第2話 変動

 顔に張り付く寒さと、外から聞こえるはしゃぎ声で、司は目を覚ました。



 回らない頭を持ち上げ、その勢いに合わせて体も起こす。長さの足りないカーテンの隙間から差し込む朝陽が、いつもより眩しい。


 暖簾をくぐる形でカーテンを退いて、窓の向こう見えた景色に司は驚く。昨日の夜から降り始めた雪が、辺り一面に積もっていたからだ。



 それも、神奈川県沿岸部のここでは珍しい、軽くてフワフワとした雪。



 この地域にも雪が降ることはあるが、そのほとんどは氷のように固い雪で、夜通し降っていたとしても、人々が朝食をとる時間には、ほとんどが水分に戻ってしまう。



 稀にその水分が乾き切らず、その日の夜にまた凍ることで、天然のスケートリンクが出来たりするのだが。それを楽しめるのは、広い校庭と若さを兼ね備えた、小学生たちだけだ。


 大学時代に行った北海道旅行以来の積雪に、年甲斐もなく興奮した司だったが、部屋に充満した冷気に容赦なく体温を奪われ、あえなく布団の中へと退散する。



 一人で眠るのは余りあるダブルベット。そこに全身を覆う温もりはあっても、愛する人と通わす、心の温もりは存在しない。


 結婚してまだ一年。その内、同じ屋根の下で司と春子が過ごせた時間は、半年だけだった。

 それは、二人が恋人として付き合っていた時間の十分の一にも満たない。



 次に、愛する妻の手を離さずにいられるのはいつになるのだろう。この小さなマンションの一室で、大きな笑い声をあげられるのはいつになるのだろう。



(いい加減、不安になるようなこと考えるのやめろよ、俺)



 自分のネガティブが嫌になった司は、重たい羽毛布団を跳ね除け、冷たい床を歩いて寝室を出た。

 リビングは寝室よりも寒かった。というのも、この部屋には、夕方にならないと日差しが入らない位置に窓がついているため、早朝から昼間にかけて室温がほとんど上がらないのだ。


