第19話 浅慮

 司という人間が春子に惚れ、それを自覚したのは、何時のことだったろうか。



 幼馴染である二人は、まだ一人では動けぬ時から互いを知っていた。互いが、互いの顔を見ただけで泣き出したこともあった。



 歩けるようになったのは司が先。言葉を話したのは春子が先。男女の性に違いを抜いても含めても、二人が競い合うことはなかった。それは、お互いの好きなものが違いすぎたから。



 春子は活字が好きだった。活字であれば読む素材やジャンルは一切問わない。ただ活字を目で追う。どんな意味が込められているかとか、言い回しなどに興味は無かった。


 本人は絵画や景色に近いと言っていた。ただ眺めるには複雑であり、描くには難解である。だから触れるだけで止しておく。活字と春子の関係は、何とも例えられぬ絶妙なものだった。



 対して司は体験が好きだった。どんな物事も、その肌と身体で感じなければ納得できない。



 勉強の得手不得手。運動の得意不得意。テレビで見た美味しいプリンの触感。ファーストキスは檸檬の味。どれも自分でやってみない限りは疑い続ける質であった。そうやって世界を知っていくのが好きだった。



 故に、幼少期に活字を読んで世界を学んでいた春子とは気が合わなかった。



 いじめることもないが、特別関わることもない。同じクラスになったところで喜ぶことはないけれど、嫌がることもない。

 幼馴染とは名ばかりで、他人に近い知り合いの方が、関係としては近かった。



 その関係が変わっていったのは、二人が高校に入ってから。幼稚園から中学まで一緒だった二人は、此処でついに道を分かれた。



 司は片道二時間かかる私立の進学校。春子は自転車で三十分の公立の高校。生活リズムは当然異なる。



 多くの人が布団から出たくないと藻掻いている中、司は制服に着替えて、一人学校へと向かう。共働きであり、尚且つ共に多忙を極めていた司の両親が、家に帰ってこないなどザラだった。年単位で見ても、両親の顔を見た日数の方が少ない気させする。



 例え帰ってきても、次の日には司より早く家を出て行った。玄関に鍵を掛けるのは、毎朝の司の役割だった。



 電気を消して回り、真っ暗になった家に、返ってこない「いってきます」を言う。



 小さい頃からの日常。もう慣れたことで苦では無かったが、時折浮かんでくる寂しさは年を数えるほど鮮明に、高解像度で膨らんでいく。特に冬場は、暗い時間が長いせいで増す日が多かった。



 反抗なんて、する隙ない。過程を飛び越えて成長していく。



 いつか、歪むかもしれない。そんな事など露知らぬ司に、二階の窓から眠い目を擦って「いってらっしゃい」を言ってくれたのは、同じく無知な春子だった。



 夏場は滅多になかったが、冬から春にかけてはほぼ毎日見送ってくれた。



 一度どこかで朝が早い事は伝えたが、見送りを頼んだ覚えはない。

 年に数度も連絡しないから、司の感じている寂しさを春子が知る機会は無い。


 春子は、お世辞にも察しの良い方とは言えない。だから、あの見送りは本人が気まぐれでやっていることだと司は結論付け、案の定それは当たっていた。


 正確には、ある日唐突に、マフラーに手を埋めながら登校する司を見て、自分が見送るべきだと思ったかららしい。気まぐれではあったけど、不思議な責任感があったそうだ。



 幼馴染という近くに居すぎる相手が、とても良い人なのだと改めて尊敬した。多感な時期ではあったが、気まぐれな優しさを拒否することはなかった。



 一回のありがとうを伝える代わりに、毎回ちゃんと手を振り返した。



 この時はまだ、お互いに恋も愛もない、ただの幼馴染だった。今となっては、これがきっかけだったのだと確信しているのに。




 ▶  ▷  ▶  ▷




「そっから、春子のことを良い人って解釈するようになった。素敵な人じゃなくて、単なる良い人だ」



 段差も、月も、履いてきた靴も見えない。天の星々を微かな光源に、小さな歩幅で暗闇を進んで行く。



「別に好きでもなかったんだ。好意的なだけで、それ以上の感情はなかった」



 母親経由で春子に彼氏が出来たと聞いた時、特に驚きはしなかった。

 そういう事にも興味の湧く時期だよな。正確には覚えていないけれど、確かそれくらいの感想だった気がする。


 嫉妬なんてしないし、逆恨みなんてもっとしない。映画や小説で表現されるような、心臓がキュッとなることもなかった。


 今でこそ夫婦になったが、幼馴染というのは結構脆い関係性で、友達よりも早く途切れる。



「俺は俺で、高校生活楽しんでたからさ。男子校だったから、気兼ねなくバカやって。女遊びしてるよりさ、コーラ振って、吹きだすの見て笑ってんのが楽しかった」



 照れ隠しのような笑顔は自嘲気味で、懐かしむ瞳は嘆いているようでもあった。色んなものがどうしようもなくなって、どうにもなってしまいそうな時。喜怒哀楽関係なく、過去の全てを否定してしまう。



 楽しかったはずと思うのだけれど、そんなことで楽しんでいた自分が恥ずかしくなる。その時の今を楽しんでいた。一点の曇りもない、良い事ではないか。



 自由と責任を切り離して動き、許されるのは学生の内。いっぱい悪さして、いっぱい怒られて、へこむけど楽しかったからもう一回やって、また怒られる。


 遠くにあればあるだけ、青春は美しい。通ってきた道であれ。名前も知らぬ子どもが謳歌している姿であれ。



「大学が一緒だったのも偶々なんだよ。話合わせて同じトコ選んだんじゃなくて、本当に偶然同じってだけだったんだ」



 少女に引かれる風船のように、フワフワと浮きながら。独り言を並べる司の少し後ろを、死神は付いていく。



「でも、そこでさ。ガキみたいに運命って言葉を信じたんだよ。女とか男とかじゃなくて、春子って人と、俺は一緒に生きてくんだなって思ったんだ。そう信じたかったんだ」


「はぁー、本当にそんなことあるもんなんだねェ」



 ここまで一言も発さなかった死神が、ようやく口を開く。



「俺も信じてなかったよ。運命とか縁とか、そんなの自分でどうとでも出来るって思ってた。でも違った。逃れられない繋がりって、ちゃんとあるんだよ」


「いやいや、違うよー司クン。そっちじゃないない」



 両足を司の首に絡ませ、浮いたままクルッと正面に回り込んだ死神。腹筋の要領で身体を起こすと、下がった司の頭を鷲掴みにして、額同士をぶつけ合う。



 目の前に死神の眼が写る。近すぎてピントが合わない。入り込んできた真白の髪に合わせて、瞳が揺れる。

 熱を出した時みたいに、五感がボヤついて力が抜ける。立っているだけで、脚の筋肉がくすぐったい。



 蛇に巻かれて、伝播してくるその体温が心地いい。綿のような夢現の中で、死神は語る。



「死ぬこと以外を、都合よく運命に括る人間がいることに驚いたって言ってんだよ」



 いつまでも中身の変わらない同級生。来年も小さいままだと錯覚する親戚の子。すぐに年が分からなくなる、友人の赤ちゃん。



 それらをコケにするように、死神が嘲笑う。いつまでも大きくならないと、人間を嘲笑う。

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