Night Diving
「毎度毎度いい加減にしてください」
廊下に響く位大きな音を立ててドアを閉めながら、彼は言った。
「何が?」
彼の言葉を受けて、窓際に置かれている机の上に腰を掛けた彼女が返す。
「僕前に言いましたよね?校内でタバコを吸うなって」
「あれ?そうだっけ?悪いね、最近やけに忘れっぽいんだ」
机に腰を掛けたまま、彼女はゆっくりとフィルターに吸い付く。彼女の持つタバコの先端から舞い上がった灰が、西日に照らされて一瞬輝いた後静かに消えた。
「今すぐ消してください」
「まだ半分以上残ってるのに?」
「消せ」
「分かったよ……」
足元の空き缶に咥えていたタバコをねじ込む彼女を尻目に、彼は肩にかけてあるカバンを外しながら、一番近くにあった椅子に座った。
「私のささやかな幸せを奪うなんて
机の上から勢いよく彼女は地面に足をつける。拍子に長い髪がふわりと宙で踊った。
「別に吸うなって言ってるわけじゃないですよ。ここで吸うなって言ってるんです。仮にも先輩は優等生で通ってるんですから。もしばれたら退学ですよ?」
カバンの中から市販の消臭スプレーを取り出し、辺りに吹きかけながら、矢三は言った。
「仮とは失礼だね。私はれっきとした優等生だよ」
「だったら相応の振る舞いをして下さいよ」
近寄ってくる彼女に対し、消臭スプレーを向けながら矢三は返す。
「分かってないなぁ、ここで吸うから良いんだろう?」
「知りませんよそんな事」
「矢三君も吸ってみれば分かるよ」
「吸うわけないじゃないですか。あと近寄らないで下さい。ヤニ臭いです」
「女の子に対して臭いっていうのはいかがなものかと」
「事実ですから」
「事実だったら何を言っても良いってのかい?じゃあ矢三君は目の前で子供が転んだら、何そんなトコで転んでるの?って言うのかい?」
「いや普通に助けますよ、馬鹿ですかアンタ」
「……そうだね。今のは私の例えが悪かった」
必死に捲し立てる彼女に対して、消臭スプレーを一回吹きかけた矢三に対し、何をするでもなく呆然と立ち尽くして彼女は呟いた。
「自身を正当化する為に罪のない子供を転ばさないで下さい」
「ごめんね、名もなき子よ」
大げさに頭を下げる動作とは反対に、軽い口調で彼女は謝罪した。
そんな彼女を見て、小さくため息を吐きながら、矢三は手に持っていた消臭スプレーをカバンに仕舞い、「もっかい言いますけど」と切り出した。
「吸うなって言ってるわけじゃないんですよ僕は。学校で吸うなって言ってるんです。先輩の事だからどうせ学校でタバコを吸う背徳感だなんだに酔いしれてるんでしょうけど、僕といるときに先生に見つかったら僕まで罰を受ける羽目になるんですから」
「その時は私は矢三君に唆されたって言うよ?」
「帰ります。もう二度とこの部室には来ません。今までお世話になりました。先輩がなるべく早く肺がんで死ぬことを祈ってます」
カバンを手に取り、席を立った矢三の腕を掴みながら「待って!待って!」と彼女は引き止める。
「冗談だって、もしそうなったら私は大人しく捕まるよ」
「……放してください」
自身の腕を掴む彼女の手に嫌悪の籠った視線を向けながら、矢三は言う。相当強く掴んでいたのか、手を放した腕のシャツには大きな皺が出来ていた。
「ごめん、つい」
「構いませんよ」
袖を直しながらそう言う矢三に、彼女は少しだけ頭を下げた。
「でもまぁ君の言う事は当たってるよ」
「と、言いますと?」
改めて椅子に座りなおして矢三は聞く。
「背徳感ってやつさ。まぁ知っての通り私はタバコが好きでね、家や喫煙所で普通に吸うのも良い。でもね、学校という空間で吸うタバコが一番美味しいと私は思っているんだ。理由はもちろん君の言う背徳感ってやつさ。してはいけないことを、してはいけないところでするのは何とも言えない快感がある」
ケタケタと笑いながら話す彼女に対し、理解できないという表情で矢三は「なるほど」と返す。
「でもそれなら別にタバコじゃなくてもいいじゃないですか。単に背徳感が味わいたいだけなんでしょ?」
「んん?矢三君は私に裸で校内を歩いてほしいのかい?残念だが私に露出の趣味はないよ?」
「誰が脱げと言いました?頭沸いてるんですか?」
「……君は最近私に対して暴言の遠慮がなくなってきているように感じるんだが」
「先輩が突拍子もない事言うからでしょ」