 寒さを緩和すべく、壁際に置いてある型落ちの石油ストーブのダイヤルを回し、キッチンでやかんに火をかける。

 お湯が沸くのを待ってる間に洗面所で顔を洗い、拭いたタオルをため込んだ衣服と一緒に洗濯機に放り込む。


 大学生の頃から一人暮らしをしていたため家事には慣れていたが、家に春子のいない生活には、まだ慣れていない。



 結婚とは不思議なものだ。



 いざしてしまうと、ついこの間まで一人暮らしをしていたくせに、孤独を怖がるようになってしまう。

 何度も干してきた洗濯物も、そこに春子の服がないと、色味がなくつまらないものに見えてしまう。

 失ってから分かる日常のありがたみを、司は半年前から噛みしめていた。


 ドラム式洗濯機が静かに動き出すと、リビングの方からやかんの鳴き声が聞こえてきた。

 リビングへ戻った司は、やかんの蓋を外して、予めココアの粉の入れておいたマグカップにお湯を注ぐ。



 立ち上る湯気で、顔に張り付いていた冷たさがじんわりと溶けていく感覚がした。



 マグカップを右手で持ち、空の左手でテレビの電源を付ける。一間の沈黙をおいて、画面には数年ぶりに降った関東の大雪に関してのニュースが映し出された。

 箱根の方ではまだ雪が降り続いているらしく、一部の道路は積雪の影響で通行止めになっているそうだ。

 横浜の方は、道路の通行止めこそしてないが、各線で遅延が発生しているとのこと。


 予報外れの大雪。それも、こんな時間まで降り続けるとは珍しい。温暖化の影響による異常気象ではないのかと、スタジオの専門家が難しそうな顔で言っている。


 幸いにも今日は土曜日のため、司の仕事は休みだった。とは言っても、やるべきことがないわけではない。



 半分ほど飲んだココアを、テレビ前のローテーブルに置いて寝室へ戻った司は、箪笥のアクリルケースから冬服を取り出す。

 寒いままの寝室で肌を露出するのは嫌だったので、リビングで着替えようと思い、着替え一式を小脇に抱えて、リビングに戻る。



 戻ったところで、司は見たことのない光景を見て、単純に驚き、分かりやすくたじろいだ。

 それもそうだろう。司は至って普通の人間であり、これまでの人生で、特別稀な経験をしてきたわけでもない。だからこそ司は平凡なのだ。

 そんな人間が、さっきまで誰もいなかったリビングで、胡坐をかいて浮いている見知らぬ人間を見たら、驚かない方が難しい。



 咄嗟に息を潜めた司は、フワフワと浮いている『ソレ』の周りを素早く見渡す。

 天井から吊るしている様子もないし、目には見えない何かに座っているようでもない。

 瞬間的に自分を疑った司は、目を擦ってみたり、頬をつねったりしてみたが、宙に浮いている『ソレ』が消えることは無く、現実の物であると強引に理解した。

 そうと分かればすぐさま警察に連絡するべきなのだろうが、何故かこの時の司は、



「浮いている人間を警察は捕まえられるのか」



 などといった、全く意味のない考えに縛られていた。それくらいにパニックだった。

 幸いにも、浮いている人間(?)はテレビに夢中になっているようで、寝室から出てきた司には気づいていないようだった。



 その後、司の脳内では様々な考えが目まぐるしい速度で錯綜し、その度にさらなる混乱に陥ったのだが、それを一つ一つ書いていては終わる物も終わらない。

 故にその途中経過は割愛させてもらい、最終的に司が何をしたのかだけ説明しよう。



 と言っても大したことはしていない。



 最終的に、司は一度寝室へ戻り、小脇に抱えた服に着替えた。そして、その格好で三度リビングへと行き、浮いているソレと会話を試みようとしたのだった。



 目の前の人間は確かに浮いている。改めて見てもそれ以外の感想は、出てこなかった。



「あの……すいませ………」


「随分と待たせてくれたじゃないの。初対面の人は苦手かい?」



 浮いているソレは、中学生のように幼く、清泉のように透き通った声で、司の言葉を遮った。



「いや、急に現れたものですから……。それに、浮いてたし、」


「ふむ。この姿で浮いているのは不自然だったか……。なるほどな……」



 華奢な体格に、中性的な顔立ち。滑らかに艶めく真白の髪は長く、後ろで一つに結ばれたそれが揺れるたび、白い光が細かく繊細に煌めいていた。

 息を呑むほどの美少年。若しくは美少女を目の前にした司の頭は、考えることをやめていた。

 理由の無い、ただならぬ幸福感が、司の心を満たしてしまったからだ。



「……おーい? 呆けてもらっても困るんだけど―?」



 鼻を右耳を引っ張られて、司はようやく我に返る。触れられたという点で、少なくとも幽霊ではないことは分かった。

 そして、それが分かったところで何の解決にもならないことも分かった。



 浮いていた人間(?)は胡坐を崩し、ゆっくりと地上に着陸する。冷たいはずの床に触れても、何の反応も示さなかったことに、司が気づく様子は無かった。



「ではツカサ君。君は僕が何者か分かるかい?」



 それはこちらが聞きたいくらいだ。と、司は思った。同時に、『ソレ』が「彼」であることも分かった。



 彼に何者かと聞かれても、司に彼のような知り合いの心当たりはなかった。

 髪の長い人。白髪の人。華奢な人。中性的な人。それぞれのカテゴリーであれば何人か記憶にあるが、それら全てを兼ね備えた人は知らない。


 何より、自由自在に浮ける人間なんてもっと知らない。人が機械に頼らず空を飛ぶのなんて、フィクションの中だけだ。



「さあ、神様とか天使とかですか?」


 当てる気のない、当てずっぽうの答えだった。


「神様か~。遠くはないけど近くもないかな~」



 司を見上げていた彼は、返答を聞いて露骨に頭を抱えた。決して悩んでいるのではなく、悩んでいるような『フリ』をしているようだった。



「んー、学校の授業みたいに当たるまでやってもいいけど、それはさすがに難しすぎるよね?」



 ポニーテールを揺らし、司に背を向けた彼は、格闘ゲームで言うところの『小ジャンプ』をして、再び宙に浮く。今度は胡坐ではなく、立ち姿のまま。



 振り返り、司と顔を合わせた彼は、呼び名のない表情で、こう告げた。



「僕は死神。今の君は、僕と取引できる権利を手にしているんだ」



 一言一句聞き逃してはいなかった。というよりも、司はそれしかできなかった。

 神も仏も信じていない司の前に現れたのは、ただ死ぬためだけの神だった。

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