第7話 根元

 暗闇が視界を埋める。微かな光も感じない。



 眼球が機能しなくなった、という訳でもなさそうだ。光がを認識出来ている。



 脳も、真っ暗闇の映像と処理している。それでいて、何処からか聞こえる音も処理できてる。

 何だか慌ただしい。色んな声が、大きい音で飛び交っている。

 その隙間に、人間の音ではない音が混ざっている。高い音で、無機質な。機械の音だろうか。




 大きな、はたくような音が遠いところからやってくる。そしてそれは、司の真横で止まった。




「……きて…だ……い…」




 朦朧としていた意識が、ようやく形を取り戻す。徐々に上がった瞼。

 開かれた視界は、見覚えのない天井を映し、嗅覚は、嗅ぎ覚えのある匂いを感じていた。




「…多田さん、ここがどこか分かりますか?」




 茶髪の混じった長い髪を一つにまとめた看護師が、司に問いかける。見覚えのある制服を見て、司は自分が春子の入院している病院に搬送されたのだと察した。




「意識、戻ったみたいですね。いま先生を呼んできますから、動かずに待っていてください」




 そう言って、戸惑う表情をした看護師は、早足で駆けていった。




 呆けて頭のまま、司は周りの様子を確認する。

 初めて担ぎ込まれた、足げなく通っている病院の救急部は、想像していたよりも静かだった。



 司を含め、搬送されてきたであろう患者の数よりも、駐在している医師と看護師の人数の方が多い。

 放っておかれているような気もしたが、ここが賑やかになるということは、怪我や病気が多発していることを意味する。

 静かであるということは、怪我も病気も少ないということ。医者と警察は暇を持て余した方がいい。



 目覚めたばかりの思考が、いつもより素早く回っている。それなのに、自分を呼ぶ、聞き馴染みの声に気が付かなかった。



「司さん! 聞いてるんですか!!」



 耳元で自分の名を大声で呼ばれ、ようやく自分の事だと気付く。

 それと同時に、別に違和感を、身体の端から感じた。




「まったく。嫁さんが大変な時に何やってるんだよ。旦那のアンタが担ぎ込まれたら、嫁さんも気が気じゃなくなるよ。ったく」



 先ほどの看護師とは真逆の、白髪の混じりベリーショート。ぶかぶかの白衣の袖を捲り、乱暴にバインダーに何かを書き込む女医は、ぶっきらぼうに言葉を吐いた。




「福田が担当じゃなくてよかったな。あいつが当直だったら、今頃アンタは説教地獄だよ」



「すいません、その、色々あって……」



「あっそ。じゃあアンタはその色々とやらで、自分の指を切ったのかい」



 女医の視線は、バインダーから外れない。だが、言葉は一直線で、司の心臓を貫く。




 掛け布団に隠れていた左手。先ほど感じた、別の違和感はそこからだった。

 シーツに擦りながら、ゆっくりと布団から出し、眼前まで持ち上げる。




 そこには、眠る前まではあったはずの、二本の指が無くなっていた。綺麗さっぱり。まるで、最初からそこには無かったかのように。




「ここに運ばれてきた時には無くなってた。素人の手とは考えられないほど綺麗だった。でもお前、止血はどうやった」




 女医は、バインダーに挟んでいた画用紙ほどのフィルムを、司の膝元に放り投げる。

 青黒く、色彩の無い不気味な画像。現像されたレントゲン写真にも、司の指は映っていなかった。




「あんたの指のCTだ。自分で切ったか友達に頼んだかは知らないが、肉、血管、神経等は問題なく繋がっている。気持ち悪いくらいにな」




 左手とCT画像を見比べる。だが、どれだけ見比べたところで、見えないものは見えない。生えてくるわけでもない。

 残った付け根の骨だけが、そこに指があったことを証明していた。



「個人的には、問い詰めたいことが山ほどあるが、アタシは優しいから詮索しないどいてやるよ。だからとっとと退院してくれ」



 司の手からCT画像を奪い取った女医は、バインダーを小脇に挟むと、ペンを回しながら去っていった。

 背後にいた看護師も、司に一礼して、それに付いていく。



 司は改めて、指の無くなった左手を眺める。

 親指から薬指の間に空いた、大きな隙間。指を無くしたことを後悔はしていない。



 しかし、惜しいと思う気持ちはないわけでもない。

 消失感はあるし、寂寥感みたいなものも感じる。まだ夢だと思っている自分もいれば、現実なんだと受け止めようとしている自分もいる。



 相反する感情が、胸と脳のそれぞれで錯綜する。曖昧とも言い難い不思議な感情。

 区分けも区別も出来ていない。それなのに、それらの背後にある感情は、同じものだった。




『命が伸びて嬉しい』




 春子の生きている時間が、本当に伸びたのか分からない。しかし、指を奪われてた事実は、取引を行ったことの最大の証明である。



 司にとってこれほどまでに幸福なことはない。例え自己犠牲であろうと、愛する者の命を、文字通り、身を削って手に入れた。



 久しぶりに前向きな気持ちになれた。

 この感情が間違いかどうか。そんなの、どうだっていい。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る