでくる。

 一方、こちらは手すりにもたれかかるので精一杯だ。脚を動かして立とうと試みるも、膝が震えて思う様に力が入らない。

「お、前は」

 何らなす術もない代わりに、声だけはかろうじて出た。

 しかし質問を一択に絞れず、結果言葉に詰まってしまう。

 一方、女は青色の瞳でこちらを見下ろし、そして呆れたように言った。

「その様子だとあなた、私が思っていたよりも小心者だったのね……先が思いやられるわ」

「これから先があるのか」

 うるさいと口にするより、そっちが気になった。

「ええ、あるわよ。だってお願いしたいことがあるもの」

 フシュ―、と女の背後で扉が閉まる。

 再び密室になった空間の中で、先ほど見た白昼夢がふと恋しくなった。


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