第17話 避行
豚カツ屋で散々胃液をばらまいた司は、職場へは戻らず、とある駅へ向かっていた。
騒然とするあの場から、どうやって逃げ果せたか覚えていない。さらに言えば、いまも自分が何をしているのか不明確でいる。
何処に視線を外しても、司を見つめる人がいた。救急車を呼ぶべきだと叫ぶ女性がいた。そんな中で、自分の吐いた胃液はとても暖かく、抱きしめられるように安心した。
心臓を紐で縛りあげるような恐怖を、酸性の液体は優しく溶かしてくれる。吐きだす行為は、心を軽くしてくれる。
吐けたことを、誕生日と同じくらい嬉しい事とさえ思えてしまう。ずっと重荷だった大切な物が、ゴミ箱に行くエンディングが確定したから。
振り子のように体を大きく身体を揺らし、集団に隠されながら信号を渡る。ボタンを留めず、肌着を露出させながらコートを羽織る男の姿は、赴くままとタイトルを付ければ、幾らかマシな作品になるやもしれない。
汚らしさを味方として、愚劣で装う。惨めな背中に浮浪と放浪を掲げる姿は、大衆に紛れることのできない、紛れもない怪事だった。
司の周囲の人の半分は、そんな司の姿に顔を歪ませる。残りの半分は即座に道を変える人と、全く興味を示さない人が半々だった。
だがもう、他人の視線からは何も感じない。心臓は、楽に脈を打っていた。
飛び方を覚えた鳥は、もう飛べなかった頃の自分には戻れない。しかし、鳥にとって飛ぶことは当然のこと。出来るようになったのは、必要な成長だと言い切れる。
では、人間はどうなのだろう。特にこの、求められる姿に縛られ続けた、多田司という人間は。
社会の色に擬態し、他人の思い込みに性格を寄せる。
個性的でないことは悪いことか。多田司という人間としてしか生きられないなんて、大層迷惑な話だと思わないか。
俺は僕であって、私を嫌う環境なら自分と呼称する。
何者でなくていい。自分を証明する事柄なんて、一つだけでいい。
多田司は、多田春子の夫である。失われることのない事実は、それだけでいい。
風に吹かれれば大きく靡き、火の粉が降りかかれば動転する。自己の概念なんて、その程度でいい。安定性のある自己など必要ない。
どんな弱い言葉も着こなそう。平凡以上の強い言葉を嫌おう。人並みを遵守するのも、もうやめだ。
自分の存在は春子に証明してもらえる。春子との繋がりには法も味方してくれる。
そうやって、押し付けがましく甘えよう。無責任に、愛情に寄りつこう。
ようやく自分で理解できた。一人では生きられない代わりに、それ以外全ての自由を持っていることを。
駅に着いた司は自宅の最寄りに向かう私鉄の改札を無視し、奥にある階段を上る。
打ちっぱなしのコンクリートに挟まれ、暖色の豆電球が設置されただけの薄暗い天井。足元に落ちる影の色は濃い。しかしその輪郭は儚くて、陽炎のように揺らめいている。
別の影と衝突したら、枠組みが壊れて散らばってしまうかもしれない。そしたら、新しい影が出来るまで、肉体が不安定になってしまうかも。
現実に則していない誤り。則っていない浮つき。けれど妄想は下らないから、腹に優しい。
認知した自由。その恩恵を実感する。世界に在りもしない想像を敷き詰めようが、多田司を失わない。愛と契約が守ってくれるから。
階段を上がりきってすぐの改札にICカードをかざし、司はホームに足を踏み入れた。
格子状のフェンスの向こうに、整った立ち並びのビル群が見える。
傾き始めた太陽。時間と見比べなければ、夏の夕暮れと見紛えてしまうほど、手前に茂る雑草達は若く青々しい。
地下を通る私鉄の上に作られたローカル線。ローカル線と言っても、終点までICカードが利用でき、終電まで四両で運行する点で幾らか街じみているが、利用者のほとんどは地域住民のみ。いまホームにいるのも、司と杖を立てて座る老人の二人だけ。
ベンチの並びに背を向けて設置された自動販売機。寂れた機械に豚カツ屋でのお釣を投入し、メーカー不明の缶コーヒーのボタンを押す。
跳ねるほど驚かないが、聞き洩らしもない絶妙な騒音。取り上げた缶は、血の通った司の指先をじんわりと焼く。
痛みは、正しい生に拘る。正しい生に痛みはない。痛みがあるという事は、その生は正しくない。
指先を焼く缶のプルタブを外し、微かに湯気の漂う液体を、口内に残った酸味と共に飲み込む。
「はぁ……」
熱が、食道を通って胃に落ちていくのを感じる。缶コーヒーは微糖でも十分甘い。純粋な糖は時に麻薬に類する。眼球が血走る解放感と、脱力が引きずり込む被支配感。
人間に無駄なく作用する、人間の作った科学。そう名付けて知識の管理下に置いたのは、嘘を付けない成分と性質が、悪者にならないためだろか。
動かずにいると、身体から熱がどんどん奪われていく。冬の気温が下がっていくペースは、太陽の沈む速度の何倍も早い。
あったか~い飲み物だけでは、体温を維持できない。左手の三本指で缶を持ち、右手でボタンをコートまでのボタンを順に留めていく。
屋根のかかっていないホームの末端に立ってみるが、弱々しい淡白色の陽光から熱を吸うのに、暗い緑褐色では足りない。コートの上から腕を擦り、踵で足踏みをしながら冷えを誤魔化す。
耳の先の感覚が無くなり始めた頃、遠くから反響した警鐘が聞こえてきた。オレンジと黄色で塗装された、四両編成のローカル電車。
速度と反比例して、動きの悪い金属同士が削り合う音が響いてきた。口の中に鉄の味が湧いて、思わず顔を歪めてしまう。
ガタガタと音を立てながら、古めかしく重厚な鉄扉は、引きずられるようにして開く。最後尾の車両に乗り込み中を見渡すが、司以外の乗客はいない。もう一人ホームにいた老人はベンチに座ったままで、動く気配はなかった。
いつもは座らないロングシートの真ん中に腰を下ろし、窓越しに遠くのビルを眺める。
さっきまで、あそこに混ざって生きていた。
足を延ばさずとも、手を広げれば必要なものが確保できる環境。安定した生活。何よりも求められる幸福の八割を体現していた。
しかし、自分の構成要因からそれらを省いた今は、不明瞭な多数が軽い。
守るため、続ける為の生き方をしなくていい。安全への配慮が行き届いたこの国なら、多少行き倒れたところで、即座に死ぬことはない。適当でも、相応で生きられる。
そして何より、今は死神がいる。死にたくなったらすぐ死ねる。例え死ねなくても、死を望むようになるまで追い込めばいい。
夢でも、願いでも、望みでもない。生きている限り、何れかの者でいる。けれど今は、存在証明が間に合っている。
だから、好きな時に死のう。
社会と、人間と、常識と。色んな自分が嫌になった、その時に。
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