第13話 躊躇
クリーニング店から飛び出た司は路地を抜け、そのまま駅の改札に走り込んだ。
改札にICカードを叩きつけ、発車間近の快速急行に乗り込む。
迷惑そうに自分を睨んでくる他の乗客など意に介さず、司は肩で息をする。
人の詰め込まれた車内。物理的な余裕も無ければ、乗客達に精神的な余裕もない。扉が閉まると同時に、中央に凝縮されていた人の塊が司をドアに圧しつけた。
閉鎖された空間。誰しもが身体を押され、己の存在を環境と同化させる。服の内側だけが自己の領域。胸に抱える手荷物は自分の所有物と分かっているのに、異物だと錯乱してしまう。
色んなモノの境界が曖昧になる。人の適応能力は、科学の発達した現代でも褪せることはない。
車内は暖房がよく効いていた。例年より平均気温が低いこともあってか、最近は何処も彼処も暑いくらいに暖房を使っている。
何度拭っても汗が止まらない。額から、首から、止めどなく溢れてくる。
閉鎖空間で、暖かい空気は素早く足元まで満ちる。
コートの袖に拭った染みが増えていく。循環しない空気は、秒刻みで穢れていく。
穢れた空気を吸うと、散る灰を吸い込んだように喉が焼けて痛い。
潤いは奪われ、渇きは舌の根まで上ってくる。
気管はそれを瞬時に察知する。呼吸を抑えながら、司は二、三度咳き込んだ。
今日も、身体は正常に反応する。正常を保つために、異常を敏感に検知する。
どうかしている。
どうしても、生きることが気持ち悪い。
どうして身体は生きようとする。意思とは関係なく、生きることを正常とする。
どうして、死ぬことを拒むように出来ている。
司は、生きている人間だ。そして、春子も生きている。
限りなく屍に近い。けれど決して、生きた人間の括りから漏れない。
体温を下げようと、心臓は必死に体温を上げる。細胞を動かそうと、肺は酸素を欲する。
肉体において、平穏な時間がとても短い。
寝ても覚めても、健康でも不健康でも、身体は動き続ける。
生きるために働き続ける。
ただ何時になっても、死ぬための準備は行わない。
死ぬことは限界。知識は限界を知っている。しかし肉体は死ぬことを考えない。
生きている内は分からない。死んでからは教われない。
死んでも生き返らないから、死には枠も形も存在しない。
生にいながら死を想う。無粋の言葉が何よりも似あうのに、当てはめる枠がない。
きっと、疲れているだけだ。こんなに元気が無いのは、疲労が溜まりすぎているからだ。
『自分は、疲れている』
暗い方に流れてしまう理由。死ぬことばかり考えてしまう言い訳。
具現化した命のやり取りが頭から離れない説明を、その一言に押しつけてしまいたい。
どれだけ眠っても、今の司には足りない。疲労は心に、身体に、残り続ける。
眠り続けなければ、司は現実という悪夢に
永遠に眠れば、自分はこれ以上、苦しまずに済むのだろうか。
「あららら、随分とセンチメンタルになっちゃって。お腹でも壊した?」
音が聞こえるギリギリの深度。浮上を忘れ、沈み続ける司。
突如として聞こえた声は、絞殺するようにその首を握る。
感触を察知した司は、静かに顔を上げた。
栄養剤の広告の張られた、小さなドア窓。自分の眼を見るその後ろに、小さく揺れる真白の髪が映りこんだ。
「とっても人間らしい溺れっぷりだね。でもそういうのは、見てる方が疲れるんだよ?」
網棚に仰向けで寝転ぶ死神は、首を大きく逸らし、顔を上げた司と目を合わせる。
「指を失くしてから、君は一層ナイーブになったね。そのままカルト宗教にでも入信したら?」
死神が、神やも知れぬ神を薦める。
「信仰なんて、悪く言えば気持ちの問題だから。やる気があれば、誰だって教祖だし、誰だって信者だよ」
身体を半回転させ、うつ伏せになった死神。
退屈を持て余しているのか。大きな欠伸をすると、手遊び代わりに司の髪をいじりはじめた。
何もない
薄味の怪現象に、気付く者はいなかった。
誰しもが、手元の機械に目を奪われていたから。
「いったい、何の用ですか?」
他の乗客に聞こえないよう小さな声で、司は自分にしか見えない死神に問う。
「特にないよー。ただの気まぐれ。勤勉な
軽い調子で死神は答える。司のこめかみの血管が、歪に膨らむ。
今にでもその胸ぐらを掴んで、電車の外に放り投げてしまいたい。
生まれて初めて感じる明確な殺意は、理性で抑えられるだけ、優しかった。
「君はさ、何を恥ずかしがってるの?」
手遊びに飽きた死神は頬杖をつき、小学生のような好奇心を、司に向ける。
「君は、君の奥さんの為に指を差し出した。それって此処だと”愛”とか”献身”って言うんじゃないの? 僕は死神だから知らないけど、綺麗な言葉なんでしょ?」
声だろうと、文字だろうと。どんな形であろうと、その中に慈しみを込められる言葉。
暖かいはずのその言葉も、死神の口から聞くと悪霊のようだった。
死神の愛と献身は、服に滲む汗を媒介に、司の全身を凍てつかせた。
「僕の事だけ隠して、適当に言っちゃえばいいのに。曖昧な説明にしとけば、あとは相手が勝手に補完してくれるよ」
耳の先まで凍りが張る。縮んだ心臓の鼓動は、胸に手を当てていても、簡単に消えてしまう。
「……人が死にそうになってるのを、公然と話せるわけがないだろ」
冷えた指先を握り込む。爪が掌に食い込む。
ギチギチと、音が鳴りそうなほど拳を強く握る。奮う先が無いそれは、自身の力で、少しずつ小さくなっていく。
「それってモラルとマナーってやつ? 僕は死神だからその辺よく分からないけど、抱えてたって何も解決しないよ? 君を含めて人間は左程強くないんだから」
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