第12話 秘匿

 太陽が昇っていくのに比例して、歩道を行く人数が増えていく。前を歩いていた二人は、いつの間にか人流に飲まれて見失った。



 人混みから逃れるように、司は駅の手前の交差点を左折する。



 木目を基調にした、和の外観の居酒屋が立ち並ぶ狭い路地。

 毎夜祭りのように賑わう飲み屋通も、早朝の今は大人しく、活気の欠片もない。



 重たい空気を吸いながら、司は入り組んだ道を進んで行く。



 無機質に店を隠すシャッターと、奥に行くほど濃くなっていく、煙の香り。どの店の前を通っても、祭りの残り香が溢れてくる。



 鳴り出しそうな腹の虫を抑えながら、司は目的の店を目指す。



 背後から、足音と高校生達の話し声が聞こえなくなった頃。酒と食に塗れた道に、ビビットイエローのテント屋根を張った、ガラス張り店が現れる。



 中学の同級生であった夫婦が、七十の誕生日を迎えた時に始めたクリーニング店。

『老いた面々』を意味して『ロウメン』と名付けられたこの店が、目的のクリーニング店である。



 手袋を付けたまま、司はシルバーのドアハンドルを引き、暖房の効いた店内に入る。



 カウンターに人の姿はない。重々しい空調の稼働音が、体を揺らすように響いてくる。



 どうやら夫婦は、奥で作業中らしい。

『御用の方は…』と書かれた呼び鈴を鳴らし、ズラリと掛けられた服を見て待つ。



「はーい」という高い声と共に現れたのは、銀縁の眼鏡をかけた、若い男だった。



「いらっしゃいま、せ……あぁ、多田さん。どうもお久しぶりです」



 柔らかな挨拶に、司はほんの少したじろぐ。

 小柄で目つきが悪く、反抗期だったはずの少年が、自分よりも背の高い好青年になっていたからだ。



「久しぶり、漆希しき君。少し見ない間に、随分と大きくなったね。」


「もう成人したってのに、成長期が終わってないみたいで。去年だけで6センチも伸びましたよ」



 嬉し恥ずかしそうに笑う彼は、この店の営む老夫婦の孫である。元々は九州の親元にいたが、大学進学を機に、祖父母の手伝いをしながらここで生活をしている。




「今日はどうしました? 多田さんトコ、今は何も預けてないですよね?」




 台帳なども確認せず、しっかりと顧客の状況を記憶している所を見ると、仕事にはだいぶ慣れたらしい。




 司は彼の成長に何も関与していない。それでも知った子の成長を見ると、どこか誇らしく思えてしまう。



 司も年をとったということだろう。子どもの成長というのは、例え余所の子でも嬉しく思えるのだと知った。



 大学に入ってから、実母が大きくなった息子よりも、道行く幼子を見て笑顔になっていた理由が分かった気がした。




「このコートのクリーニングをお願い。借りている物だから、出来るだけ早く仕上げて欲しんだ」




 受け取ったコートを、漆希は手早くカウンターに広げ、汚れの状態を確認する。




「こりゃ確かに、多田さんのじゃないですね。タバコの染みがめちゃめちゃありますわ」



 ひとしきり確認したところで、漆希はカウンターの下から伝票を取り出す。



「お急ぎってことなら、明後日の朝にはお渡しできるようにしときます。通常より割高にはなりますけど、丁寧に仕上げておきますよ」



 軽い調子だが、不思議と嫌気の湧かない接客をする漆希。反抗期の頃の彼からは想像もつかなかったが、意外と番台役が向いているのかもしれない。



「了解。それじゃあ二日後の夕方に受け取りに来るよ」



 漆希から受け取った伝票を財布に仕舞って、司は再びドアハンドルを握る。



「……多田さん、一つ聞いていいですか」



 扉が半分開いたところでいつの間にコートを畳み終えた漆希が、司の背中に声をかける。



「どうしたの? コートのポケットに何か入ってた?」



 呼び止めるなんて珍しいと思いながらも、扉を半開きにしたまま、司は何気なくそう返した。




「いや、勝手な想像なんですけど……多田さん、左手に怪我とかしました?」





 瞬間——心臓が、何倍にも膨張する。

 拍動が、肋骨を折ろうとせんばかりに、増幅する。





「いやその! 失礼だとか、そういうことを言いたいんじゃないんです! ただ、多田さんて自分と話す時、いつもカウンターに左手握って置いてたんで。でも、今日はずっとポケットの中だったなと思って……」



 漆希に悪気はない。補足の通り、司に対し失礼だと怒っているわけでもない。怒りたいわけでもない。



 もし、クリーニング業界全体の審査会があったとしたら。漆希は優秀なスタッフとして評されるかもしれない。

 日頃から顧客をよく見ているからこそ、細かな違和感を見逃さなかった。スタッフとして、彼が立派に成長した証明でもある。



 何より漆希は、春子の存在に触れなかった。夫妻の欠けに、微塵の反応も示さなかった。



 痴話喧嘩を想像したか。

 片方の不倫を察したか。

 離婚の危機を悟ったか。



 漆希の頭にどんなイメージが浮かんでいたのかは、定かでない。



 しかし漆希は敏感に、春子を“触れてはいけない事柄”であると直感した。光の届かない海の底に、素潜りで向かおうとはしなかった。



 余所の子ほど、気付いたら大きくなっている。中身も、見た目も。大人が思っている何倍も早く、大人になってしまう。



 漆希も大きくなっていた。



 だが実際は、まださなぎから出たばかりの世間知らずだった。

 ただの世間話が、人の琴線を引き千切る事があると、漆希はまだ学ぶ前だった。




『偶々じゃない?』




 司が一言そう返せば、この会話は、何度でも笑える会話になる。一方的に感じている焦燥も、簡単に誤魔化せる。



 司が指を失くしたことは、病院関係者がよく知っている。しかし誰一人として、は知らない。



 愛する妻の為と説明すれば、死神を疑って笑う人は幾人もいるだろう。



 しかしそれ以上の人々が、司と春子の愛を称賛する。映画のようなストーリーに、声を上げて泣く誰かが現れる。



 美しい以外に成り得ない関係。武勇伝として語り継がれ、美談として常に纏う過去。



 後ろめたい要素が、後ろ暗い部分が、何処にあろうか。

 胸を張って言える勇気じゃないか。自信を持って、声を出せばいいじゃないか。



 だが、司は逃げた。

 動揺した表情を隠せないまま、「ごめん」と小さく言い放って。



 好奇心は猫をも殺す。九つもの命を、好奇心は容易く奪う。

 その命を一つしか持てない人間は、八つにでも、裂かれるのだろうか。

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