約束

増田朋美

約束

約束

12月らしい寒い気候で、穏やかに晴れて、のんびりした一日であった。静かに風が吹いて、富士山がよく見えるような、そんな一日だった。そんな風に周りが平穏すぎるからこそ、細かいことが気になってしまうのかもしれない。普段気にしなくていいことが、すぐに気になってしまうのかもしれなかった。それでは、いけないという人もいるし、そうではないという人もいるだろう。いずれにしても、何か、変化する人もいれば、そうでない人もいるという時代になったのだ。

その日、杉ちゃんと蘭が、富士市文化会館に展示会のために出かけたところ、ホールの真ん前で何人かの人が待機しているのが見える。

「おい、一体何の集まりなんだろうね。」

杉ちゃんがそういうと蘭は、急いでホールの掲示板を確認して、

「ああ、ホールでピアノを弾いてみませんか、だって。ほらよくあるじゃないの、ホールを一面借りちゃってさ、練習のつもりでコンサートピアノを弾かせる企画。」

と杉ちゃんに言った。

「いわゆる発表会と同じようなものか。みんなそういうのやりたいのかな。」

と、杉ちゃんが言うと、

「こんなところで何をしに来たんですか?どうしてまたこんなところに来たんです?」

という声がしたため、蘭は、急いで後ろを振り向くと、ジョチさんが鞄を持って、立っていた。

「なんだ、お前こそ何をしに来たんだよ。」

と、蘭がいうと、

「僕は、利用者さんの付き添いです。ここでピアノを弾きたいという人がいましたので、其れで付き添いで、参りました。」

と、ジョチさんは答えた。

「そうか。お前が付き添うんなら、たぶんろくな演奏じゃないな。どうせ大したことのない利用者の、手伝いをしているんだろう。」

と蘭は、まず嫌味っぽく言った。

「そうかもしれませんが、出場者の弾く曲は、ベートーベンのピアノソナタだそうです。コンクールに出場するほど自信はないようですが、こういうイベントであれば、参加してみたいということで。」

と、ジョチさんは言った。

「へえ、そんなすごいのをやるやつがいるんだねえ。よし、聞かせてもらおうじゃないか。批評はしないけどさあ、どんな演奏をするのかは興味ある。」

と、杉ちゃんがそういうことを言って、どんどん、ホールの中に入ってしまった。蘭は、おいまてよと杉ちゃんを追いかけるが、一度決めてしまうと、意思を押し通してしまうというのが杉ちゃんというひとである。

「まあ、杉ちゃんらしい反応ですね。それでは、行ってみましょうか。」

と、ジョチさんは、二人の後を追いかけて、ホールに入っていった。

ホールに入ると、出場者の家族か、その血縁者らしき人が、たくさん集まっている。出場者に与えられた時間は10分とか、15分くらいしかないけど、それを使って、出場者は、取っておきの曲を演奏するのである。

「続きまして、村瀬舞衣子さんの演奏です。曲は、ベートーベン作曲、ソナタ第18番変ホ長調より、第一楽章です。」

と、アナウンスが流れて、一人の中年の女性が舞台に上がった。どうも足が悪そうで、右足には片手を添えて、足を引きずって歩いている。もしかしたら、ペタリングにも不自由かもしれない。舞衣子さんは、よたよたと椅子に座った。そして、ベートーベンのソナタ18番を弾き始めた。でも、なんだか、一寸、手にも不自由なところがあるようで、何だかところどころ音を外したり、和音がうまく決まらかったり。あーあ、やっぱり、中年女性の手習いかと思われたのであるが、杉ちゃんとジョチさんは、結構うまくやりましたね、と言って、ほめあっている。

結局大した見せ場もなく、彼女の演奏は終了した。杉ちゃんは、良いぞ!なんていって、拍手をしているのだが、蘭は拍手する気になれなかった。こんなへたくそで舞台に出るなんて、単なる自己満足じゃないか、としか思えなかった。

「彼女の楽屋に行きましょうか。」

と、ジョチさんと杉ちゃんは、急いで座席を立ち上がる。そして、楽屋のある方へ行ってしまった。蘭としては、もう少し聞いていたかったけど、杉ちゃんたちがどんどん行ってしまうので、慌てて後を追いかける。

