第9話 仮想
正午を回っても、司はベットで茫然としていたままだった。
一度も立ち上がらず。空腹も感じず。浅く静かな呼吸を、ただただ繰り返していた。
途中、布団に投げつけられたままだった携帯に、職場からの留守電があったことに気付き、欠勤の連絡を入れたが、それ以外は、全く動けなかった。
何をする気も起きない。安らかではない感情が、ぐつぐつと心臓で煮詰まっている。
指が無くなって、減った体重はほんの僅か。しかし司は、自身の身体に重さを感じていなかった。
骨、内臓。あらゆる筋肉が無くなって、心臓と脳と皮だけで、人間の形を成している。
吹けば簡単に飛んでしまう。それほどの軽さを感じていながら、司は動こうと思えなかった。
しかし、どれだけ空っぽになっても。体重を失っても。眼に見えない人間の機能が、純粋な重さとなって、司を生かそうと動きまわる。
消えた骨と肉は、感情や情緒といった、あらゆる非視覚的な想いに成り代わる。そして、それらは大きな質量を持った塊となって、体内に留まった。
物質ではない、重み。その重みは、生まれた時からずっとあった、生きるためのエネルギー。
かつて知識を得た人間が真っ先に失せた、本能の領分。
生命力とでも、呼べばいいのだろうか。形の無い生きるための力が、司を殺さない、たった一つの小さな火種だった。
─自分は、何を失ったから、沈んでいるのだろう。
ふとそんな想いが、司の頭に、音も無く現れる。
指二本。最愛の人の命を伸ばすために、司が失ったものは、己が二本の指。
司の利き手は右である。故に左手の一部を失っても、生活にそこまで大きな支障はない。強いて言うのなら、仕事でのパソコン業務と、両手を使った作業のみである。
腕その物を失ったわけではないのだ。残った三本の指で、ある程度の事は一人でこなせる。
薬指が残っているおかげで、妻と自分の名前を彫った、永遠の愛を証明する銀の輪も、肌身離さず持っていられる。
たったそれだけ。たったそれだけの事で、自分は幸福に満ちていたはずだ。満ち足りていたはずだ。
妻の命を自分の指で勝ち取った。ならばこそ、満ちていなければ可笑しいのだ。
では、いま司の抱えている、この感情はなんだ。何故幸福でいない。なぜ幸福を感じない。
苦しみを最も敏感に感じている。妻の容態を想うより、超常的に発生した自身の変化を考え続けている。
取引の相手が、死神だろうが何だろうが、優先すべきは妻であるはずだ。妻であるべきだ。生涯を誓い合った相手に対し、夫というのはそうあるべきだ。
自分の生き方ではなく、誰かとの生き方を考えるべきだ。多田司はそうやって生きて、死ぬべきなのだ。
詰問するように、司は自身の責任と義務を、自分に言い聞かせる。心に束縛を施し、鋭利な刃物を何本も突き刺す。
散り散りの思考を搔き集め、力任せに押しつぶして、まとめる。
頭の中の葛藤を無理矢理、身体中に広げる。
広げた葛藤は骨と筋肉を代替し、司に体の重みを取り戻させる。
痛みなく、壊れていくしかない心。それを、壊れる前にヒビだらけにして、考えたく無い事を捨て置いて、司はようやく平常を取り戻した。
重さの戻った身体で腰を上げ、自室を出た司は、リビングで福井のコートを手に取る。
漂ってくる煙草の香り。タバコを吸わない司にとっては、あまり馴染みのない、嗅ぎ慣れない匂いだった。
物を燃やした時の焦げた匂い。その奥に、ミントのような、微かな清涼感があるのが分かる。
こまめに消臭剤をかけているのだろう。司の父もそうであった。
幼い頃に、父親が煙草を吸う光景を何度か見た。しかしそれ以降、司自身は煙草と無縁の生活を送ってきた。
同僚と喫煙室にも行かないし、居酒屋で喫煙席を選ぶことも無い。
むしろ、煙草の香りがする人を嫌悪している節もあった。金を払ってまで、身体に害を為す物を吸い続けること。
それらは当事者のみでなく、周りにいる関係の無い人の害にもなる。毒をまき散らしているのと同じではないか。
それほど、司は煙を嫌っている。煙たがっている。
けれど、不思議と。福井のコートから香るこの匂いは、司に安堵の感情を湧かせた。何処か懐かしく、凪のような心情にさせる、良い匂い。
気付けば司は、その煙草の匂いのするコートに、顔を埋めて、何度も大きな呼吸をした。
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