No.9


 目を覚まして一番最初に思った事は、「あぁまたか」だった。

 充実していない毎日を過ごしているのだから、夢くらい良いものを見せてくれればいいものを。

 まぁ毎日が充実していないからこそ禄でもない夢を見るのかもしれないが。

 今日のは特に酷かったらしく、汗で気色悪く張り付いたシャツがそれを物語っていた。

 ゆっくりとベッドから体を起こし、枕元のスマートフォンを手に取る。画面の中央には大きく【1:30】と表示されていた。

「大丈夫?かなりうなされていたみたいだけど」

 部屋の中央。具体的には部屋の中央に置かれたテーブルの上から声が聞こえた。

「うるせぇ」

 スマートフォンの画面光度を最小にしながら俺は返した。

「心配している相手にかける言葉がそれってどうなのよ」

 無視してヒビの入った画面をスワイプしてロックを解除したが、何一つとして通知は来ていなかった。

「また変な夢でも見たの?」

 優しい光を放つスマートフォンに表示されているニュースアプリから流れる膨大な情報を、一切頭に入れることなく目を泳がせる。

「かもな」

「かもって何?」

「忘れた」

「今さっきまで見てた夢を?」

「あぁ、夢なんてそんなもんだ。悪夢だろうが幸せな夢だろうが、一度起きたら忘れる」

「そうなんだ」

「まぁ夢を見ないお前には理解できないだろう」

「そうだね。夢っていう物がどういう物かは知っているけど、実際に見た事はないからね。でも見てみたいとは思うよ」

「そもそもお前寝ないだろ」

「あ、そうか」

 ベッドから立ち上がり、二・三歩ほど足を進めて壁をまさぐる。指先の感覚で見つけたスイッチを押すと、それまで影だけだった家具や衣服が姿を現した。

 そのまま台所へと向かい、シンクの蛇口を捻る。

 騒がしく流れ出る水を掌に貯め、勢いよく2回ほど顔を洗った。前髪の先端から滴る水を着ていた服で拭い、脱いだ後そのまま洗濯籠へ放り投げた。

「どっか出かけるの?」

 タンスから新しいTシャツを取り出してごそごそと着替えていた俺にそいつは言う。

「ああ、ちょっとコンビニにな」

「僕も行く」

「好きにしたらいい」

「いや僕自分で動けないし」

「じゃあ家でおとなしくしてろ」

「流石にそれは酷すぎると思う。いいじゃん別に何かするわけでもないんだしさ、連れてってよ。僕だって暇なんだよ。それにほら、出かけるんなら時間が分かったほうがいいじゃんか」

「時間なんてスマホで見れるから問題ない」

「いいや大ありだね。どうせ君はスマホをポケットに入れるんだろう?そしたら時間を見ようと思ったら、わざわざポケットから取り出さなきゃいけない。しかし僕を連れて行くと、なんと手首を見るだけで時間が分っちゃう。ポケットからスマホを取り出す、この手間は意外と面倒だよ?大体スマホは多機能すぎるんだ、いったいどれほどの人間がスマホを使いこなせているというんだ。道具ってのはもっとシンプルであるべきなのさ。その点僕はそこをわきまえている。まずはこのデザイン、なんたって見やすさが段違いだね。次に――」

 長々と話すそいつを左手首にはめながら、玄関へと向かう。

「お、僕の演説に感動してくれたみたいだね」

「うるせぇ」

「なんだかんだ言いながら連れて行ってくれる君が好きだよ」

 靴箱の上に置いてあった長財布をズボンの後ろにあるポケットにねじ込み、ドアを開ける。生ぬるくて気持ちの悪い風が遠慮なく部屋に割り込んできた。

 すぐさまドアを閉めて、目的地であるコンビニへと足を進めた。

「あれ?鍵かけなくていいの?」

「盗られて困るようなもんはねぇから別に構わねぇよ」

「空き巣に入られても知らないよ」

「そん時はてめぇを売り飛ばすよ」

「残念、僕なんか売っても二束三文だね」

「だろうな」

「なんか自分で言ってて悲しくなってきた」

 誰もいない住宅街を歩きながら、俺はそいつごとポケットに手を突っ込んだ。夜中とはいえ6月がもうすぐ終わる。それなりに高い気温の中歩くのは苦痛でしかない。話をしながらだとどうしても歩く速度が落ちてしまう。さっさと目的地に向かうため、俺は歩幅を大きくした。ポケットから何やらしゃべる音が小さく聞こえてきたが、俺はそれを無視して歩き続けた。



