Planet


 きっかけは至極単純だった。

 担任の先生が「上手だね」と言ってくれた。当時小学二年生で、世間の厳しさや、常識を知らなかった俺にとって、その言葉は漫画家を目指す十分な理由になった。

 3か月かけて仕上げた原稿を、30分かけて編集に酷評された帰り道、俺はコンビニで無料の求人誌を数冊入手した。

 先日両親から、段ボールいっぱいの仕送りと共に、漫画家なんて諦めてさっさと就職しろという旨の内容が書かれた手紙を受け取った。

 俺も今年で25歳になる。四捨五入すれば30だ。このままでは駄目だという事は俺だってよくわかっている。漫画家の卵、夢追い人、美化する言い方は色々あるが、結局は普通の人より少し絵がうまいだけの無職だ。職歴もない。どれだけ絵を練習しようと、結果が出なければ全て無駄になる。俺には才能がなかった。俺では漫画家になれない。この年になればその事実も薄々理解はしている。だが早々と受け入れられるものではない。今諦めたらもったいない。次の持ち込みでは評価されるかもしれない。いつか俺の努力が認められる日が来るかもしれない。そう思うとどうしても諦めることができなかった。

 まぁその【いつか】を追い求めた結果が今の俺なのだが。



 編集の人に言われた言葉を思い出す。

「君はなんの為に漫画を描いてるの?」

 俺はその問いに対して即答することができなかった。編集の人はそんな俺を見て大きくため息をついて「もういいよ」と言った。

 自宅のベッドで寝転がっている今も、その問いに答えが出せないでいる。俺はいったい何のために漫画を描いているのだろう。同級生の中には既に結婚をして子供を授かっている奴もいる。結婚はおろか彼女すらおらず、定職にも就かず親の脛を齧りながら漫画を描き続ける理由とはなんだ。

 きっかけは今でも思い出せる。だが理由が分からない。

 漫画は勿論大好きだ。読むのも描くのも大好きだ。俺はただ好きだからという理由だけで漫画を描いているのだろうか。

 ……寝転がったまま、拳をベッドに叩きつける。貰うだけもらって読みもせず積み重なった求人誌の束が部屋の隅で音を立てて崩れた。


「腹、減ったな……」

 壁にかけてある古びた時計は午後4時を指していた。親の仕送りがあるとは言え、バイトすらしていない俺は、お世辞にもまともな食生活が送れているとは言えない。基本的に食事は日に2回、場合によっては1回の時もあるし、酷いときには何も食べない日もある。まぁもともと食にあまり興味がないのでそれほど困ってはいない。食事の時間を漫画を描く時間に充てたほうが有意義だ。

 とは言え俺も人間だ。働かざる者食うべからずという言葉があるが、生きている以上食事をとらなければ死んでしまう。今日なんかは特に疲れたせいか、やたらと空腹を感じていた。

 重くて仕方がない体を無理やり起こして、ベッドの脇に置いてあったスマホをポケットに捻じ込んだ。そのまま部屋の電気を消して玄関へ向かう。今俺の家には食い物がない。食材はおろか、お菓子の類もない。冷蔵庫なんて缶コーヒーしか入っていない。故に俺はこれから食事をするために外出する。こんな事なら持ち込みの帰りに済ませてくればよかったが、あの時は空腹を感じれるほど心に余裕がなかった。もっとも今の俺に余裕を感じている暇などないのだが。

 玄関を出て、ドアに鍵をかける。二回ほどドアノブを回し、施錠が出来ていることを確認して俺はアパートを後にした。



 家を出て30分。俺は外食したことを後悔していた。

 存在は知っていたが、一度も行ったことがない小洒落た喫茶店に俺は入った。ピークを過ぎているという事もあり、店内はそれほど混んでなく、席は自由に選んでもいいとの事だったので、窓際の席に座り、水を運んできた店員にグラタンを注文した。

 数十分ほど待った後、限界まで熱された皿に盛られたグラタンが、俺の前に運ばれてきた。「熱いのでお気を付けください」という、マニュアル通りの忠告に対し、適当に相槌を打って、俺はグラタンを口へ運んだ。



