第18話 迷執

 老いた電車が、線路を行く。大きく揺れて、進んで行く。

 朝と同じ藍色で満ちた空。何処にでも現れるはずの月が、今日は姿を消している。



 恐らくは新月なのだろう。細かな星々の姿は、明るい車内からでも良く見えた。しかし、どれだけ星が集まろうと、月と同等には輝かない。眩い白色光が無いだけで、外の寒さを連想できなくなっていた。



 だらしなく背もたれに寄りかかり、大きく広げた脚の間をじっと見つめる。頭が空っぽになったせいか、身の回りのあらゆる事柄に注意が向かない。



 ただじっと、じっと。自分の内側で起こっていることだけが、正確に観測できる。身体の中心の熱が全身に行き渡り、内臓と筋肉に温度差がない。

 疲れのせいか、両の太ももに擽ったいような痙攣がある。指の先には微弱な電流が流れているような痺れがあった。



 ボーっとしているのは分かる。分かっているが、抜け出せない。

 気の抜けた状態を、身体は甘やかし、本能は必要事項だと宣う。



 問答の横やりも、喧嘩の茶々を入れる隙もない。に圧されれば、司は従うしかない。



 踏切の赤い点滅が、銀メッキのフロアに反射する。一瞬だけ変化した色調。離れていく警笛。それらを嫌うように体を回し、背後の窓から外を覗く。



 朧げな瞳孔から目を逸らすと、山を貫いた高速道路が、遠くにぼんやりと映った。



 両親が共働きであったため、司には家族と遠出した思い出があまりない。片手で数え切れるほどの思い出の中で、最も鮮明に覚えているのは、高速道路を運転する父の姿だった。



 司の父は、人よりも耳の良い人だった。病には含まれないが、日常生活を送る上では我慢を強いられていた。そのため、偶に乗る車の中はいつも静かだった。音楽は流さないし、ラジオも聞かない。というより、ルート案内の音声さえ煩わしいからとカーナビごと取り外していた。



 幼少期の司にとっては、退屈で無為な時間。けれど、変わりゆく景色の合間に見る父の横顔は、自分の将来を見ているようでワクワクした。

 理由も理屈も無いけれど、父の運転する姿がカッコイイと思った。きっと母も、この横顔に惚れたんだろうなと。



 トンネルに入り、電車は夜と異なる暗闇に覆われる。

 窓を隔ててすぐ。手の届きそうな距離に規則的に設置された照明。無機質なコンクリートに顔は透けず、否応にも自分の顔を覗いてしまう。



 ぼさぼさの髪。血走った眼。隈は一層濃くなり、顔全体に皺が増えている。



 不健全に不健康で、安定して不安定を維持している。



 まるで病院から逃げ出したような人相だと、我ながら思う。こんな遠くに来るよりも、まずは医者の所に行け。もしこの顔が他人の顔だったら、素直にそう言える。



 でも、反射しているは司で、司は俺で、俺はだ。



 今までに比べれば寧ろ健康的じゃないかと、的外れな感想を持って納得してしまう。単にたかが外れてハイになっているだけだというのに、司という人間はそれに気付かない。

 自分を客観的に観察して評価を下せない。自分の価値観が太陽のように中心にある。



 自分を軸に周回しているはずの惑星も、司にとっては迷子と同じ。

 母親と通った道。此処をを辿ればいつか会える。的外れでも通した理論。でも、親は理解できない。

 優しくないからじゃない。子を見失った時、呼吸で何とか出来るほど、感情は冷静に近い所にいないから。



 何処で顔を見合わせるかは、個々人でしか定まらない。残念なことに、地球は個人でなく意思もないし、人間は意図でも意図せずとも、断ち切られたように結べないことがある。



 今は、司の中で春子の存在が霞んでいる。



 ある種の全能感。今なら万物の胸ぐらを掴んでも勝てる自信がある。そんな、尊大な全能感。

 色んな意味で、自己中心的な思考。気楽であり、気配でしかないこの思考が、司に道を示す。



 その先が行き止まりであるとも知らずに。

 果てにも届かぬことも知らずに。



 再び夜の下に現れた電車は、数分して文字通りの金切り声を上げる。

 ホームにたった一つの暖色の電灯。淡くぼやけて映る白いベンチ。



 頬を刺す寒さに当てられながら。ICカード専用の改札を軽快に通り抜け、夜空を覗く。

 遠くには星々。手前には駅名の擦れた看板。蛾の集る看板灯は、不規則な明滅を繰り返す。



 コンビニはおろか住居さえなく、バス停の時刻表は日焼けが酷と虫の糞で汚れている。元々バスに乗る気は無かったが、好奇心で数字を探してみる。最終は17時で、日中も2時間に1本しか動いていないようだ。



 本数が少ないのは何となく予想できたが、最終便が17時であることが、何故だか面白くて、腹を抱えてしまう。寒気に満ちた夜に、笑い声が白息しらいきと共に飲み込まれていく。



 黒と暗闇は仲がいい。前者は後者を連想させ、後者は前者をいつでも匿う。なにより、二つとも喰わず嫌いがないのがとても良い。何だって飲み込んで、なんだって取り込む。吐き戻しもしないし、100パーセントを我が物にしてくれる。それこど、生きてる間の事に疲れた人間の一人くらい、簡単に。



 三度聞く、錆びた電車の稼働音。冬に群がる色違いの呼吸。夜でも傍迷惑な笑い声。



「出来るだけ、明けないでくれるといいな……」



 正面の左右に分かれた知らぬ道の、より灯りの少ない方へ足を踏み出す。バス以外の車が通らないのか。時刻表の劣化と比べると、舗装は綺麗なままで、革靴が醸す足音を吸収する。



 骨を伝う心臓の鼓動と呼吸が騒がしくて。鼻から入る冷気で口内を渇かす。司にとっての不快な感情。しかしそれも駅の灯りが遠くなるに連れて安堵に変わる。



 心象は情緒。心傷は憂慮。患いも所有物としてしまうのは、楽観的と繋がらない。



「死神。お前、呼べばいつでも出てくるんだろ?」



 試すような物言いで、死神の名を口にした司。足元に波紋を立てながら浮かび上がってきた真白の髪は、溺れそうな暗闇の中で、尚も美しく揺れ、煌めいた。



「もちろん! 死神の言葉に嘘はないよ。にしても、こんな真っ暗なところで……」



 宙に浮き、時計のようにゆっくりと回りながら、死神は辺りを見渡して考える。



「あ、もしかして気分が浮ついて、僕を逢引あいびきに誘うつもりかい? や~だ~照れちゃう~!!」



 両手を頬に当て、照れを演じる死神を無視し、司は進み続ける。



「も~、司くんのいじわる~。構ってくれなきゃ、僕いじけちゃうぞ~?」


「構って欲しいなら丁度いい。付き合ってくれ」


「ありゃ、本気じゃないの!! いいよー。はてさて僕は何すればいい?」



 頭上から降りてきた死神の顔は逆さまで、見下しあうと自然に目が合った。



「これから夜が明けるまで歩き続ける。俺は勝手に独り言を言ってるから、お前も好き勝手に反応したり、無視してくれればいい」



 取引でも逢引でもなかったことに死神は臍を曲げるが、何秒ともしない内に、いつもの笑顔に戻って、欠けた方の手を握った。



「しょうがないなぁ。なら今日は特別に、死神は君にエスコートされてあげましょう」



 神とのデートか。それとも人間の神隠しか。どちらにせよ、その二つが近づいてこうが訪れることは、万に一つもないだろう。


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