Leica
これは俺の持論だが、煙草に一番合う飲料は微糖の缶コーヒーだと思う。
一人ぼっちで佇みながら、換気扇の音だけが大げさに喚きたてる喫煙所で、俺は手に持っていた缶コーヒーに視線を落とす。
でかでかと【微糖】と書かれているパッケージのコーヒーを口元で少し傾けて、喫煙により乾いた喉を潤した。口内では煙草とコーヒーの味が混ざり合って奇妙な舌触りになっているが、それもまた心地いい。喫煙とコーヒーは切っても切れない関係性だ。トンカツで言うところのキャベツだな。
俺は喫煙所の壁に向かって少しだけ足を進める。ガラスで作られている壁は、過去ここで喫煙したであろう人の指紋がいくつか張り付いていた。
煙草を口に咥えたまま、意味もなくその指紋をなぞってみる。意味はないので特に何も感じはしない。口に含んだ煙を吐き出し、再び缶コーヒーで喉を潤した。
ガラスの壁で囲まれた喫煙所にいると、なんだか見世物にされているような気分になる。
「ほら、お前ら見てみろよ。間抜けなヤニカスがいるぞ」と晒しているかのように。
前を通り過ぎる人々が、時折こちらに視線を向ける。2.3人の人間と目が合ったが、彼らは特に関心を示すことなく通り過ぎる。
まぁガラスの向こうには冴えない喫煙者が喫煙しているだけなので、当然といえば当然なのだが。
動物園の動物たちは皆こんな気持ちなのだろうか。だとしたら動物園は直ぐに全て閉園するべきだ。ガラス張りで、外から丸見えの空間に居るというのは結構なストレスになる。喫煙しているだけでストレスを感じるのだから、開園している時間だけとは言え、その空間に閉じ込めるというのは、拷問に近い所業なのかもしれない。
もしかしたらこの喫煙所がガラス張りになっているのは、そういうストレスを与えることで、ここに長時間滞在させないようにしているのではないだろうか。
喫煙所というのは存外長時間滞在してしまうものだ。少なくとも俺はそうだ。このご時世気軽に外で煙草は吸えない。俺がよく利用していた最寄り駅の喫煙所も閉鎖されてしまった。あの時は親族の葬式のような喪失感に苛まれたのを覚えている。あえて喫煙者にとって居心地の悪い喫煙所にすることで、長時間の滞在を抑制しているのかもしれない。だとしたら、俺が待ち合わせまでの時間つぶしにこの喫煙所に入ったのは悪手だったかもしれない。
だが他に時間を潰せるところがない。いや、あるにはある。ガラスの向こうには子洒落た喫茶店があるし、少し歩いたところにはゲームセンターがある。が、それらは全て禁煙の施設なのだ。禁煙という事はそれすなわち喫煙ができないという事だ。
当たり前の話だが、俺にとっては大問題だ。煙草が吸えないのなら気持ちよく過ごせない。時間つぶしとは言え、気持ちよく過ごすのは当たり前だ。嫌な気持で潰される時間の気持ちも考えろ、可哀そうだろ。そもそも潰していい時間などあるのだろうか。時は金なりという言葉がある。金と時間は同じ価値があるという言葉だ。無益な時間の浪費は、金をドブに放り投げているのと同じだ。なら時間は潰すべきではない。限りある時間を大切に大切に味わうべきだ。そして更に言うなら、俺は本来時間を潰すつもりなど毛頭なかった。
煙草を灰皿に捨てて、ポケットからスマートフォンを取り出す。時刻は午後2時を示していた。
俺は今日ある人物と会うためにここに来た。自宅の最寄駅から5駅も離れた場所にあるこの場所に。
そして俺が待ち合わせ時刻の10分前に着いた。そう、俺がここに着いたのは今から約40分前、午後1時20分だ。
待ち合わせの時間は午後1時30分なのだ。しかし俺はその人物と未だ出会えていない。これはいったいどういう事だ?答えは簡単だ、40分前の着信履歴が記録している。40分前、つまり俺が待ち合わせ場所に到着してすぐに、待ち合わせ相手から電話がかかってきた。通話時間は1分に満たない30秒だ。その30秒で俺たちは至極シンプルなやり取りをした。
「ごめん、今起きたからすぐ準備する」
「わかった」
「適当に時間を潰して待っててくれ」
「わかった」
これだけだ。このやり取りだけを行った。
俺が今無益に時間を消費しているのはこいつのせいだ。まぁ喫煙をしているので無益な時間とは言い難いが、それでもまぁ本来潰す必要のなかった時間であることに変わりはない。あいつにはそれ相応の代償を支払ってもらう必要がある。
俺が消費した貴重な30分を返して貰おう。
しかし時間は返せない。なら、時間に代わる何かで返して貰うしかない。
覚えているか?時は金なりだ。
時間と金が同じ価値なら、俺は金で30分を回収する。
だが30分は金にした時一体いくらになるのだろう。
金の価値は変わらない。千円はいつどの時も千円だし、一万円もいつどの時も一万円だ。しかし時間は違う。例えば仕事に向かう朝、少し寝すぎた時に急いで会社に向かう道中を想像してほしい。君は凄く慌てている。そりゃあそうだ。なんせ遅刻するかもしれないからな。その時思った事はないか?「ああ、あと5分あれば」と。
そしてもう一つ想像してほしい。
仕事が終わり、風呂と食事を済ませ、のんびりゲームをしている時を。想像できたか?なら次は考えろ。
前者の5分と後者の5分では価値が違うだろう?
つまりそういう事だ。時間の価値は変動する。故に時間を金に換算するのは難しい。仮に俺が、今回消費した30分に対し、千円の値段を付けたとしよう。だが待ち合わせ相手が同じ千円の値段を付けるとは限らない。というか絶対にない。時間を金に変えて返そうとしたら、返す人物と返される人物が、その時間に対し同じ値段を付けなければ成立しない。
つまり時間を金で返済するのは不可能という事だ。
では俺が今回消費した30分を、待ち合わせ相手から回収するのは不可能か?と問われたら、実はそうでもない。
人間には気持ちという物がある。
【俺が本来潰す必要のなかった30分を潰さなくてはならなくなった】という気持ちだ。
人間という生き物は、気持ちを金に表しがちだ。
誠意だのなんだのと、気持ちを金に変えている。
ならば30分という時間は回収できなくても、30分待たされて嫌だったという気持ちは回収できる。
しかし俺とそいつは友達だ。数少ない俺の友達と呼べる人物だ。そんな友達に「お前のせいで30分もこの居心地の悪い喫煙所で待ったんだから金を払え」だなんてとてもじゃないが言えない。
というか、そんなことを言うなんて人間としてどうかと思う。
じゃあどうするか、何をもって回収するか。
答えは簡単だ。
煙草を一箱、奢ってもらえばいい。
最後の煙草に火をつけ、ガラス越しに走ってこちらへ向かってくるそいつを見ながら、俺はそう思った。
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