 徐々に冷えていくグラタンを、夢中で口に運んでいたとき、俺は自身の懐が膨らんでいないことに気が付いた。急いで身に着けている衣服のポケットの全てをまさぐる。

 ……ない。財布はおろか小銭一つ入っていない。

 非常に大問題である。グラタンを食べる手が止まる。半分ほど残った皿の上にフォークを置いた後、背中に汗が伝っていくのが感じ取れた。

 ……選択肢は2つだ。

●素直に財布を忘れたことを伝え、携帯電話等の何かしらの担保を店に置いて、財布を取りに帰る

●残ったグラタンを胃袋に詰め込んで、全力疾走する

 まぁこの場合一択だ。素直に財布を忘れたことを伝えて取りに帰った方がいい。幸い家もそう遠くない。店員さんに言えば融通を聞かせてくれるだろう。

 冷えたグラタンを食べきり、俺はテーブルの端にあった呼び鈴を鳴らす。やってきた男性の店員に、俺は事情を説明した。あからさまにスマホを見せて、担保を置いていく気を見せてはみたが、店員は俺の話を聞き終わる前に、「少々お待ちください」と言って、厨房の方へ向かっていった。

 しばらくして、先ほどの店員がエプロン姿の男を連れてきた。恐らく店長だろう。「いかがなされましたか?」と問われたので、俺はさっき店員に話したことをそっくりそのまま話した。もちろんスマホも見せつけながら。

 俺の話を聞き終わった店長らしき人物は、まっすぐ俺の目を見ながら「その必要はございません」と答えた。

「必要ない?」

「はい」

「何がです?」

「お客様が財布を取りに帰る必要がないという事です」

「すみません。説明されてもわかりません。今の言葉をそのまま受け取ると、僕はこのおいしいグラタンの料金を払わなくてもいいという事になるんですけど」

「おっしゃる通りです」

 ……?

 気持ちの整理が追い付かない。

 払わなくてもいい?料金を?そんなバカなことがあるのか?

「一つお尋ねしてもいいですか?」

「どうぞ」

「なんで僕は料金を払わなくてもいいんですか?」

「既に料金を頂いているからです」

 何を言っているんだこいつは。

「……払った覚えがないんですけど」 

 俺がそう言うと、店長らしき人物は右手を俺が座っている席の反対側にあるカウンターに向けて、「あちらの方から料金を頂戴しております」と言った。

 店長らしき人物の手が示す方向には、一人の女性が座っており、その女性は俺に小さく手を振った。

「あー……」

 俺がそう呟くと、男性の店員が「お皿、お下げいたしますね」と言って、空になった皿を持って店長らしき人物と共に厨房へ消えた。

「よっ」

 二人と入れ替わる形で、カウンターに座っていた女性が、半分ほど水が入ったグラスを片手に、俺の前に座った。

「久しぶりだね。最近どう?」

 女性はうっすらと笑いを浮かべて、グラスの水を飲み干した。

「別に、至って普通だよ。姉さんの方こそどうなんだ?」

 俺も同じように、グラスに入っていた水を飲み干して返す。

「ん?私?私もまぁ……至って普通かな。というか久しぶりに会ったのになんかそっけなくない?」

「ああ、悪い。ちょっと色々あってな」

「持ち込み、また駄目だったの?」

「まぁ、そんなとこだ。母さんから聞いたのか?」

「そう、仕送りも止めるってさ」

「みたいだな」

「みたいだなって……これからどうするのさ」

 姉は空のグラスを指で撫でながら、静かに俺を見つめた。

「別に、変わらねぇよ。また新しい漫画を描いて持ち込むさ」

「そっか」

 姉は静かにそう呟いた。

 俺は懐から煙草を取り出し、火をつける。姉に許可を求めず、火をつける。

 ゆっくりと息を吸い込み、肺の中に数秒煙をため込んで吐き出した後、テーブルの端に置いてあった灰皿に煙草を置いた。

「金、払うよ」

 煙草の先端から揺らぎ出る煙を見ながら呟く。もちろんグラタンの料金の事だ。

「別にいいよこれくらい」

「よかねぇよ。自分の分くらい自分で払う」

 少し短くなった煙草を指に挟み、俺はカウンターに視線を向ける。丁度さっき話をした店員と目が合ったので、空になったグラスを掲げて見せると、直ぐに水を注ぎに来てくれた。

