第14話 首枷

 同意を求められているようだった。

 首を縦に振れと。共通の理解を、再確認されているようだった。



 人間は強くない。歯を喰いしばる司の頭に、春子の顔が浮かぶ。



 死神の言ったことを、真っ向から否定することは出来ない。独りで生きられないことを弱さとするなら、人類は全員が弱者だ。大なり小なり、人は他人を頼って生きている。

 それこそ結婚も。言及するなら、友人や恋人を作る時点で、人は他人を欲している。



 大学時代。司が春子と付き合いたいと思った時。彼の脳内には結婚はおろか、理想のデートプランの妄想さえなかった。

 

 彼女と時間を共有している時が一番安心できた。穏やかで、和やかで、地球の裏まで見えそうなほどの凪。誰の隣よりも居心地が良かった。

 不可視の心にも血が通う。太陽の出ない冬も、雪の降りしきる夜も。女の隣にいる時は、心と体がずっと暖かかった。

 長く会えない時は、人一倍寂しがった。人一倍、司は春子との時間を求めた。



 何をしていても、心の何処かで春子を欲していた。時間が経てば経つほど、その想いは募って重さを増した。



 その眼で、見つめていたくて。その肌に、触れていたくて。



 言葉を介さずとも手を握れる距離に、春子がいる。それが何よりも安らぎだった。

 心の安寧。争いを知らずとも、人がいずれ到達する願いの最期を、司は春子に求めていた。



 痺れるような一目惚れも、張り裂けそうな鼓動の高鳴りも無い。

 創作の足しにも足らない、つまらない恋愛。けれど、想う心は本物で、想われたい気持ちは、呪いだった。




 春子と一緒にいる力が欲しい。結婚という法的権力を用いて、司はその夢を叶えた。

 お陰で、心の整然を一人で保てなくなった。生活と心の一部に、他人を組み込んでしまったから。


 それを弱さと言うのなら。それが、強くないという事ならば。


 相容れない価値観はある。様々な背景と経験の下の意見を、簡単に否定してはいけない。



 気持ちと共に、意見に行きつくまでの背景を推察する。

 素性の知れない死神に、果たしてそれは叶うのか。



 残念ながら、今回は相手が悪い。特筆事項の無い司にとって、死神の言葉は侮辱にしか聞こえなかった。



 対岸の業火を風情とうたう。遠くの国の戦場で散る火花をともしびと詠む。

 誇りを込めたたすきを〝本日の主役〟と書かれたパーティーグッズと同じだと、指をさして笑われているようだった。



「一人で生きるのがとっても上手な人はいるけど、君は弱いからね。早く他の人になすりつけちゃえ! すぐに楽になるよ!」



 融けた鉄のような怒りが、腹の底から湧いてくる。

 侮蔑をアドバイスに返還できるほど、司の懐は深くないし、利口じゃない。

 つり革を探すように左腕を掲げ、網棚からを見下ろしてくる死神の、その首を掴まんと手を伸ばす。

 逃げもせず、抵抗もせず。死神はただ、司が為そうとしている事を待った。



 白く細い、憎き死神の首を掴むまで、あと2センチ。足元から、金属の擦れる音が響く。



 立っている乗客全員が、一斉に進行方向に傾く。巻き込まれた司は再度かたまりに押し込まれ、ドア横の手すりに背中から打ち付けられた。



 電車が完全に停車すると、空気の抜けるような音と共に扉が開く。

 先頭にいた大学生が、自身の抱えた鞄を盾に、溢れそうになった乗客を中に押し戻す。

 続く後方に応援の意思はない。死んだ魚のような顔で大学生の背中を押し、許容量を超え鉄箱に入り込む。



 奥へ奥へと押し込まれ、あとほんの少しだった死神の首が、みるみる遠くなっていく。


 柔軟剤と、加齢臭と、香水とが混ざる。鼻先を掠めるだけで吐きそうになる強い匂いが、車内に充満する。



 鞄をクッションにしていないと、内臓が潰れそうになる。バランスを取るために、つま先の角度を調整することもできない。

 顔も名前も知らない他人にもたれて身体を支える。二本も足があるのに、人は多勢の中では、自力で立っていられない。



「おぉ! これが噂の通勤ラッシュ! 生では初めて見たよ!」



 苦しむ司を余所に、表情を失くした人間達を見て死神は眼を輝かせる。

 押し離された司に、その声は聞こえない。しかし少なくとも、死神の表情から良い言葉を口にしているイメージは浮かばなかった。



「にしてもこんなぎゅうぎゅう詰めだと、人間版の動く蟲毒みたい。一人くらい派手に殺せば最高に狂った人間が生まれるかな」



 網棚から降り、乗客の頭上を浮遊する、真白の髪の死神。

 少年のような風貌のそれが、正真正銘の死神であると、司はようやく信じることが出来た。



 人間の見た目であるだけで、人間では無い。人間の言葉を使うだけで、使う理由を知らない。



 現実ばかりを突きつける正直者に、共感を求めても無駄だった。

 死であるソレに、生での縛りを唱えても無駄だった。



 首を絞めようと伸ばした手が、どれほど無駄だったかを痛感する。



 死神とは通じ合えない。背中合わせである以上、見ている景色は同じになることはない。



 ならばと、振り返ることはしなかった。



 経験と、感情と、記憶と。色んな要素で歪み、偏り、螺旋よりも捻じれる自分の世界に妥協した。

 死神の語る世界を、理解することは諦めた。自分の眼の前にある、世界を歩くために。


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