「っしゃせー」

 目的地であるコンビニにたどり着き店内に入ると、暇そうな店員がこちらを見ることなく気だるい挨拶で迎えてくれた。

 俺は一直線に飲み物を売ってあるコーナーへ行き、缶のハイボールを一つ手に取った。そのまま他のコーナーには見向きもせず、レジへと向かう。

「144番を一つ」

 店員がハイボールの料金を口にするより早く、俺は自分の吸っている銘柄の番号を言った。

 店員がタバコを取りに行っている間に、財布から千円札を取り出してトレーの上に置く。なるべく早く会計を済ますためだ。

 勘違いしないでほしい。俺はただ手早く会計を済ませたいだけだ。後ろに人が並んでいるからとか、早く帰ってハイボールを飲みたいからとかでは断じてない。単に会計が長引くのが嫌いなだけだ。無論コンビニに限った話ではない。俺はとにかく店員と会話をしたくない。やり取りのすべてを最小限に抑えたいだけだ。

 トレーに置いた千円札が、レシートと小銭に変わるまでの間、俺はただひたすら心を無にして待機した。時間にして数秒程度だろうが、この待ち時間が果てしなく長く感じる。

 トレーに置かれた小銭を雑に財布に入れた後、レシートを掌でくしゃくしゃに丸めてポケットに突っ込み、俺は出入り口へと向かった。

 むき出しのハイボールを左手に持ったまま、買ったばかりのタバコの封を解く。ぎちぎちに敷き詰められた20本の束の中から、一本を口で取り出しスタンド灰皿と見つめ合った瞬間、俺はある事に気付いた。

「なぁ、お前火とか出せたりする?」

 ハイボールを握った左手に声をかける。

「君は僕を何だと思っているんだい?出せるわけがないだろう」

「使えねぇな」

「これに関しては僕絶対悪くないよね」

 火のついていないタバコを咥えたまま、俺は帰路に着く。

「完全に君の不注意だね。タバコを吸うつもりだったのにライターを忘れるなんてとんでもなくマヌケだ」

 住宅街のブロック塀にわざとらしく左腕をぶつける。手に持っていたハイボールが缶の中で大げさに波を立てた。

「いったぁ!?なにすんのさ!」

「あぁ、悪い。暗いから周りが見え辛くてな。まぁ俺はマヌケなんだ、許してくれ」

「この人でなし」

「おめぇには言われたくねぇよ」

「人でない僕に人でなしって言われる方が問題だよ」

「それは……そうだな。ところで今何時だ?」

 加えているタバコを唇で上下に遊ばせながら俺は聞く。

「今は……夜中の2時前だね」

「2時か、このまま帰っても眠れそうにないな」

 最悪の目覚めだったのに加え、コンビニまで歩いて来た。目などとうに覚めている。このまま帰宅して酒を呷ったとして、良い眠りにつけるかと言われたら微妙だ。ならばいっそこのまま朝まで散歩でもしてみようかとも思うが、問題が一つある。

 それはライターを持っていないという事だ。

 折角深夜に散歩をするんだ。タバコを吸わないわけにはいかない。まぁこのご時世、まともにタバコが吸えるところなんてそうありはしないのだが、それ故に喫煙所を見つけた時の高揚感は何とも言えない。この辺りでタバコが吸える場所は大方把握しているが、朝まで約3時間。この間散歩をするとなれば、新たな喫煙所を発見できるかもしれない。

 しかし、仮に新たな喫煙所見つけたとしてもライターがないんじゃあ意味がない。生殺しだ。

「あー……どうすっかなぁ」

 火の点いていないタバコを吸っても口内には虚しさしか入ってこない。

「ライター買いに戻ればいいんじゃない?」

「それは嫌だ」

「なんで?」

「もう一度戻ってみろ、ああこいつまた来たってなるに決まってる。変な奴だと思われるだろ」

「考えすぎでしょ」

「お前には分からないさ」

「まぁ僕は君じゃないからね、ただ現時点で僕に分かっている、というか君に伝えてあげたいことが3つある」

「なんだよ」

 僕が言うと、そいつはほんの少し間を開けてから続けた。

「一つ目は今すぐコンビニに戻って変な奴だと思われるのを気にしているようだけど、傍から見た君はさっきからずっと一人で喋ってる。こっちの方がよっぽど変な奴だ。二つ目は歩きタバコはマナー違反って事。三つめは今自宅とは逆の方向に歩いているようだけど何をするつもりだい?眠れないから散歩でもしてどっかその辺で買ったハイボールを飲む気なのかな?でも忘れているようだから教えてあげよう。君、家の鍵かけていないからね」