楽屋に行くと、ジョチさんは、村瀬舞衣子さんを呼んできてくださいと係の人に言った。少々お待ちくださいねと言って、係の人は、彼女を連れてきてくれた。

「やあ、村瀬舞衣子さんだね、お前さんのベートーベンのソナタは上出来だったぜ。」

と、杉ちゃんが彼女をほめてやると、

「はい、途中で失敗してしまいましたけどね。」

と舞衣子さんという女性はすぐにそれを認めた。

「いいんですよ。オリンピックだって、参加することに意義があるんですから。大丈夫です。又、来年も、しっかり挑戦してくださいね。其れが何より大事ですよ。」

ジョチさんにそういわれて、舞衣子さんは、はい、ありがとうございます、と頭を下げた。

「いつもは、電子ピアノで練習しているものですから、こういう本格的なピアノで練習するっていう事自体に緊張してしまいます。今年は、開催できるか危ぶまれましたけど、出場することができて良かったです。」

涙ながらにそういう舞衣子さんに、蘭は何か変だなとおもった。なんであんなにへたくそな演奏だったのに、ジョチさんも杉ちゃんもほめているのだろうか?ほめられるようなところは何もないはずの演奏なのに。なんでそんなにほめちぎっているのだろう?

「じゃあ、来年も出るって約束してくれますか?それを約束したら、台風でも来て中止にならない限り出てくださいね。それは絶対に破ってはいけませんよ。わかりましたね。」

ジョチさんに言われて、彼女ははいと言った。

「このイベントに出ると約束すると、嫌でも生きなきゃいけないから、生活に張りが出ていいですね。」

と舞衣子さんは、小さな声でそういうことを言うのだった。

「ええ、それがあなたにとっては命を大切にするということです。あなたには、それを学んでもらわないと、いけません。」

「ペットを飼えば、そういうことがわかるかもしれないよ。」

ジョチさんが言うと、杉ちゃんもそう付け加えた。

「ああ、そうですね。其れは言えていますね。例えば、犬や猫は高価ですが、カブトムシなんかを飼うのもいいかもしれないですね。まあ、それは舞衣子さんの判断に任せるとして、もう一回言いますが、来年も、このピアノ体験会に出るのを約束してくださいね。そうだな、今度はもっと大曲を弾いても良いと思います。」

何を言っているんだ、彼女に大曲なんかできるはずもない。そんな演奏技術はどこにあるんだと蘭は言いたくなったけれど、ジョチさんも杉ちゃんもそうしろそうしろと言っている。何だかおかしいなと思った。

ピアノ体験会では、演奏が終わって楽屋で着替えなどを済ませると、もう帰っていいことになっている。舞衣子さんは、急いでステージ衣装から私服に着替えて、ホールの事務所に行き、参加費である1500円を支払うと、ジョチさんと杉ちゃんに頭を下げて、ありがとうございましたと言い、ホールからバスに乗って家に帰っていった。

「一体なんで、お前があんなへたくそな演奏をする女性の肩を持つんだよ。何か、裏金でももらったのか?」

と、蘭はジョチさんに聞いてみた。

「そんなことありませんけどね。」

とジョチさんはそれだけ答える。

「だって、あれほど本物志向が強かったお前がだぞ、なんであんなへたくそな演奏をする人に手を出すのか、僕は考えられないな。」

蘭はもう一回、波布をからかうように言った。

「ええ、これからも彼女にはそうすることにしますよ。なぜかというと、彼女をこの世界で生かしておくためには、そういうイベントに出させることが必要であるからです。もっとはっきり言えば、彼女が、そのイベントに出ると約束をして、出るために生きていくことを、感じさせることが僕らの役目ではないですか?」