「なんだ、てっきり矢三君は私に脱いでほしいんだと思っていたよ」
「じゃあもう脱げよ」
「脱ぐわけないだろう?何を言っているんだ君は」
「……死ね」
わざとらしく疑問的な表情で笑う彼女に、矢三は精一杯の眼力を向ける。拳には相当の力が込められているらしく、膝の上でカタカタと揺れていた。
「怖いねぇ、矢三君の言葉を鵜吞みにしてそこの窓から飛び降りて死んだらどうするつもりなんだい?」
にやけた顔で窓に近づきながら彼女は言う。室内に入り込む風が優しく彼女の頬を撫でた。
「その時は棺桶にタバコを詰め込みますよ。線香の代わりにタバコも立てましょう」
「矢三君が?」
「他に誰がやるんですか」
「いや……別に。矢三君は私が死んだら悲しんでくれるかい?」
窓に手をかけ、矢三に背を向けながら言う彼女に対し、矢三は「そりゃあまぁ」と返した。
「ふぅん……」
「なんですか急に」
「いや、何でもないよ。ところで矢三君、君は私がタバコを吸うようになったきっかけは知っているかい?」
ゆっくりと体を矢三の方に向けながら彼女は問う。矢三と向かい合う頃には、校庭でトレーニングに勤しむ運動部の生徒たちの声は消えていた。
「背徳感がどうのこうのでしょ?」
「いや、実はそうじゃないんだ」
「はい?」
「私ね、両親に褒められたことないんだ」
眉間に皺を寄せている矢三を見ながら、彼女は言う。
「そうなんですか?」
「意外かい?」
「そうですね。先輩って結構なんでも出来る感じの人なんで。先輩の親御さんは先輩を自慢の娘と思ってそうですけど」
「嬉しい事を言ってくれるね。でも残念、私は矢三君が想像している人物像とは逆の人間さ」
座っている矢三の前にしゃがみこんで、彼女は続ける。
「私ね、姉がいるの。私の3つ上でさ、今は大学に通ってる。誰もが聞いた事のある有名な大学さ。さっき矢三君【なんでも出来る感じの人】って言ったけど、私の姉がまさにそんな人でさ、容姿も成績も良くて、いつも笑ってて、運動神経も抜群で、芸術の才能もあった。書道をやらせれば、まるで文字が生きているかのような躍動感のある字を書いて、絵を描かせれば見る人全てを魅了するような風景画を描いた、ピアノを弾かせれば、白魚のような指で豊かな音色を奏でるような人さ」
真っすぐと見つめながら話す彼女に、矢三は少し驚いた様子で聞き入っていた。
「じゃあ私は?って話だけど、これがまぁ大変。私はなーんにもない人だった訳さ。小さい頃からずーっと親に言われてたよ。なんでお姉ちゃんみたいに出来ないの?って。出来るわけないよね?だって私は凡人だもん。だからさ、滅茶苦茶頑張ったんだ。勉強も運動も何もかも、死ぬほど頑張った。姉程とは行かなくてもそれなりの基準値にはなったよ。おかげで今は優等生さ、見た目もいいしね」
笑いながら言う彼女に対し、矢三は目をそらす。誰が見ても分かるような作り笑いをする彼女に何を思ったのか、矢三は小さく「そうですね」と返した。
「丁度2年くらい前かな?まだ矢三君と出会う前だったよ。ふと思ったんだ。なんで私こんなに頑張っているんだろう?って」
そう言いながら彼女は制服のポケットからタバコを取り出して一本口に咥えて火を点けた。閉め切られた教室に煙が充満していく。無論目の前で座っている矢三にも煙は向かったが、矢三は手で煙を払うだけで、それ以上は何もしなかった。
「だってそうだろう?頑張った所で姉には届かない、親にも褒められない、貰えるのは私とつるんで威張りたい生徒たちと自分の評価を気にする教師のしょうもない賛辞だけ。馬鹿らしくなってきたのさ」
堂々と床に灰を落としながら彼女は再び窓に向かって歩き出した。
「何度もね、死にたいと思った。そしてその度に私が死んで悲しむ人はいるんだろうか、とも思った。そりゃあそれなりの人が葬式には参加してくれると思うよ?でも心から悲しんでくれる人なんて多分いない。だから死んでもしょうがないって自分に言い聞かせて、誤魔化して、欺いて生きてきた」
短くなったタバコを、空き缶にねじ込みながら彼女は窓を数センチ開けた。静かだった部屋に再び運動部の生徒たちの声が入ってくる。
「だからせめて抵抗してやろう、反抗してやろうと思って万引きする事にしたんだ。堂々とね。そしたら両親のメンツも、私を持ち上げていた教師も、みーんながっかりするし、メンツも潰せると思ったからね。思いついて直ぐにコンビニに行ったよ。お店には迷惑かけちゃうなぁなんて思いながら」
