第6話 号哭
「指、ですか……」
妻に二日寿命を与える。その代わりに、自分は指を二本失う。提案した張本人の表情からは、焦りも畏怖はおろか、罪悪感のような後ろめたさも感じない。
「そう、君の指を貰う。安心して。痛くないようにするし、傷跡も残さないから」
死神はただ不敵に。不敬に。足を組み、頬杖をついて笑っている。真白の髪も、調子を乱さず揺れている。
対して司の心臓は、それよりも乱れない。平穏を保ったまま、一定のリズムで脈を打ち続けていた。
「指二本って、意外に安いんですね」
予想外のセリフに、死神は頬杖をやめ、眼を見開く。目の前の男の表情に乱れはない。焦りも畏怖も罪悪感も。寧ろ、どことなく笑っているようにすら見えた
表情を戻した死神は浮くのを止め、自身の足で床の上に立つと、司に近づき、左手を掴んだ。
「君がいいなら、今すぐここで取引を実行しよう。君の奥さんは二日の寿命を得て、君は指を二本失う。それでいいかい?」
「大丈夫です。お願いします」
上ずりも、震えもない返事を聞いた死神は、右手で司の手を掴み、そこに自身の左手を重ねる。
二、三度撫でられたが、特に変化は感じない。強いて言うなら少し
「はい。これで終わり。明日には指無くなっているから覚えといてね。」
「終わりって、特に何もしてない……ですけど……」
「何かはしてるよ。明日、君の指と引き換えに奥さんの寿命が二日延びるようにしておいた。ま、最後の五本指だと思って、やりたい事やっておきなよ」
それじゃあねー、と手を振って、死神は姿を消した。
消えた後、司の自分の指を確認する。付いている感覚はあるし、ちゃんと自分の意思で動かせる。見た目にも変化はない。
拳を握ってみたり、引っ張ったりしてみたが、やはり無くなりそうな気配はない。
「本当に無くなるのか……」
自身の指が無くなることに対して、司に後悔は無かった。ただ、無くならなかった時と、無くなっても春子の寿命が延びなかった時の不安はあった。
明日もありそうな、自分の指。じっと眺めていると、やがて頭上から面会終了のアナウンスが聞こえてきた。
──────────
日中止んでいた雪が、夜になって再び降り始めた。病院を出てから最寄り駅までは小雪だったが、自宅の最寄りからは本降りになっていた。
風が吹いていない分、寒さは少ないが、足元から来る冷えだけはどうにもできない。
濡れないようブーツを履いていったのだが、上から降ってくる雪は、履き口の僅かな隙間を通り抜け、司の足を冷やしていった。
自宅に着いた頃には、足先の感覚は無くなっていた。既に我慢の限界を迎えた司は、玄関でコートを放り投げるや否や、浴槽に四十二度のお湯を流し込み、そこに足を突っ込む。
じわじわと温まる体の熱。その熱が高くなっていくのにつれて、足の感覚も徐々に戻ってきた。
足が浸る程度の浅い
シャツの袖を捲った司は、両手を湯船に浸す。同じく冷えていた手先が、血の流れが速くなるにつれて、感覚を取り戻す。それにはちゃんと、人差し指と中指もあった。
時刻は二十一時を少し過ぎた頃。死神の話が本当なのであれば、指が無くなるまで残り三時間。
懸念を忘れられなかった司は、ここまでの道中で何度か死神を呼んだが、終ぞ現れなかった。
取引が完了するまでは出れないということなのか。理由は分からないが、恐らく、日付が変わるまでは現れないだろう。
手足を十分に温めた司は、ふろ自動のボタンを押して、自室へと向かった。
放り投げたコートを回収して、リビングでストーブの電源を入れてから自室へと入る。
月明りも入らない真っ暗な部屋の電気を点ける。朝起きた時から、何一つ変わっていない自室。クローゼットから取り出したハンガーに、雪を払ったコートを掛ける。
そういえば、このコートを春子から貰ったものだったと、司は不意に思い出す。
隙間の無くなったクローゼットを閉じた司は、改めて部屋の中を見渡す。
机と椅子。そして布団しかない殺風景な部屋。しかし、この部屋には春子のくれたもので溢れている。
机は大学時代。付き合っていたころに新調して組み立てを手伝ってもらった。椅子はその時に一緒にもらった。
かなり高価なものだったので、受け取れないと断ったら、代わりに今度のデートは遠出してくれと、屈託のない笑顔で言われて、あえなく絆された。
布団の横にある得体のしれない猫のような人形も、クレーンゲームで偶々取れたからとくれたものだった。
素直に要らなかったので要らないと断ったら、受け取れと言い負かされ、いつの間にか、司の睡眠のお供になっていた。
例え、この場に春子がいなくても、春子が在たことを証明し、代わりに寄り添ってくれるものが、司の部屋には幾つもある。
