第5話 成立
死神と取引契約を結んだ日の夕方。行きがけに買った花を抱えて、司は春子のいる病院へと向かっていた。
積もっていた雪は昼間の内にかなり溶けてしまったようだが、それでも、例年に比べればまだ三倍近くの雪が残っている。
道中には子どもたちが遊んでいたであろう痕跡が多々あった。定番の雪ダルマにスノーエンジェル。雪で造られた、時季外れのジャック・オ・ランタン。
それから、「考える人の椅子」と名付けられている謎のオブジェ。ただの四角い台に歴史的価値を一切感じないが、どことなく、考える人が座っていそうだなと思える造りをしていた。
病院の入り口にも、同様に幾つかの雪のオブジェが飾られていた。こちらは小さく簡素な雪だるまではあったが、木の枝の腕の他に、小さな赤いニット帽が被せられていた。
ズボンに付いた雪を払って中に入ると、点滴台を引っ提げて走り回る少年と、その少し後方から、早足でそれを追いかける看護師とすれ違う。
土日は家族での見舞が多い。しかし、大抵の子供たちは、病院という娯楽皆無の環境と、静かにしなければいけない制限せいで、早々に暇を持て余し、項垂れてしまう。
そのため、面会の人数が増えても、結果的には平日と変わらない静けさなのだが、今日は随分と騒がしい。
特別な用事がない限り毎日ここに来ている司だったが、こんな賑やかな日は初めてだった。誰か有名人でも来るのだろうか。
「すみません。今日はこの後サンタさんが来てくれる事になっているので、子供たちが朝から大はしゃぎなんですよ」
受付で面会カードを記入していると、物腰の柔らかそうな片眼鏡の受付係が教えてくれた。
「入院している子供たちと、お見舞いに来てくれた子供たちに、サンタさんがお菓子を配るんです。毎年この時期に行っているのですが、今年は人数が多いみたいで」
サンタの登場を待ちわびる子供たちを見ながら、受付の女性は、目尻に皺を寄せて微笑む。
その顔はまるで本物のサンタのようだったが、サンタは看護服に紺のカーディガンを羽織ったりはしないはず。そして何より、サンタはおばさんではない。
「サンタがくるにしては、時期が少し早くないですか?」
街も病院もクリスマスムードに飲まれているが、司の言った通り。今日はクリスマス当日でもなければイブでもない。
二十日を迎えれば何となくクリスマスが近づいて来た実感が出るが、今日はまだ十二月の十五日。サンタが荷造りに追い込みをかけ始めたくらいではないだろうか。
「遅れるよりは全然いいですから。ほら、あわてんぼうのサンタクロースとも言いますし」
全国に数多ある市民病院に、数多く子供たちが入院している。その中でも、ここの病院は重篤患者の引受数が群を抜いて多い。
特に小児科は、あらゆる面での医療ケアが準備されており、明日やも知れぬ命の子供達が、最後の望みをかけてあちこちから転院してくる。
確かにそういった意味でも、サンタはあわてんぼうの方がいいのかもしれない。
面会証を受け取った司は、受付の女性に一礼して、子供たちの入り乱れる廊下を進んで行く。
荒波を抜けた先で薄暗い照明のエレベーターに乗り込み、八階のボタンを押して上へと向かう。
この病院の一般病棟は二階から七階。二階から四階までが内科系。五階から七階までに外科系の患者が入院している。
そして、春子のいる八階は、全科の患者の中から『
部屋はすべて個室。一度に患者に面会できる人数は二人に制限されており、入室時には体温チェックと、面会証と身分証の提示が義務となっている。
さらに入室の際のアルコール消毒に加え、入院患者との物理的接触が禁止されている。
何故このようなルールが設けられているのか。それは前述の通り、この階にいる患者は洩れなく『特殊重篤患者』だからである。
司は、廊下の一番奥にある八〇一号室まで来ると、扉の前で一度深呼吸をし、次に息を吸ったタイミングに合わせて扉を開けた。
扉の向こうにいた春子は、背もたれを上げたベットの上で、瞬きもせず、ただ天井の蛍光灯を見つめていた。
「春子、来たよ」
扉を閉めながら司が声をかけると、春子はゆっくりと首を回し、司の方に視線を移す。
どうやら今日はアタリの日らしい。視線から直感でそれを理解した
司は、せっせと花瓶の花を取り換えて、ベッドの背もたれを元の位置に戻す。
昨日とは打って変わって、屍のようになってしまった春子を見た司は、胸の中心に大きな空洞を感じていた。
扉の方を向いたまま、春子の首は動かない。そして恐らく、司が来たことにも気づいていない。声をかけてこちらを向いたと思ったのは、単なる偶然であろう。
窓際に据え置きされている大きめのソファに深く座った司は、動かない妻の姿をじっと見つめていた。
春子の侵されている病に名前はまだ無い。何故なら、ごく最近発見された症例だからだ。
