第15話 発破

 今日の出勤まで、司は真面目で当たり障りのない平社員だった。


 特別な資質を持たない分、特別な弊害も起こさない。悪行は初めから思いつかず、感情が上ずった時だけ善行をする。

 薬にも、毒にもならない。多くが気にも留めず踏み潰し、偶に現れる野良犬の食事に巻き込まれるだけの雑草。その雑草が、突如として棘を生やした。



 誰も見向きもしなかったくせに、傷を与えた途端その雑草は刈り取られる。自身が与えた、傷の大きさを知らされぬまま。



 教室ほどの会議室。横長のテーブルを挟んで向かい合う上司の表情は、怒りとも無とも判別できないものだった。



「仕事と言えど、干渉する領域には配慮が必要です」



 中学生と見紛うほど小さな体躯から発される、脳奥まで響く太い低音。額から右目にまでを覆うように広がるあおぐろい痣。

 LEDの光を反射させ、白金を纏ったように光る白髪が、鈍い色をより目立たせる。



「私が干渉出来るのは『社会人』としてのあなたまで。ですが、そこに一切妥協はできません。部下を守り、管理するのが私の仕事です」



 強く、動じない。大木のように太い影見かげみの声。人口密度の低い部屋で何度も反響する低音は、波長を増幅させ精神を侵蝕していく。


 緊張で肥大化した喉仏が、気道を圧迫する。酸素の供給が滞り、体内に在中する全ての臓器が動きを止め、収縮していく。

 唯一、煙を吸わない健康な肺だけが良く膨らみ、逃げ場を失った二酸化炭素を抑え込んでいた。



「まず、当分は残業禁止です。一分でも残業したらゲンコツです」



 溜息のように零れた上司からの指示に、司の知覚する世界の気圧が消える。


 浮かんでいる感覚に似ているが、無重力とはまた違う。

 タイヤの空気が抜けた、と言ったほうが近いかもしれない。溜まっていた気体が一気に抜けて、膨らんでいた肺が萎む。



 入れ替わるように吸い込まれた同量の酸素が、ぼやけていた視界のピントを定めていく。血流が加速して、骨まで熱が伝播する。

 筋肉が緩んで、肉体の輪郭が広がる。感情の加工のない原寸大の世界の解像度が、少し良くなって見えた。



「私が言うと嫌味に聞こえるかもしれませんが、残業無しは純粋に羨ましいです。私も残業せずに家に帰りたいものです」



 珍しく愚痴を溢す影見。反応に困った司は、社会性と名付けられた武器庫から苦笑いの仮面を取り出し、装着する。



「影見さんて、意外と冗談とか言うんですね……」


「私だって冗談くらい言いますよ。相手方が笑ってくれないだけです」



 弧を描いた緩やか軌道のボールを投げたつもりだったのだが、帰って来たのは直角に曲がる変化球。苦笑いで上がっていた口角がさらに引きつる。



 だが実際、司が困惑するのも仕方のない事だった。

 影見の下に配属されて数年。ただの一度も、影見が何かの愚痴を言っている姿を見たことが無かったからだ。



 仕事中でも飲み会の席でも、影見は常に淡々としている。



 ロボットかと疑ってしまうほど表情が変わらず、人間かと疑ってしまうほど感情の波がない。お茶目とは対極の位置に存在し、皮肉と冗談の語彙に乏しい。

 経歴と成果から信頼に足る人物だと誰もが理解できるが、理想の上司かと聞かれると、唸りながら首を傾げてしまう。

 他者を思い遣る心は大きいのに、言葉のせいで上手く伝えられず貧乏くじを引かされる。



 それが、司の持つ影見の印象だった。

 そういうキャラクターだと思い込んでいたから、イメージと真逆の行動を認知した脳は、瞬間的にショートする。

 欠陥があるのは司のイメージ像の方なのだが、どれだけ細部を整えたとて、この像が完成することはない。例え愛する妻であっても、自分自身であっても。



「ただ、私も無意味に残業を禁止する訳ではありません。上に問い詰められても真顔で返答出来るくらいの理由があります」



 空間にピアノ線のような細い緊張が張り巡る。少しでも触れれば音が鳴り、共振を繰り返して轟音が生まれる。意識せずとも、背筋はピンと伸びた。



「こういう処置を取らなければならないほど、今のあなたはやつれて見える。少なくとも、私がそう判断するくらい」



 痣に覆われた重たい瞼。その奥で光る濃ブラウンの瞳が、司を見透かす。