時には、それらのせいで寂しい思いもするだろう。しかしそれと同等に。若しくはそれ以上の幸福感を、それらは持っている。
司にとっても、それは同じだった。しかし違う部分もある。確かに、春子のいなくなった半年間、春子との思い出の品は、司の心の支えだった。
では何が違ったか。簡単だ。司にとって幸福の象徴だった物品の数々。それは同時に、司の絶望を掻き立てる、根源であり、絶え間なく燃える呪いだった。
捨ててしまおう。そう思ったことは無かったが、意味を求めることは何度もあった。
ここにあっていい物なのか。ここにあるべき物なのか。いつ死んでも可笑しくない妻がいるのに、自分は妻との過去に縋っている。
今この瞬間に、縋りたいのは妻の春子のはずだ。それなのに、自分は。
司の反応は、いたって普通の事だろう。一番愛してやまない身内の身が危機に瀕し続けている。
司は既に狂っている。しかし、狂気というのは、一度染まって、それで終わりではない。
そこから何度も考えが頭を巡り、廻り、混在してドロドロになったと思ったら、またそこに新しいドロドロが加えられる。しかも、以前より何倍も濃くなって。
時偶に、それらが途端に透き通ることがあるが、それは一時だけ。狂気に染まれば、純情にはもう戻れない。
透き通った、不純物の全くない、存在を認められない清い水。そんなもの、気味が悪い以外に何とする。
そう考えると、結婚そのもの。それに至るまでの恋人関係も、司を狂わせた原因の1つなのかもしれない。
誰かが言っていた。恋は狂気だと。
こみ上げてくる、理由の分からない怒りに似た感情。何かを破壊してしまいたい。今なら何もかもを壊せてしまえそうだ。
厨二くさい。その通りの情動ではあったが、司の感じている感情は言葉の通りだった。
タイミングよく振動した右ポケットのスマホ。乱暴にポケットから引っ張り出すと、司は画面も見ずに、勢いに任せ布団に投げつける。
破壊衝動に襲われたのに、何故床に叩きつけなかったのか。
その理由もまた、司が覚悟を持たない臆病者だからである。
携帯と妻の身が同等なのか。扱い(どれだけ大事に思っているか)は、大きく違うものだろう。
春子を失ってでもスマホを守ろうとは思わないし、スマホを失って春子が助かるなら、何の躊躇もなく投げ出す。
だが、向けられた感情は同じだ。壊す覚悟がない。だから二つ共に、覚悟を示せなかったのだ。
春子を壊す。深くまで入り込んで語るなら、壊れてる春子を治せないで立ち尽くす事。司はそれがどんな恐怖よりも怖かった。
布団の上で、振動していた携帯が制止する。何事も無かったかのように止まった携帯。部屋の中で唯一の音だったそれが止まったことで、部屋は静寂となった。
居心地のいい静寂ではない。冷たい空気と重たい心情。自責の念に囚われながらも、踏み出す事を躊躇う矛盾。
見ている物はなく、見てくれる人もいない。突っ立ったまま。
動かない司は、自身の心臓に嫌気が差した。
どれだけ呼吸を静めても、どれだけ頭を空にしても。生きている限り、この心臓は動き続ける。
元気であろうと、病であろうと。筋肉を収縮させ、全身に血液を送る。その拍動が、司に生きている事実を容赦なく突きつける。
決して死にたいわけではないのに、生きていることが嫌になる。
不安定になっているとは思っていたが、まさかここまでだとは。どこかで春子が見ていたら、きっとそう思うだろう。
でも、ここにはいない。病院の一室にいても、今、目の前のここにはいない。
部屋を飛び出した司は、リビングを見渡して、春子を探す。
頭の奥で、「いない」という言葉が繰り返される。理性が働きかける。
しかし、司は止まらない。リビング、キッチン、洗面所。そして春子の部屋。
扉を開いては見渡し、眼を擦り、幻を疑っても。瞳には現実だけが映る。
息を荒げながら、収まらない感情に掻き立てられた司は、よろけながら、靴も履かずに家を飛び出した。
鍵を閉めていない。電気は点けっぱなし。ストーブも消してない。寒中にコートも着ず、千二百円の長袖だけ。
感情の高ぶりに圧され、理性が圧し潰されそうになる。感情は昂る一方で、熱くなっていく体は、雪降る夜の寒さを通さない。
そんな状態になっても、消えない理性。消え損ないほど、
司は気づいていないが、彼の足は今、寒さにやられ感覚を失っている。真っ赤になりながら、司の身体を運んでいる。
ようやく自身の身体の異常に気付いたのは、家を飛び出してから三十分後の事である。
ひたすら、道も分からず、行先もなく走り続けた。その結果、肺が活動の限界を迎え、大きく浅い呼吸を繰り返しながら、倒れ込んだのだ。
