第9話 後川のサービス

 俺の足元でガラスのコップが粉々に砕け散る。


「す、すみません!」


 今日も俺はラストオーダーまで中華料理屋で働いていた。その疲れからか、本日三度目の失態をしでかしてしまった。


「大丈夫かい? 君らしくないよ?」


 いつもなら怒鳴り散らす店長だが今は怒りよりも心配が勝っていた。


「もしかして風邪かい? 今のご時世、風邪のような軽い症状、倦怠感でも疑わなくちゃあいけない。店長が片づけておいてあげるから、あがっていいよ」

「いえ平熱でしたし、仕事中はだるさを感じなかったので……まだ大丈夫です」


 するとレジの呼び鈴が鳴る。


「君はレジを。その間にここは店長がやっておいてあげましょう」

「……すみません、よろしくお願いします」

「……そんな弱弱しい君は初めて見るよ……」


 店長の残念がる顔が心にぐさりと刺さるも今は仕事。

 というか後川、またサボってるな?

 なんて怒りを一切見せずに営業スマイルでレジに向かう。


「すみません、お待たせしました」


 会釈すると相手も会釈する。

 またもあのお客様だ。外はとっくに暗いのに色の深いサングラスを着用している。背丈は米沢米と同じくらいではあるが男性か女性かは判別しづらい。

 今日の注文も餃子とウーロン茶だ。

 ちなみにうちの餃子は冷凍食品ではなく、朝のうちに仕込み、鉄板で焼くこだわりの一品。さらに一定以上の腕前を持つ調理人しか作ることを許されず高いクオリティを約束している。俺も店長に餃子作りの免許皆伝を貰うまでに半年はかかった。また無料のオプションでにんにくやニラ抜きにもできる。

 このお客様はにんにく抜きで注文している。だからたぶん女性なのではないだろうか。

 おっとあんまりお客様を詮索するのはマナー違反か。この頃の俺はほんとだめだな……。

 サングラスマスクのお客様が本日最後のお客様だった。



 俺はすぐに帰らなかった。休憩室で本日三枚目の始末書を書いていると後川がへらへら笑いながら近づいてくる。


「せんぱーい、コップを三個も割ったんですかー? 俺だって一日に二個しか割ったことないですよ~」

「総数や連続日に比べればまだまだお前の足元に及ばないよ」

「それもそっすねー。でも先輩がここまで失敗続きなのもめずらしいっすねー。なんか彼女となんかあったりしたんですか?」

「ん……やけに鋭いな、お前」

「あ、いや、たまたまっすよ! たまたま!」

「そうだよな、お前のことだ、たまたまだよな」


 後川は俺に彼女がいることを知ってはいるがそれが米沢米だとは知らない。今後も教える気は一切ない。なにせ口が鳥の羽よりも軽そうだからだ。


「それよりも先輩。まだっすか?」

「まだって?」

「忘れたんすか!? 一石いちいしはじめちゃんに会ったらサインをもらってきてくれるって約束したじゃないすか! この薄情者!」

「その約束を持ち掛けられた記憶はあるが承諾した覚えはない。というか50過ぎたおばさんをちゃん付けって」

「あ! それって女性差別っすよね! 我々の中では一ちゃんはいつまでも未来永劫一ちゃんなんすよ!」


 この通り後川は筋金入りのオタクだ。そんだけ熱意があるのならいっそのこと自分が声優を目指せばいいのに。


「おばさんと言ったことは謝ります。ごめんなさい。だがやはり約束はできんぞ? 俺は売れない声優。あちらは超が付くほどの大御所。例え仕事場で一緒になったとしても後輩がファンなのでサインくださいなんて恐れ多いわ」

「そこを! なんとか! 親友のお願いっす!」

「お前と誰がいつ親友になったんだ……」

「とか言ってなんやかんやでサインをもらってきてくれたりするんですよね、わかってるんですよ。先輩がツンデレさんってことくらい♡」

「きもい。とっとと失せろ。お前より始末書が大事なの」

「つれないっすね~。あ、そういえば見ましたか?」

「主語を言え、主語を」

「週刊理冬の予告記事っすよ。つぶやいたーで告知があったんすよ」

「ゴシップの話か、くだらん」


 タレントの噂話などせいぜい話題が尽きていよいよ沈黙になってしまう時になんとか場を持たせようとして持ち上がる程度の話題だ。

 浮気や不倫をする人間も大概だ。恋人がいるのに二人きりで食事をし、あまつさえ一線を超えるなど言語道断。

 ……などと考えれば考えるだけストレスが溜まるだけだ。俺は始末書に集中する。


「あそこ、たまーに声優のスクープもやるじゃないっすか」

「ふーん」

「今回も声優のスクープなんすよ。超人気声優YM、40歳年上の社長と夜の都内を車デート! 袋とじは車内でベロチューのショット!」

「ほーん」

「……反応薄いっすね。まあこのYMってのは十中八九、弥代やしろみつのみっちゃんでしょうね。女子高生で声優デビューしたはいいものの、大学進学からは男をとっかえひっかえって元々ネットで噂でしたからね、とんだビッチっすよ。やはり一ちゃん。一ちゃんは信用できる」

「そうかそりゃすごい」

「……間違っても米沢米とは思えませんね。確かにここ最近売れだしてはいますが超がつくほどではありませんね。そんじゃ用は済んだのでそろそろ帰るっすね。おつかれっしたー」

「いい話だなー」


 始末書を書き終えて、俺は白湯さゆで一息つく。


「後川が帰り際になんか言ってたよな……声優YMが40歳年上の社長とデート? 余所の恋愛事情にどうして肩入れできようか……」








 ん? 声優YM?







 おい、待て。











 待てよ。











 YMといえば……。








 米沢よねざわまいじゃないか。







 俺の手からコップが滑り落ちる。

 ※このコップは紙製のため、四枚目の始末書とはならなかった。

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