「……なるほどな」

「今すぐ帰るべきなんじゃないかな?」

 表情は分からない、というかこいつに表情はないのだが、してやったりな顔をしているのがとても腹立たしい。

「お前の言いたいことは良く分かった。それを踏まえた上で俺も反論させてもらおう」

「どうぞ」

「一つ、ずっと一人で喋っているという点についてだが、これに関しては問題ない。なぜなら今は深夜で周りに人なんていないからだ。加えて俺は出来るだけ小さな声で話している。ここらの家に住んでいる人に聞こえはしない。仮に聞こえたとしても電話か何かをしているのだと思われて終わりだ。そして二つ目、歩きタバコはマナー違反という点についてだが、俺が今咥えているタバコには火が点いていない。火が点いていない以上これは喫煙している事にならない。よってマナー違反ではない。最後三つ目、鍵を掛けていないという点についてだが、これに関しては言った通り盗られて困る物がないので問題ない」

 最後に関しては反論というには些か無理がある。強がりだ。口にはしていないが、実際鍵を掛けていないことを忘れていたからな。

「ああそう。で?どうするの?結局家には帰らないの?」

「ああ、とりあえず別のコンビニに行ってライターを買う」

「そんなに吸いたいんだ」

「当たり前だろうが」

「僕は吸わないから分からない、というか吸えないから分からないけど、タバコはやっぱり控えた方がいいよ。月並みな言葉にはなるけど、体に悪いしそれに――」

 ハイボールを右手に持ち直し、鬱陶しく話すそいつを再び手首ごとポケットに突っ込んで俺は足を進める。咥えていたタバコを摘み、胸ポケットに仕舞った。流石に火が点いていないとはいえ咥えたままコンビニに入るわけにはいかない。

 


 数分ほど歩いたところで、眩しく光るコンビニの看板が見えた。まるで光に導かれる虫のように、俺はそこへ向かった。

「いらっしゃいませー」

 店内に入ると、先ほどのコンビニとは違って若々しい男性の店員がさわやかな挨拶で迎えてくれた。

 雑貨売り場のコーナーで100円のライターを手に取ってレジへと向かう。気持ち悪いくらい作り笑顔をした店員がライターを受け取ってバーコードを読み取った。俺は財布から100円玉を取り出してトレーの上に置いた。

「あの……そちらの商品は……」

 バーコードを読み取る機械を手に持ったまま、店員は申し訳なさそうに言った。目線は俺が握っているハイボールに向いていた。

「ああ、すみません。これはさっき別のコンビニで買ったものです」

 迂闊だった。

「そうでしたか、それはすみません。お会計100円で御座います」

 そう言って店員はトレーの100円玉をレジに放り込んだ。

 俺が握っているハイボールには特にシールなんかは貼られていないが、店員もまぁそこまで確認しないだろう。

「ありがとうございましたー」

 ライターを持って速足に出入り口へ向かう俺を、店員はまた爽やかな挨拶で見送ってくれた。

 コンビニから出ると、俺はすぐ先ほど胸ポケットに仕舞ったタバコを取り出して咥えた。コンビニの看板が淡く照らすスタンド灰皿へ向かい、火をつける。

 大きく息を吸い込んだ後、口の中に余韻を残しながら煙を吐いた。吐き出した煙がゆらゆらと空に昇る。それをぼんやりと眺めながら、再度口にタバコを咥えた。

「あー、うめぇ」

「そんなに?」

「ああ、最高だぜ。お前もどうだ?」

 そう言いながら俺は左手に煙を吹きかけた。

「なにも感じないね」

「そりゃあそうか」

「そうだね」

「痛覚はあんのに煙たさは分かんねぇのか」

「その辺は良く分かんないや」

「自分の事なのに分かんねぇのか?」

「んー……まぁ見ての通り僕って君みたいに口も目も鼻も耳もないじゃん?だから衝撃とかは分かるんだけど、匂いとかは分かんないんだよね」

「でも会話は出来るんだな」

「まぁそんな細かい事は気にしなくていいよ」

「それもそうだな」

 吸い終わったタバコをスタンド灰皿に捨てて、ハイボールのプルタブを手前に傾けた。炭酸の抜ける音が辺りに響く。

「あぁ、それ飲むんだ」

「当たり前だろ。飲むために買ったんだから」

「絶対ぬるくなってると思うよ」

「知ってるよ。ずっと持ってたからな」

 そう言ってハイボールを流し込む。

「ぬるい」

 一言呟き、新しいタバコに火を点けた。

「今何時だ?」

「今?今は……3時前だね」

「もうそんな時間か、これ吸い終わったら行くか」

「帰るの?」

「まさか」

「家に鍵を掛けてないのに?」

「うるせぇな、鍵はもういいんだよ別に」

「まぁ君がいいならいいんだけどさ。どこに行く気なのさ」

 気だるげに問うそいつに、俺は一息入れてから返す。

「喫煙所を探しに行くんだよ」

 煙とアルコールを交互に体内に入れながら、生ぬるい風を体で感じる。

「しょうがないから付き合ってあげるよ」というそいつの言葉に、俺は僅かに口角を上げて空を見上げた。

 

 

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