第2話 叶える者
願い……この女はそれを、欲望と言った。
確かに死の淵に立った時、その人間に失う物は何もない。
これまでどれだけ善人だったとしても、それは生きていることが大前提だ。
この世界で生きていく為に、あらゆる誘惑から目を背ける。
人を憎むこともあるだろう。殺めたくなった時もあるだろう。しかしその気持ちを押し殺す。
だが、これから死ぬとなれば別だ。
しかも自分の手を汚す訳ではなく、この女が叶えてくれる。
これまでかぶっていた偽りの仮面を剥がし、全てをさらけ出す瞬間。
確かに興味深いだろう。
その感情は、この女にとって最高のご馳走になるのだろう、そう思った。
「さあ、あなたの願いを教えて。どんな願いでも一つだけ、私が叶えてあげる」
男の頭に手をやり、息がかかるほどの距離で女が言った。
やがて男は目を開けると、小さく笑った。
「いや……何もないな」
その時初めて、女の表情が変わったような気がした。
「どうして?あなたはこれまで、ずっと頑張って来た。人々の幸せを願い、家族の幸せを願い、頑張ってきた。でも彼らはあなたに感謝することもなく、あなたから離れていった。あなたを裏切った。
恨みはないの?あるはずよ。私なら、その人たちをどのようにすることだって出来る。
あ、そうか。願いが一つだから迷ったのかしら。大丈夫よ、あなたが望むなら、あなたを裏切った全ての人たちに苦しみを、そういう願いとして引き受けてあげる」
男は黙って首を振る。
「じゃあ若さは?最後のひと時、あなたはかつての若い肉体を取り戻すの。何をしてもいい。女を抱くもよし、ご馳走を食べてもいい、何なら自分の手で、年老いた裏切り者たちに制裁を加えても構わない。今のあなたがどんなに願っても叶わない若さ。これならどう?」
再び男が首を振る。
「私にはこの街を消し去ることだって出来る。あなたがそれを望むなら」
窓から朝日が差し込んできた。
いくつもの誘惑を男に示したが、男は首を振るだけだった。
女が小さく息を吐いた。
「……時間切れ。まいったな、こんな人初めて」
「ははっ……すまなかったね」
「あと少しであなたは死ぬ。本当に、何も望まないでよかったの?」
「ああ。でも……そうだな、一つだけ望み、叶ったかもしれないな」
「どういうこと?」
「君とこうして、最後に話すことが出来た……それで十分だ」
「それがあなたの……願い?」
「どうだろう……だがおかげで今、とても穏やかな気持ちだ」
「……」
「ありがとう。いい人生だったよ」
そう言うと、男は静かに目を閉じた。
そしてその目は、二度と開くことはなかった。
「なんか……変な人だったな」
病院の屋上。
柵にもたれかかり、女がつぶやいた。
「こんな願い、初めてだった。でも……やっぱり人間は面白い」
そう言うと朝日に向かい、飛び立った。
「次の人は……どんな願いを聞かせてくれるかな」
最後の願い 栗須帳(くりす・とばり) @kurisutobari
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