と、ジョチさんは、すぐにそういうことを言った。

「はあ、お前がか。それではお前も変わってしまったような気がするな。もしかして、お前は彼女に好意を持っているとかそういうことか。」

蘭がすぐそういうと、

「いえ、そのようなことは毛頭ありません。ただ、彼女にこの世で生きてもらうために、援助をしているだけです。」

とジョチさんはきっぱりといった。

「そんなに、生きてもらわなきゃいけない女性なのだろうか?」

蘭がそうからかうと、

「少なくとも、自殺幇助が合法化されている国家とは、日本は違います。だから、彼女にできるだけ自殺したいと発言させないようすることが大切なんです。」

ジョチさんは、続けて語り始めた。

「誰も手を差し伸べない、居場所を亡くした女性ですよ、彼女は。家で、家族も彼女のことを、症状が出ているからと言って、誰も寄り付かない。それで、ご親戚が何とかしなければならないと言って、製鉄所に彼女を連れてきたんですが、彼女はそれを、自分が働かないことによる、口減らしだと勘違いして、余計に自殺をしたいと口走るようになりました。事実、自殺を実行しようと、食堂の洗剤を飲んで大騒動を起こしたこともありましたから。それで僕たちは、彼女に自殺をさせないように、子供のころに習っていたピアノをもう一回始めさせて、ああしてホールで弾かせているんです。そういうわけで、彼女が生きていられるような環境をつくってやることも大事かなと僕たちは思っているんです。」

「はああ、なるほどね。其れ、僕もわかるような気がするよ。どんな奴だって、生きていかなきゃならんもんね。其れを間違えたら、大変なことになるよ。そのためにピアノを使うのなら、それは、悪いことじゃないと思うよ。」

杉ちゃんもジョチさんの意見に賛同した。蘭は、そうなのだろうかと考える。

「そうだけど、その彼女というのは、何かしているのだろうか?」

「今は何もしていません。彼女は、肉親から口減らしのために製鉄所に送られたんだと勘違いしていますから。その勘違いが解けるまで、彼女が仕事に就くということは難しいでしょう。其れのせいで、いろいろ、問題を起こしていますしね。人に迷惑をかけてばかりで、何も利益らしきものはないとお思いますが、それでも彼女を死なせるというわけにはいかないんじゃないですか?」

ジョチさんは、そういう事を言った。それは、ある意味で宗教的な問題かもしれなかった。人を死なせてはいけないと考えるのは、仏教とか、キリスト教とか、そういうものに帰依していることが多い。「そうかあ。そういうことを考えているのか。でも、人に迷惑をかけてばかりな人を、生かしておいても、いいのだろうか。だって、短絡的に言ったら、ただ、生きているだけの人間だろ?そういう人間を、生かしておくなんて、そういうことは、」

と蘭が言いかけると、

「いやあ、人間も動物だよ。最終的には、生きるということに集中するのが人間ってもんじゃないの?」

と、杉ちゃんがデカい声で言った。

「でもさ、誰のためにもならないってことは。」

「ばーか!そういうことを言うんだったら、いろんな人が必要ない人間に成っちまう。それはいけないって、どこの国でもそういっているよ。たとえ、そういう障害のあるやつだって、本人は利益を出せなくても、周りのやつが、手を出して利益を生み出すということもあるんだぜ。それは、どんな奴でも同じなの!」

蘭がそういうと、杉ちゃんがまた蘭に言った。

「どんな奴だって、何か考えることはあるよ。時には、変なふうになるやつもあるさ。それは、もう仕方ないってことはいっぱいあるじゃないか。それはもう仕方ないから、あきらめて、そいつができることを探してやる事も必要なんじゃないの?」

と、杉ちゃんはにこやかに笑った。ジョチさんが、杉ちゃんいいこと言いますね、誰でも、周りのひとに迷惑かけるというのが、人間というものではないですか、何てつぶやいていた。

「さて、僕たちも帰りますか。来年も彼女が出てくれることを祈って、過ごしましょう。」

と、ジョチさんは、杉ちゃんに言った。

「ああよかったね。それでは、焼鳥でも食べて帰るかな。」

と杉ちゃんも彼についていく。蘭は、まったく、あの二人は、なんでこうのんきな人たちなんだろうかと思いながら、市民会館を後にした。あの女性、村瀬麻衣子さんが、約束を守ってくれるだろうかなと思いながら。約束は、必ず守るのが当たり前ではあるが、最近守れない人が多くなっている。彼女はどちらに入るのか、蘭は見てみたいとも思ってしまった。


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約束 増田朋美 @masubuchi4996

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