症状としては、身体の各部位を動かすために流れる『信号の速度』が著しく低下するという症状である。
脳から各部位への信号が遅くなるのみならず、各部位から脳への信号も遅くなる。つまり、視覚や聴覚から得た情報が、その瞬間に情報として脳に送られないということだ。
どれだけ視えていたとしても、リアルタイムで脳がそれを処理できないのだ。
視覚を例に噛み砕いて説明すると、眼が視て送った信号を、脳は眼が視た瞬間から三秒遅れて知覚する。といった具合である。
正確に三秒かどうかは不明だが、とにかく送受信の速度に大きな遅れが生じる。
そしてこれは筋肉や感覚器官のみならず、臓器の活動にも影響する。
胃の消化が遅れ、腸の活動が遅れ、肺が酸素を取り込み二酸化炭素を排出するのも遅れる。
治療法も特効薬も存在せず、出来ることは、遅れた活動を看てからの対処療法のみ。
いつ何が起きても可笑しくない病。あらゆる変化に対応するため身体の至る所に挿入された管は、入院初日から一度も抜かれていない。
さらに厄介なのは、この病は『
昨日のような、会話も難なくこなせる『健康状態』。そして、今日のような『低下状態』。
『健康状態』が長く続けば退院も可能なのだが、そう上手くはいってくれない。
昨日までの健康状態も、昨日を含めて四日しかなかった。その前までは二週間も『低下状態』にあった。
今度は、いつまで待てばいいのだろう。もし、待ってる間に死んでしまったら。
どれだけ止めようと思っていても、目の前に不安の根源が現れれば、その不安は息を吹き返し、心と感情を丸呑みにする。
早いものでもう半年。今日のように雪が降っても、台風が上陸しても。司は欠かさずここに来た。
欠かさずここに来ては、春子と笑い合う時間に癒され、管に繋がれたまま動かない春子を見て、絶望していた。
いつ死ぬかも分からず、いつ治るかも分からない病に侵された最愛の人。しかも、その相手に触れることすら叶わない。
ロビーで元気を振りまいていた子供たちと同じように、春子もまた、明日やも知れぬ命。
その命が、また明日もあるようにと願うだけ。
今までの司には、それしかできなかった。
例え自分の全てを失っても、春子が生きていられるのなら。生きていれさえすれば、特効薬も、症状を回復させる時間も増える。
「君だけには、生きててほしい」
静かにそう呟いて、司は、司を見ていない春子に向けて手を伸ばす。
ピクリとも動かない春子の左腕に、手が触れそうになる。
その時、誰かが扉をノックする音が聞こえた。音に驚いた司は反射的に動きを止めると、扉越しに語り掛ける、男の声を聞いた。
「多田さん、主治医の
うまく切り替わらない感情を上から無理矢理押し殺して、司は扉を開き、主治医と顔を合わせる。
ラガーマンのようなガタイに、四角い顔。一九〇以上はあるだろう身長のせいで、圧迫感があるが、その喋り方は至って穏やかで温和である。
「お見舞い中のところ申し訳ありません。早急に確認したいことがありまして」
眉を
ただでさえ不安を抱えている患者の身内に対して、余計な緊張感を与えない。そういった点で、この男は優秀な医者なのだと司は認識している。
「いえ、大丈夫ですよ。それで、話しというのは?」
「奥様から、来年以降もこの病院での治療継続を考えていると伺いましたが、本当ですか?」
言葉が終わりに近づくにつれて、福井の顔が怪訝な表情に移ろう。
「はい、本当です。二人で話し合って決めましたから」
「なら、いいのですが……」
今日まで明るかった福井の声が、あからさまに沈んでいく。かろうじて残された穏やかな表情。しかし、微塵しか残らなかったそれが崩壊するのは、時間の問題だった。
「正直なところ、奥様の病気が完治する目途はありません。いつ何が起こっても可笑しくない。だからこそ病院ではなく、出来るだけお家で過ごしていただいた方が、お二人のためかと」
福井の言い分もわかる。死ぬまでのカウントがどこまで進んでいるかもわからない以上、日常で生きていくべきだと。
しかし司は、春子に入院を継続してもらいたかった。
「妻には、悪い事をしたと思っています。でも、何かあった時の事を考えると、やっぱり病院にいた方がいいのかなって……」
福井と同様、だんだんと小さくなって司の声。それは、妻に対する罪悪感と、決断を先延ばしにしただけの、根性なしの自分を呪う気持ちの表れであった。
自宅療養の話自体は、二ヶ月ほど前からあった。
だが、色々な意味で右も左も分からず、前後不覚の状態。そんな状態で妻を退院させる決断は、司にはできなかった。
既に半年経過した、春子の病院生活。疲労も心労も、少なからず増え続けているだろう。
今のところ、『低下状態』になっても、命に係わる症状は起きていない。
