第10話 愚論

 時間が流れて、夕方。いつもなら夕飯の下ごしらえを終えて、身支度を整えているところだが、今日の司は、ソファに座ったまま動かない。

 牛乳と蜂蜜を混ぜ、レンジで温めただけの簡単な甘味を摂取しながら、録画していたドラマを眺めている。



 春子が入院してから半年。毎日欠かさず行っていたお見舞いを、司は今日初めてサボった。



 サボったと表現されると些か聞こえ悪いが、司のそれは、教員に文句を言いながら、事ある毎に大人になろうとする中学生や、麻雀に明け暮れ、翌日の授業に支障をきたす大学生。



 彼らのような、不純で不真面目で素行の悪い輩のものとは、意味が違う。



 死神と出会い、指を失くし、春子のいる病院で治療を受け、家に戻って、暗く重たい思考の渦に溺れ続ける。



 これらは全て、たった一日の中で起こったこと。一旦、周囲を見渡せるようになったが、常に意識していないと、またその渦の奥を、覗き込もうとしてしまう。



 精神に異常があるのか否か。この問いかけは、いまの司に相応しくない。



 狂うにも勇気と時間がいる。時間を確保した司は、足らない勇気を持って、何とか渦の中を上手く泳ごうとしている。



 あらゆる要因で溺死し、あらゆる要因で人魚になる。どちらにもつかず。海底を渇望しながら、地上で綱渡りをしているような状態。




 そんな状態で病院に行ったら、どうなるか。返事もアイコンタクトも出来ない、“管だらけ”の妻を見たら、どうなるか。




 刃物だらけの心が、音を立てて、壊れてしまう。




 会うために、会わない。そのために、司はサボりを選択した。




 罪悪感は無かった。夫婦として長くいるための適切な判断であったと、司自身感じていた。

 だが罪悪感が無い事は、心が軽くなることではない。これ以上重くならないだけで、これまで積み重ねてきた重さが、減ることではない。



 人間は、忘れる生き物。一度覚えても、長い間放っておけば、いつの間にか忘れてしまう。

 しかし、それは消去と同義ではない、忘却と消去は、全くの別物である。



 知っているのに思い出せない。知覚しているけれど、認知はしていない。無意識にやってはいるけど、意識的にやっていない。

 人間の忘却は、消し去ることではない。忘却は、表出できる事と出来ない事を、区別するための言葉でしかない。



 司は、忘れていた。無意識にあれど、意識出来ていなかった。



 そして今。自分の心にあったおもりを、司は指を失ってようやく認知した。肉体的な重さとは別に、精神的な重さがあることを思い出した。



 徐々に増えていった。ゆっくりと嵩が増した、重荷おもに

 自分が歩くための足。自分しか支えられない二本の足で、司は春子を、一人の人間の全てを、共に背負おうとしている。



 愛する妻が、ずっと病院にいる。その妻の元へ、雷が鳴ろうが台風が来ようが、今日まで、ずっと。ずっと休まずに、通い続けた。



 その毎日が、小さな負荷だった。小さな負荷が、途切れることなく続いていた。

 払う暇を与えられず、塵は積もり続けた。心の形を歪ませるほどに。







 ─────だから、如何したというのか。








 言い訳を繰り返して、御託を並べて、自分はどうしたい。

 救われたい。癒されたい。緊張から抜け出したい。幸せでいたい。



 何を、ワガママな事を言っている。



 最愛の人は、そのどれも出来ていないのだ。人としての生活すら、ままならないのだ。

 持ち得ている自分が、これ以上何かを望むべきではない。在る物から幸福を見出せ。高望みはするな。願えるだけ幸せで傲慢なんだ。



 願うのは、自分の事じゃない。妻の容態だけ。妻が元の生活を送れるようになること。願うのは、それだけでいい。





 ソファで項垂れていた司は、冷めたミルクを飲み干し、垂れ流しだったテレビを消す。




 自分が救われるのは、春子が救われた時だけ。

 機会は同じ。ならば、それを切に願い続ける。自分が救われたい欲望を、春子のせいにする。




 誰かのために生きられるほど、司は純情ではない。しかし司は結婚した。一人で生きることをめた。他人に、愛され続けることを望んだ。


 誰かと共に生き続ける。相性が全てである制約は、肉体の自由すらも、司から奪った。奪われた。



 ただ司は、それに気付かない。




 なぜならば、原因と目標。其処から発生した義務しか、司は考えていないからだ。

 其処に至るまでの過程を、司は見向きもしなかった。恐らくは、過程がある事すら認知していないだろう。




 司は純情ではないのだ。幼い頃は有り、大人になった今でも、少なからず持ち得る気質である純性を、司は何処かで忘れた。

 代わりとして、愚直が、司の中でその任に



 愚かしく、直線以外を歩けず、直進以外を道としない。

 右も左も確認できない。寄り道を知らない。遊び心が無く、詰まっているのは真面目だけ。



 正面からしか外界を計れない。正面を向いていない自分を愚者とする、偏った考え方しかできない。

 真面ではない人間という生物。その中でも、司は特段の馬鹿で、気狂いの弱者であった。



 情動的。司の思考の発端は感情であり、衝動だ。冷静の元の思考など、過去を遡っても例がない。




 凝り固まった価値観を、崩してくれる敵は現れなかった。違いを手加減無しでぶつけられる、友人に出会えなかった。



 唯一。愚を愛し、愚と共にいることを選んだ物好きは、病に侵された。



 司の生涯に、変わるきっかけは無かった。相違を覚える機会はなかった。



 だから司は、余計に苦しむ。必要のない所まで苦しむ。苦しむ理由を、愛する人に置き換えて。


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