第16話 反故

 無人島での決闘に遅刻した、かの剣豪と同じ名前の豚カツ屋。

 昼休みの4分の3が終わったというのに、玄関引き戸の向こうには未だ多くの人影が残っている。


 山盛りの千切りキャベツの前に、威風を放ちながら鎮座する、きつね色の豚カツ。見ているだけで噛みついた時の軽快な音が聞こえてくるようだった。



 昨夜ホットミルクから、司は水も口にしていない。脳も、可食か否かでしか物事を判断をしなくなった。それくらい腹が減っている。



 ただ生きるための食事から脱し、如何にいい味を作るか。ただ一点の為に知恵を絞り、多くの時間を棒に振る。

 気狂いの探求心と歴史。それを料理という形で提供するのが食事処である。



 手前から奥まで騒がしい店内で、司はその叡智を目の当たりにする。



 お腹が空いた。二十時間ぶりの食事に相応しい料理だ。見た目が良い。香りも良い。店の雰囲気も良い。

 無料券のおかげでお金も払わなくていい。セットのお米も美味しそうだ。豚汁からは甘い野菜の出汁が湯気になって上ってきている。



 美味しそうだ。美味しいだろうな。美味しくて幸せだろうな。

 満たしたい。満たされたい。意識が食えと叫び、無意識は飲み込めと吼える。



 それだけ思っても、箸は動かなかった。



 ここに来るまでの道のりも、幾らか億劫ではあった。司の勝手な行動を、自分に責任があると謝られ、無料券のあがないを受けたからだ。



 影見かげみに赦しを請う意思はない。形式が贖いと同質であるだけで、籠った想いは寸分の穢れの無い素直だ。損益など、初めから眼中にない。



 ただ己の生きる道を違わぬように。いま、そこに立つ自分が為すべきことを為す。

 頭を下げて、許されないならそれでも良かった。恨まれるなら、一切を受け入れるつもりだった。




 言葉にせずとも、影見の想いは察せられた。

 それなのに、また複雑に、余分に考える自分が嫌になる。

 結果、過敏になった共感性は、受けた愛を反転させた。




 迷惑をかけた人全員に頭を下げて回った午前の業務時間。

 文句の代わりにくれた思慮に吐き気を催した。不憫で捻じ曲がった常識を押し付けられると安堵した。




 想いを思いすぎて、感情がいっぱいだった。




 いつの間に、心が年を取って機能が落ちたのだろうか。

 生クリームを食べられなくなるみたいに。あっさりした物が好きになるみたいに。油で胃がもたれるみたいに、年を取った。



 いや、きっと違う。年を取ったのではない。器が、器量の"量"が少なくなったんだ。感情を貯め込む袋の許容量が減ったから、心が小さくなった。



 他人から受けた想いを、たくさん食べられなくなった。



 何処かで謙遜を履き違えて、何時かで謙虚を掛け違えた。だから腹を下して、別腹に落としてる。



 感情は胃液で溶けない。そもそも、心が溶けて流れ出たモノが感情だ。栄養はおろか、消化のできる代物でない。




 気に入らない。なぜそんな物を知覚して、重いと評する。望んで作った命でもあるまいに。




 別の客が空けた皿を片付ける角刈りの店員が、司を横目に見る。

 訝し気な視線が痛い。財布を取り出しながら、司は逃げるようにレジに向かった。



 せっかく作ってもらったのに、少しも食べなくてごめんなさい。

 命を粗末にしてごめんなさい。

 美味しいと言えなくてごめんなさい。

 "いただきます"も"ごちそうさま"も言えなくてごめんなさい。



 沢山の人に謝罪を。沢山の命に懺悔を。何度も繰り返し、自傷する。

 悪いのは全てお前だと、後ろ指を指して貶してくれ。今はきっと、慰めも呑み込めないから。



「変わってるな、アンタ。カツ屋に来てカツも食わず、沢庵も食わずかよ」



 レジを打ちながらそう呟くのは、先ほどまで司を見ていた角刈りの店員だった。



「あ…えと、その……」



 あれだけ頭の中で謝ったのに、必要な時に声にならない。使えない声帯だと、大声で文句を言ってやりたくなる。



「でも最近増えてるよ。食事は動物の虐殺だって言うやから。主義主張は個人の自由だけど、それで生計立ててるこっちとしては如何なものかって感じだけどな」



 自虐気味に笑う店員に、どんな表情で向き合えばいいか分からない。



 司は菜食主義者ではない。肉を食うことに罪悪感も違和感も持っていない。ただ命を食べている自覚はあるから、感謝して食すべきだと思っている。



 なら、角刈りに同調すればいいじゃないか。

 主義はそう簡単に濁らない。主張は大らかで凛としている。

 箸も付けずに帰ろうとしてようが関係ない。

 無料券を使うのに引け目を感じて、現金を数えてても関係ない。



 角刈りの店員の言葉に、深みはあったか? 