真っ赤になった顔に、冷たい雪が染みる。いつの間にか感覚を無くしていた足先。温めようと包んだ指も冷え切っていた。
死ぬことはないだろうけど、死ぬほど寒い。体中を濡らす汗と、冬の夜。呼吸が穏やかになっていくにつれて、身体は寒さに対抗しようと、大きく震える。
周りに人の気配はない。ただ降り積もった雪があるだけ。
携帯も時計も持っていない。さらには財布まで自宅に置いて来てしまった。
「帰れるかな……」
物音一つない、軽薄で物静かな道路で。司は小さく呟く。
どうやら、雪と気温に体が冷やされ、理性が戻ってきたようだ。まだ燻っている物はあるが、抑えられるくらいには落ち着いた。
地面を押し、立ち上がった司は、途方に暮れながら家に帰る方法を模索する。
冷たくなった末端に苦しみながらも歩き始めた司。だが、直後に感じたのは、寒さでも冷たさでもなく、引き千切られるような痛みだった。
指の先ではなく、指の付け根。左手の人差し指と中指の付け根が、何者かに引っ張られているように引き伸びる。
皮膚が裂け、ミヂミヂと鳴りながら筋肉が露出する。
じわじわと漏れていた血液が噴水のように吹きだし、雪を染める。絵の具のように艶めかしいピンク色には成らず、生々しくグロテスクな黒色を帯びた赤色に変化した。
膝をつき、湿るズボン。
誰かが聞いていても可笑しくないくらいの、痛みに耐える叫び声。
自分で自分の声が五月蠅いと思ったのは、初めての事だった。
作者として、この状況をより鮮明に伝えることは、義務と言っても過言ではない。そのためには司の叫び声を、一言一句違えずの書くことも必要であろう。
しかしながら、この時の司の、恐怖と苦痛に伴う叫声は、文字として表すには余りにも大きく、複雑で、感情に溢れすぎていた。
羅列では到底及ばない、魂の叫び。大量の血を、体外に湯水の如く流しながらも、血を通わせた血潮の呻き。
ではどう書くべきか。括弧で囲い、絶対的に足らない言葉と記号で表すか?
否、そんなことで司の魂は描けない。三次元で巻き起こった激情を、二次元の世界に送り込むにも限界がある。
例え、これが漫画であっても、この時の司は描けない。鬼気迫る聞き得ない声を、描く事などできないからだ。
ならば、敢えてここは、真逆の例えをさせてもらう。
叫び、呻き、嘆き、怒り。ありとあらゆる激情を熱血に吐き、包み隠さず。何のフィルターも通さずに、空気と干渉した司の声は、
無音であった。
聞こえていても、脳はそれをどんな音として処理するのか。文字はどう表すのか。
フォントは? サイズは? 縁取りと明暗は?
どれだけ試行錯誤したとて、司の声を、声としての呼吸は出来ない。
そんな声であった。
「でも、そんな声出したところで、痛みが引くわけじゃないのにねー」
夜を照らす月明り。路を照らす街灯。それらの光を反射する白い雪。総じて白いそれらだが、それらは総じて透明に近い。
だが、目の前に現れた死神の髪は、何色にも近くなく、何色からも遠い、真白の色をしているのに、月明りよりも透いている。
「今は丁度、十時四十分を回ったくらい。取引まであと一時間と少しあるけど、君の事を考えて前倒しさせてもらうことにした。その分、寿命はおまけしておくから、安心して♪」
「前…倒しって、何が……そんな、必要なん……だ……」
常識を超える痛みに耐える司は、千切れそうな指を力いっぱい引き戻し、痛みに抗おうとする。
しかし、引かれる力は増していくばかり。もし、寒さで感覚が鈍くなっていなければ、今頃は動くことすら出来ていない。
そう、疑いなくハッキリと言い切れるほどの痛みであった。
「別に必要だからもらう訳じゃないよ。ただ、今の内にもらっておかないと、契約違反に成っちゃうからね。ある種の優しさだよ」
宙に浮き、後ろで手を結んでいる死神。その微笑みに濁りはない。淀みもない。
蹲りながら、司は死神を見上げ、睨む。殺意を持ったその眼光。
死神は司を憐み、同情する目で、その視線に答える
「言っておくけど、僕だってわざと痛めつけてるわけじゃないんだよ? 今回に限っては『しょうがなく』なんだから、恨まないでね」
地面に足を付けた死神は、司に近づくと、乱暴に左手を持ち上げ、痛む指の付け根を掴む。
「それに、死神っていうのは、いつでもどこでも、我儘なモノなんだよ」
指を掴む指に力を加える。再び響いた、司の無音なる叫声。
ぼたぼたと流れる血に手を汚しながら。死神は勢いよく、司の指を引き裂いた。
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