「まぁここは私に奢られときなよ。第一財布を持ってないのにどうやって払うのさ」

 店員が水を二人分注いで、厨房に帰った後、姉は笑いながら水を飲んだ。

「バレてたか」

「そりゃあんだけゴソゴソしてたら誰でも察しが付くよ」

「そうか、でもまぁ金は払うよ。俺の家、ここから近いんだ。帰りに寄ってってくれ」

「だから払わなくてもいいって。もともとアンタの分は払う気だったし。まさか財布を忘れてたとは思わなかったけど」

 姉は、俺が指に挟んでいた煙草を器用に奪うと、火種を灰皿に押し付けて鎮火させた。

 半分ほど残して灰皿の上で潰された吸い殻を見つめて、俺は「ところで」と切り出す。

「姉さんはなんでここに?」

「ん?理由がなきゃ外食しちゃいけないの?」

 新しい煙草を取り出そうとする俺の腕を抑えながら、姉は微笑む。が、目は笑っていなかった。

「この辺に用事でもあったのか?」

「まぁ仕事でちょっとね。別に私が来なくても良かったんだけど、アンタが住んでるとこが近かったからさ、ついでに顔でも見てやろうと思ったのさ。長い事会ってないし、心配だったからね。だからこの店で会えたのはラッキーだったよ。ご飯食べ終わったら電話しようと思ってたし」

「仕事、ねぇ……」

 呟いて俺は水を飲み干す。この姉がわざわざ俺に会いに来るとは思えない。長らく会っていないとは言え、一応姉弟だ。姉の性格くらい把握している。

「もしかして疑ってる?ああ、別に今サボってる訳じゃないよ。仕事は明日さ、今日は前乗りで来てるだけだから、一日空いてるってだけ」

「別に疑っては……いや、それは嘘だ。疑ってる。でも俺が気にしているのはそこじゃない。姉さん、俺が心配で会いに来たわけじゃないだろ」

 そう、姉は俺が心配で俺に会いに来たわけじゃない。仕事というのは本当だろうが、姉の言う通り別に姉が来る必要はない。他の人に任せていればいい。でも姉は来た。仕事のついでに俺に会いに来た。わざわざ前乗りしてまで俺に会いに来る理由はなんだ?心配をしていない事は確かだ。いや、もしかしたら俺の身を、20代も半ばになって、未だに何の結果も出せず、ふらふらしている俺を心配はしているのかもしれない。だが、それが理由で会いに来る事はない。なぜなら姉は、今まで一度たりとも俺を心配したことなどなかったからだ。

「ははは」

 気持ちの悪い笑みを浮かべて、姉は俺の腕から手をどかした。すかさず俺は煙草を取り出し、咥えて火をつける。

「奢ってもらっている身で言うのもなんだが、さっさと要件を言えよ。俺は早く帰って新しいネームを書きたいんだ」

 視線を姉に向けたまま、大げさに首を逸らして煙を吐き出す。

「じゃあ単刀直入に言おう。パフェでも頼んでもう少し世間話でもしながら話したかったんだけど、そんなに急いでいるなら仕方ない」

「なんだ?金でも貸してほしいのか?」

「笑えない冗談言うなよクソニート」

 俺を睨みながら姉が言う。

「一回だけ言ってやるよ。漫画家なんてさっさと諦めて働け」

「……笑えねぇ冗談だな。話はそれだけか?俺はもう帰る。ごちそうさん、仕事頑張れよ」



 ――衝撃音

 灰皿に煙草を押し付け、立ち上がって帰ろうとする俺を、姉はテーブルに足を叩きつけて制止した。姉が履いていたハイヒールが甲高い音を立ててテーブルを揺らす。衝撃でわずかに水が残っていたグラスが倒れて、テーブルを湿らせた。もともと静かだった店内は、一瞬にして静寂に包まれた。

「座れよ」

 ゆっくりと足を戻しながら、姉は言う。

 店内で食事をしていた客が一瞬こちらを見て、直ぐに元に戻る。誰だって面倒事はごめんだろう。関わらないのが一番だ。席を立った男に、テーブルに足を叩きつける女。どっからどう見ても揉めてる様にしか見えない。そんな連中に関わってもしょうがない。だが、店員はそうはいかない。俺が再び席に着くと同時に、先ほどの男性の店員が「大丈夫ですか」と言いながら駆け寄ってきた。

「失礼、何でもないです。テーブル汚してごめんなさい、拭いておきます」

 今さっきまで乱暴な態度を取っていたとは思えないほど丁寧な笑顔で、姉は店員にそう言った。姉がカバンからハンカチを取り出すのを見ると、店員はそそくさと厨房へ帰っていった。

「話は終わってない」

「終わったろ」

「終わってんのはてめぇの人生だろ。仕送りも止まるってのにいつまでもバカみてぇに漫画漫画言いやがって。いいか?夢を追いかけていいのは金に余裕のあるやつか、10代のガキだけだ。お前はどっちも満たしてねぇんだよクソボケ」

