第11話 冷嘲

 皺の無いスーツ。その上から鶯色のコートを羽織り、司はいつもより30分早く家を出た。



 日暮れとも錯覚してしまいそうな、濃紺の空。太陽が昇る前の外は想像以上に寒く、吐く息は瞬時に白くなる。

 吸い込んだ冷たい空気は温度差によって、肺の形をくっきりと浮き上がらせた。




 右手で仕事用の鞄を持ち、左腕に福田のコートを抱えて、司はエレベーターに乗り込む。最新式のエレベーターは、一切の振動もなく、鉄の箱を静かに降下させた。




 司がいつもより早く出た理由の一つは、福田のコートをクリーニングに出すためである。司の住むマンションからほど近い所に、24時間営業のクリーニング店がある。




 憐れみと心配を込めて、福田が貸してくれたコート。いつ返そうか予定を確認するだけで、司の心は大きくざわつく。

 元来、司は借りることが苦手な人間だ。時間が経てば経つほど、借りた相手への罪悪感を募らせる。




 他人想いと解釈されれば都合がいいが、内心はその逆である。

 自分を大事おおごととして捉えている。そのため、司は自分の不快感を酷く嫌っている。




 仮に借りた物に問題が発生したとしても、責任を問われたくない。自分に属さない物の価値を計れない。他者が持つ、物に対する感情を受容する機能が、司には大きく欠落している。それが分かっているから、司は焦り、落ち着かない。



 いつか自分は、人様の物を蔑ろに扱ってしまう。自身への不信感は時間が経つほど高まる。高まるほど、逃げることだけを考えるようになる。

 そのような人間であるから、司は借りた物は出来るだけ早く返したがる。元々の気質として、肝の安定しない人間なのだ。




 ただ、これらは家を出る前に思いついた言い訳であって、前々から決めていた予定ではない。




 昨夜、司は一睡もしなかった。一寸たりとも眠気を感じず、一秒たりとも、微睡みを感じることが無かった。ただずっと眼が冴えていて、気付けば朝になっていた。



 暗くて、何処までも開け放たれた空間。音の無い、夜という時間。誰かが自由と称賛した時間が、司にとっては酷く長く緩慢だった。

 家を出るまでの間、司は天井を眺めることに費やした。ソファに横になり、寝室から引きずってきた毛布を被り、真っ白な天井を眺め続けた。




 ぽつぽつと、あるはずの無い染みが見えるようになった頃。けたたましいアラームが頭上で響いた。



 いつもなら、その正確無比のアラームに怒りを覚えながらも、仕事への責任感と義務感を背景に疲れたれた身体を力尽くで持ち上げるのだが、今日は冷徹にアラームを止め、力の抜けた身体でゆっくりと起き上がった。



 眠らない一日はとても長く、寝ぼけない朝は淡白であった。時間を持て余して仕方がない。



 色味の無い自分と、彩の無い空間は、とても窮屈だった。要は、居心地が悪かったのだ。司は自分の家に、長く居たくなかった。なるべく濃く、可能の限り、強い色のある所へ行きたい。夜の残る朝を歩くのは、司の無意識の逃避だった。




 結局この男は、逃げてばかりだ。




 手袋の内側で温まらない手先に耐えながら、司はタイルで舗装された歩道を進んで行く。



 前方には黒いダウンジャケットを着た、ラガーマンのような体格をした男性。その少し先に、アイボリーのコートを着た、150センチもなさそうな小柄な女性が歩いていた。恐らくは二人とも、駅に向かっているのだろう。



 司の向かっているクリーニング店は、駅の少し手前にある。

 前の二人に倣うように、司も同じ方向へ足を進める。



 今朝の気温は氷点下に近い。雲と風が無いだけ優しいと思うが、妥協の気持ちだけで寒さが和らいだりしない。寒いものは、寒いまま。耐える側の心構えが変わるだけだ。



 手袋を付けた手をポケットに収め、外気と遮断する。血の通っている感触はなく、冷たい塊という輪郭だけが、そこに肉が在る事を証明している。




 悴んで上手く動かない右手と、形の歪んだ左手。




 二十数年間、欠損の無い身体が当たり前だった。

 たとえ、失くす際が劇的であっても、無意識に区別された認識は、そう簡単に更新されない。



 まだ、指を失くしたことを忘れてしまう。そこに在ると、誤認してしまう。



 夏は全身が熱を持つため、手足と胴体の境が曖昧になる。変な表現になるが、身体が一つになった気分になる。

 しかし、冬は全くの逆。手足は一度冷えると長く冷たい。対して胴は、一定の熱を保持し続ける。肉体にも、優先順位があることを思い知らされる。



 心臓と肺に、熱と鎧を。脳を囲うように、強固な骨を。自らを絶やさぬために、生殖器に秘毛を。

 身体の、非情で現実的な階級関係。生きることに特化させた構造。死なないことを最優先としたプログラム下では、胴からはみ出た四肢の地位は低い。




 手など。ましてや指など、失っても死なない。在ったら便利。その程度の物なのだ。




 投げやりで、嘆きにも満たない結論。指を失くしたことを正当化したい。ストレスを感じた人間が、無意識に起こす対処行動。




 前方に姿を現した太陽。そこから伸びてくる陽光に、司は目を細める。

 人間を含めて多くの生物は、日中に活動する。夕方の太陽がオレンジ色なのは、舞い上がった塵芥に反射を繰り返すから。

 夜は、その生物達が寝静まる、舞い上がった塵芥が、再び地上に降りてくる。だから、夜の終わりである朝の太陽は、透明に近い色をしている。



 けれども光は純粋じゃない。完全な透明であれば、人間は光を知覚することが出来ない。何であろうと。何処で生まれ、何処で育とうと。物事は、時間が経てば穢される。




 例え放った光が清澄であろうと。環境は悪気なく、見境なく清を穢し、純を膿ませる。



 逆光が、前を行く二人を陰に代える。影が歩き、そこかさらに影が伸びる。



 照らされる表面おもてめんに対し、同じ大きさの影が二つ現れる。人間には陰りの方が多い。司もその例外でなかった。

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