彼女の話を、矢三は黙って聞き続ける。
「でさ、コンビニに入ったの。そしたら普段気にもしてなかったタバコのカウンターが目に飛び込んできてさ、いやぁ雷に打たれたような衝撃だったね。この手があったかと思ったよ。誰にも迷惑をかけずに、自己完結できる抵抗。その時丁度学校が休みで私服だったからね、あっさり買えたよ。矢三君知ってる?コンビニの店員さんって意外と年齢確認しないんだよ?」
俯いている矢三の返事を聞かずに、彼女は「最初は結構しんどかったなぁ」と続けた。
「でもすぐ慣れたよ。父も吸ってたしその影響かな?慣れたらこれがまたおいしく感じるようになるんだ、不思議だよね?ただの煙なのに」
「それが先輩がタバコを吸う理由ですか?」
ポケットから取り出したタバコのパッケージを見つめながら言う彼女に、矢三は静かに問う。
「ああ、そうだよ。ごめんね、なんか変な話を一人でしちゃって」
「いえ、それは全然……でも」
「でも?」
「あぁ、いや……その」
「どうしたんだい?君はそんな言い渋るなんて珍しい」
パッケージに包まれたタバコを掌で遊ばせながら、彼女は矢三に近づく。
「……なんで隠れて吸うんですか?」
遠慮がちに聞く矢三の言葉を聞いて、彼女は足を止めた。
「ん?」
「いや、すみません。先輩の話を聞いていたらなんとなく……その、バレて周りの人をがっかりさせたいんじゃないかと思って……すみません」
「ん?」
足を止めたまま彼女は大げさに口角を上げて聞き返す。
「え?」
「え?」
「どうしました?」
「私がなんだって?」
「いやだから先輩的には喫煙行為は周りをがっかりさせる為にやってることなんですよね?だったら周りの人にばれないと意味ないんじゃないかなぁと思いまして」
「いやぁ、それは……その……おっしゃる通りなんですが……」
神妙な顔つきからどんどん険しい表情に変化していく矢三を見て、彼女は後ずさる。
「うん、その……ね?最初は矢三君の言う通り私は不真面目です!お前らがっかりしただろ!って言うのが目的だったんですが……」
「ですが?」
後ずさる彼女に対し、立ち上がって近づきながら矢三は問い詰める。
「その……吸っている間にぃ……」
「間に?」
後ずさる彼女より大きな歩幅で矢三は近づく。やがて二人の距離は腕を少し動かせば接触するくらいまで近づいていた。
「もしばれたらもう吸えなくなるなぁ、なんて思っちゃったりもしてぇ……」
「タバコに嵌って、同時に学校で吸う背徳感も覚えたと?」
「おっしゃる通りです」
矢三の凄みに圧倒されたのか、彼女は震えた声で肯定した。露骨に目をそらす彼女を見て、矢三は大きくため息を吐いて「なんなんですか、もう……」と呟いた。それを受けて彼女はウインクしながら「ごめんね」と掌を合わせた。
「今日はもう帰ります、なんだか疲れました」
カバンを取りに向かうため、矢三は先ほどまで自分が座っていた席へと歩き出す。
「あ、私も帰る」
カバンを手に取り、ドアへ向かう矢三を追いかける形で、彼女も立ち上がって窓を閉めた後、空き缶を拾い上げてドアへと向かう。その間矢三はカバンから消臭スプレーを取り出し、辺りに数回吹きかけた。
「カバン持ってきてないんですか?」
「うん、タバコとライターとこの空き缶だけ」
「全部学校に必要のないものですね」
「矢三君にとってはね」
そう言う彼女に呆れた顔をしながら、矢三は無言で彼女に手を差し出す。少し考えた後、彼女はハッとした顔で矢三の手に自分の手を重ねた。
「何してんですか、鍵ですよ鍵」
「なっ……!そんな事言わなきゃわかんないよ!」
ほんの少し頬を紅潮させて、声を荒げる彼女を無視して、矢三は差し出された鍵でまだ僅かにタバコの匂いが残っている部屋を施錠した。
ノブを一回ほど引いて、施錠がされていることを確認した矢三は、改めて彼女に鍵を持っていない方の手を差し出す。彼女は一瞬だけ間を置いて、差し出された手に自分の手を重ねた。
「ねぇ帰りに駅の喫煙所寄っていい?」
「良いわけないでしょ、馬鹿ですかアンタ」
窓から差す西日に照らされた廊下に流れる二人の足音は、18時を知らせる校内放送にかき消された。
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