それならば、この悪化する可能性の低いと『思われる』タイミングで、より安心感の大きい自宅に帰した方が、患者自身にはいいのかもしれないと、福井から勧められていた。
でも、もし自分が仕事でいない間に、春子の身に何かが起きたら。自分がいるにも関わらず何か起こってしまったら。
そうなった時、自分の目の前で、自分の妻が死んでいく様に添い遂げる。それが出来る自信が、今の司には無かった。
妻を愛していないわけではない。寧ろ愛しすぎて重たいと思われる方だろう。
しかし、愛と覚悟は比例しない。愛で世界を救えたとしても、覚悟が無ければ、『救う』という『動き』には成り得ない。
成り得なかったから、司は、春子に病院に残って欲しいと伝えた。その胸中を隠して、春子のためと、春子に思わせながら。
「……分かりました。そのように手続きをしておきます。更新の書類は用意しておきますが、処理をするのは奥様が『戻って』からにしますか?」
「はい。それでお願いします。すみません、我儘ばかりで」
「いえ。それも、仕事の内ですから」
真っ白な歯を見せて笑った福井は、その大きな図体で司に一礼すると、早足でエレベーターホールへと去っていった。
その背中が見えなくなると、司は大きな溜息を吐いて、その場に座り込んだ。
髪をかき上げ、扉に預けた背中は前のめり、頭が膝の間に隠れる。
これでよかったのか。
もっと他の選択肢もあったんじゃないか。
春子に退院して欲しくないって言ったのも、我が身が可愛さで傷つきたくないエゴじゃないか。
浮力の無い水中で、地上よりも重たい重力に引きつけられ、底の無い暗闇に呑まれていく。
恐怖か不安か。いや、恐らくはその両方だろう。両方が混ざり、濁り、濃い泥濘となり、司の感情は汚されていた。
もし、春子が病に侵されていなけれ ば、泥濘が作られることもなく、汚されたところで、一つの穢れも残さず洗い流してくれただろう。しかし今現時点で、その春子はいない。
不安で不安定で不穏を抱えているのは司も同じ。だが、春子の抱えるそれは司以上であり、司に推し量れるものでもない。
重くなった胸中。そこから目を背け、後ろ手に扉を開いた司は、後ずさりしながら病室に戻る。
眩しかった、窓の向こうの夕日は既に沈んでおり、補助灯しか点いていなかった病室は、色白く輝く満月によって、薄氷のように薄く照らされていた。
春子の体勢は依然変わらない。マネキンと同じように、形を成したままで動かない。
全身から伸びる配線が、ドラマでしか見たことのない機械と繋がっている。
画面に映し出されている、幾つもの数字と、その隣にある波形。
どれだけ見つめていようと、数字の値も、波形の形も変わらない。
生きる屍。愛する妻をそう呼称するのは如何なものかと思うが、実際、司の目の前にいる彼女は、屍に最も近しい生者だ。
逃げてしまいたい。もう終わりにしてしまいたい。そう思わなかった日が無かった訳ではない。寧ろ、今までに何度もそう思った。それでも、司はここに来た。
しかし、それももう限界だった。愛があっても、想う心があっても。妻の幸福を願い、その先にある未来に縋るのにも、もう疲れてしまった。
持ちきれない荷物を持ち上げ、歩き続ける。司にはもう、そんな大層なことは出来そうになかった。
「死神さん。いますか?」
夫婦二人だけの病室で、二人以外の何者かに声をかける。その声は呟くよりも小さく、吐いた息と同じように、すぐに凍ってしまいそうなほど、水に濡れた声だった。
「はいはーい。呼ばれて飛び出てパンパカパーン‼ 司君専属の死神くんですよー‼」
瞬きの内に、ソレは陽気に姿を現した。
胡坐をかきながら宙に浮き、後ろで一つにまとめられた、真白の髪を大きく揺らす死神。
催眠術の振り子のように揺れる髪に、気を預けてしまったのは、死神の持つ得体の知れない魅了か。それとも、司が糸を解いてしまったからだろうか。
「取引をします。とりあえず二日の命を、妻に与えてください」
「妻…、あー、この動かない人ね。おっけー。じゃあ一応確認だけど、一度寿命を与えたら、もう変更はできないけどいい?」
「はい、大丈夫です。妻には、できるだけ生きてて欲しいんです」
「分かった、じゃあ取引といこう。君が望む寿命は二日。対象は君の奥さん」
ゆっくりと宙から下りてきた死神は、ベッドの柵に腰を下ろす。
春子の顔を一瞥してから、司の方を見返した死神は、無垢な笑顔でピースする。
まるで、カメラを向けられて写真を撮るかのように。しかし、ここには一眼もポラロイドカメラもない。死神の表情を映すのは、影の入った、司の二眼だけだった。
「なら、僕は君の指を貰う。どれでもいいわけじゃない。貰うのは、君の左手の人差し指と、中指だ」
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