「だから諦めろってのか?」

「まぁ諦めろとは言わないよ。アンタが子供ん時からずっと漫画家を目指してるのは知ってるから。でも就職はした方がいい。そもそも仕送りが止まったら漫画どころか生活できないじゃん」

 まごうことなき正論だ。ハンカチでテーブルをなぞる姉に、「バイトくらいするよ」と返す。

「……アンタさ、本気で漫画家になりたいの?」

 ハンカチをカバンに仕舞い、落ち着いた様子で姉は問う。

「当たり前だろ」

 俺が返すと、姉は小さくため息をついて「煙草よこせ」と言った。俺は素直に煙草を姉に手渡すと、姉は一本抜き取り、口に咥えた。

「火がねぇと吸えねぇだろ」

 言われて俺は、ライターも手渡す。俺の手からひったくるようにライターを奪うと、姉は煙草に火をつけ大きく息を吸い込んだ。

「同じ質問じゃない。正直さ、私はアンタの夢を応援できない」

 姉は俺と同じように大げさに横を向いて息を吐く。

「俺の記憶が正しければ、姉さんに応援を要請した事はなかったと思うが」

「次はテーブルじゃなくてお前の頭に足を落としてやってもいいんだぞ?」

 俺を睨みながら姉は足を組み替えた。

「そりゃあアンタの人生なんだから、アンタの好きに生きたらいいと思うよ。でも私はどうしてもアンタが本気で漫画家を目指しているように思えない」

「悪いが本気だ。俺は漫画家になる。今はまだ何も結果が出ていないが、この先必ず俺は漫画家として生きていく。生活の事なら心配しなくていい、家には大量の求人誌がある。その中からバイトを探して生活するさ。そもそも――」

 話している口が止まる。視線の先には、まっすぐ俺に向いた姉の人差し指があった。

「そこだよ。まさにそれ、結果だ。アンタは何も残していない。アンタが18の時に家を出て、そこから今日に至るまでの約7年間、アンタは何も残してないんだよ」

「……」

「結果が出せなければ、努力は評価されない。厳密に言うと、結果を出して、誰かがそれを評価して初めて努力が報われるんだ。でもまぁ重要なのはそこじゃない。結果なんて出せる人の方が珍しいんだから。アンタの場合は、なんて言うかその……」

 姉は煙草を指に挟んで頭を掻く。その間もずっと指は俺を指していた。

「現状維持、そう、現状維持だ。アンタ、結果が出てないにも関わらず、現状維持を続けてる。そこが引っかかるんだよ」

「現状維持?」

「そう、現状維持。普通さ、結果が出ないと人は努力の方法を変えるんだ。でもアンタ変えてないでしょ。ずっと母さんからの仕送りで生活しながら書いてるだけでしょ?アシスタントとして働くわけでもない、仕事を始めるわけでもない、そんなんで漫画家になりたいって本気なの?」

 姉は淡々と続けた後、一言「まっずい煙草」と言って、灰皿に煙草を押し付けた。

「私が思うに、アンタは漫画家になりたいんじゃない。漫画家になろうとしている今の生活を続けたいんだ。つまるところ――」

 言いかけた姉の言葉を、俺は拳をテーブルに叩きつけることで制止した。既に先ほど姉が空にしたグラスが、倒れて乾いた音を立てた。「女の次は男の方か」店員はきっとそう思っているだろう。姉弟揃って迷惑な客だ。

「図星だろ?」

 テーブルの上で丸まった俺の拳に、自身の手を重ねて姉は言う。

「ごめんね、久々に会ったのにこんな話しちゃって。アンタの気持ちは分かるよ。そんなこと言われる筋合いないってんだろ?そりゃあそうだ。アンタの人生はアンタの人生なんだから、誰かに何かを言われる筋合いはない」

 姉はカバンを手に取り立ち上がる。

「だから最後に聞かせて、答えはいつでもいい。アンタ、何のために漫画を描いてるの?」

 そう言い残し、姉は店を去っていった。

 姉が店を出て少ししてから、俺も店員に騒いだことの詫びを入れて店を出た。恐らくもう来ることはない。

 出入り口のドアに貼られた、「アルバイト募集」というチラシを一瞥して、俺は帰路についた。店内に居るときは気づかなかったが、雨が降ったのだろう。道路に出来た小さな水溜まりを、暮れ行く太陽が照らしていた。

 







 





 


 

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