第4話 契約

 朝から予想外の事態が起こりすぎて、まだ頭が空回りしているのか。それとも寝ている間に今までの知恵と知識をなくしてしまったか。

 たった二行で済まされたはずの説明は、司の頭に二行では到底収まらない量の疑問符を浮かび上がらせた。



「もーしもーし。また呆けてるのー?」



 死神に左耳と右手の皮を引っ張られながら、司は散らかった頭で、死神の言葉を反芻する。

 だが何度再生しても、頭の中の疑問符が少なくなることはない。むしろ、考えれば考えるほど増えていく。


 パンクしそうな頭を抱えながらも、思考を止めない司。死神はその頭上に浮くと、司の事など気にも留めず。詳細を語り始めた。



「この取引の大きな特徴は、君になんのメリットもない事。寿命を受け取れるのは必ず他の誰かで、君が失うだけだ」



 死神の歯に衣着せぬ物言いに、鳥肌が立つ。

 部屋は十分に暖かいのはずなのに、体を覆うのは口でも文面でも説明できない、異様な冷たさだった。



「この取引は、『欲しい日数』を君が言って、それに対する『代価』を僕が教える。それでもいいってなったら取引は成立。成立前であれば『取引中止』は何度でもオッケー。ペナルティとかも特に存在しないよ」



 司の頭上を離れ、ローテーブルの真上に浮いた死神は、体の上下を反転させる。

 真白のポニーテールがテーブルに触れ、組んだ足の裏が天井に向いた状態で、さらに説明を続ける。



「そして、この取引で寿命を得られる人物は一人だけ。一人だけだけど、その一人は君が自由に選べるし、君かその人が死ぬまでの間なら、何度も寿命は得られる」



 詳細が明らかになっていくのにつれて、司の頭からは疑問符が消えていった。だが、その消えた疑問符の隙間に今度は、知らない事への不安が充満していった。

 この取引には、司本人へのメリットが何もない。失い続けるだけのデメリット。そしてそこに失った後の後悔が付いてくるかもしれない。


 何より、『与えるもの』は明確に教えられているのに、『失うもの』については何も聞かされない。

 不安というよりも、不信感が強い。会話の相手は、詐欺師よりもセールスマンより怪しい、死神(真偽不明)なのだ。


 普通なら取引はしない。するべきではない。やったところで自分にはデメリットしかない。司はそれを十分に理解していた。

 怪しく不確かで、曖昧で漠然。どれだけ濾過しても透明にはならない原水を渡されても、それを飲み込もうなどと思う訳がない。

 狂っている。若しくはとち狂ってでもいない限り、誰もがそうするはずだ。



 だが残念なことに、この時の司は、〝普通〟などと言った安定した状態で在り続けることが、出来なかった。

 理屈なんて二の次。理性なんてものは、忘れた所も忘れてしまった。

 例え、行き着く先が地獄の地下であろうとも、自己犠牲の末に得られる命があるのなら。

 司は平凡な男である。その事実は変わらない。だからこそ、司は平凡に狂っていた。



「分かりました。その権利使います。今すぐにではないですけど」


「オッケー、かしこまった。じゃ、僕は一度消えさせてもらうから、取引したくなったら呼んで。受付時間は二十四時間三百六十五日。期限は君か、与えられる人が死ぬまでだから、覚えといてね」



 逆さまのまま手を振る死神。そしてその体は、司が四回瞬きをする間に、影も形もなく消失した。


 ソファから立ち上がった司は、死神が浮いていた「そこ」に近づく。

 死神の輪郭を触ろうとしたり、手で空間を扇いでみたりもしたが、「そこ」は特別な変化も異常もない、ただの空間だった。



 あれは本当に現実だったのか。本当に自分は、死神と取引の契約を結べたのか。

 真新しい記憶を引っ張り出して、何度も記録を読み直す。そして、何度思い返してもそこには、真白の髪を持った、宙に浮かぶ少年の姿があった。



 どうか夢であって欲しくない。その不安が心を満たし、不安の先にある希望が、司の心に平穏をもたらしていた。

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