「プレッシャーを与えないために控えていましたが、今のあなたの存在は部署内で支柱の位置にあります」



 社内での司の立場に、正式に定められた名称はない。しかし、時として身勝手に頼られる者同士の共感が、影見の目尻が僅かに下げた。



「管理するのが仕事と言っておきながら、貴方の心労に気付けなかった。今回の処置は立場上の責任というより、私の身勝手な贖罪です」



 慈しみは愛に似ていて、愛の言葉はたくさんある。

 友愛、親愛、博愛、純愛。愛執、愛染、愛惡。そして、愛憎。

 何が影見の中で疼いているか分からない。



 想う心を例える言葉は、この世に余るほどある。その幾つかは実際余っていて、触れられることなく腐っていく。



 司は、その腐っているかもしれない愛を噛みしめた。甘い蜜が滲んでくると思い込んで。



「自分が弱っている現状。社会人以前に一人の人間として、知っておいてください」



 一連の連絡業務を終えた影見は、足元の荷物を手に取り、席を立つ。狐に化かされたように呆けていた司は、少し遅れて立ち上がり後を追う。



 感情が高ぶったのも束の間。何食わぬ顔で、影見は調子に戻ってしまった。

 いつも通りのポーカーフェイス。しかし歪みの無い鉄仮面も、裏側を知ると面白い。



 影見は本来、感情的な人間なのだろう。

 ただ、周りが彼に持った印象が、理屈的で理性的な堅物だった。昔から他者をよく見ていた為に発達した共感能力は、それを早くに察した。



 人を管理する立場にあるのも、気付けなかったことを悔いているのも、何が自分に求められているかを知っていたから。それが社会での自分の責務だと、刻んでいたから。



 自分には出来ない生き方だと、司は二回り以上小さい背中を見下ろして、尊敬の意を込める。



 この人は、生き方を拘らない人。求められた生き方を、全うできる人。

 同じ廊下を歩いていても、振り返った先にある足跡には大きな差がある。



 故に踏み込む一歩の重みが違う。



 シックな色合いにタイルカーペットに残った、倣う価値のある足跡をなぞる。足りない歩みが、少しでも濃くなるように。



「そうだ。そういえば、良いものがありました」



 部署の扉を開けようとしたところで、何かを思い出した影見は内ポケットを漁り、皺だらけで乱雑に折れ曲がった茶封筒を取り出す。

 長らく放置されていたらしいボロボロのそれを、影見は丁寧に開き、中身だけを司に差し出した。



「ここの近くにある、とんかつ屋さんの定食無料券です。期限が今日までなので、よければ気分転換にでも」



 ほとんどの食事を自炊で済ませる司は、昼も夜も関係なく食事処に疎い。

 基本的にファミレスかテレビに出るようなチェーン店の名前しか知らないが、この店だけは例外的に聞き覚えがあった。

 社内で何となく聞いた限りの情報だと、値段が安いのに量が多く美味しいという、所謂“町のご飯屋さん”らしい。



「いや、でも、せっかくの無料券ですし。影見さんが使ったほうがいいんじゃ……」


「この年になると、脂物は見るだけで苦しいのです。それに私には、奥様の作ってくれたお弁当がありますから」



 司の胸ポケットに無料券をねじ込んだ影見は、何事も無かったかのように扉を開け、自身のデスクに戻って行く。



 司はその背中を見送った。見送って、しばらくそこで停止する。

 入社して二年目の女性社員に大丈夫かと声をかけられ、発声の狂った日本語らしき言語を返して、ようやく我に戻る。



 デスクに戻って、司はすぐにパソコンの電源を点けた。溜まった書類の整理を後にしたのは、すぐに作業に入りたかったから。何かしら行動を起こして、気を紛らわせたかったから。



『奥様の作ってくれたお弁当』



 影見はその観察眼で、心の地雷原を把握できる。

 いち人間のスキルとして、とても優秀なスキル。誰の心の深い所に干渉せずに、大事な物を理解することが出来るのだ。



 でも、それだけ。影見でも、それなかった。



 地雷原を把握して、地図上に書き込む能力だけ。

 起爆方法を考察出来るの能力までは、持ち合わせていなかった。

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