 光が途絶えるほど深い影のような意味があったか?




 頭の後ろで誰かに問われる。常に司の思考に反し、茶々を入れるソレは、一体誰だ。




「言いてぇことは分かんだよ。生きてる動物殺すんだから。でもよぉ、じゃあ菜食主義は殺してねぇのかって考えたら、そんなことねぇんだよ」



 外で待っていた客が、順番に空いた席に入って行く。角刈りの店員は司の出した紙幣を数える。その間、命についての話は中断された。

 タイプライターのように騒がしいレジスター。ボタンの音が五つ鳴ると、鈍い音と共にドロワが開いた。



「ま、食いたくなったらまた来なよ。水曜以外はいつでもやってるから」



 店員は正方形に近いレシートを千切り、落ちないよう小銭を被せる。



 腹は空かないが、エネルギーは枯渇している。身体の調子は上がらないまま。コンビニであれば、このお釣りで缶コーヒーくらい買えるだろうか。



「肉も野菜もおんなじ命。それをバラバラにして火ぃ加えたのが嫌いじゃなけりゃだけどさ」



 そう言って笑う角刈りの店員が、天井に向かって飛んでいった。



 予測の外から割り込んできた現実。疑問詞だけが止めどなく湧いて、それぞれの処理の為に集中が分裂する。

 視界が右に、左に、高速で回る。脳が頭蓋と衝突して、ピンボールのように跳ね回る。

 平衡感覚が狂ってバランスを崩れる。両膝を付いて座り込むも、耐えきれず右手を突いて床に這う。



 水分を取っていなかったから? それにしては症状が急すぎる。

 食事を取っていなかったから? だとしても考え付く異常の域を超えている。

 寒気は無い。むしろ汗ばんできた。




 周りの音がライブハウスみたいに大きくなってる。眩暈のせいで状況がハッキリしない。




 要素が混ざって、乱れて、困って、惑う。混惑こんわくして困乱こんらんする。言葉もままならないほどに。




 首の付け根から、喉を伝って大きい物が迫ってくる。狭めた咽頭の隙間を縫って、流動物は押し寄せる。




 間に合わない。そう察して、左手で口を覆う。

 しかし、足りなかった。指の欠けた左手では、零れる想いを掬いきれない。




 口いっぱいの黄色い液体が、喉奥から止めどなく吐きだされる。

 食道を通じて、溢れてきたソレは胃液。噛み砕いた食物が含まれていない、真っ新な胃液。




 体温よりも少し温い、不安が紛れるような温度の液体。




 酸っぱい匂いが掌から香ってくる。溢れた分は水溜まりのように、水溜まりよりも鈍く、波紋のように広がっていく。

 角刈りの店員が、慌てて司の姿を隠す。この時、司はようやく自分が沈んだことに気付いた。



 見慣れない光景に、客も店員も、みんなが司の方を向く。




 臭い。汚い。生暖かい。

 だれも、俺を見ないでくれ。見ないで。見ないで。見ないで……

 見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな......





 願いとは裏腹に。望んでいない善意が司を囲う。




 吐き続ける司がそれを返す余裕は無い。にも拘わらず、態を理解した客の何人かが司に駆け寄り声をかける。無価値ではない無償の愛を。




 申し訳なかった。やるせなかった。

 だから、受けた優しさと同じ数だけ。用意したあらゆる武器で、自分の心を傷つけた。



 自分は、恵まれていはいけない。幸せであってはいけない。

 与えられた優しさに、感謝をしてはいけない。

 まだ救われない人がいるのだから。最愛が聞いて呆れる。愛で何もできない自分に価値などないから。




 優しさに、染まってしまわぬように。自分はまだ、優しさで上書きしては、いけないんだ。

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