To the Departing You


 親切心というのは、厄介なものである。今私が抱いているのは、純度100%の親切心だ。決して悪意のある物ではない。だからこそ言葉を発するのを躊躇っている。ただ一言、私が言葉を発すればこの人はきっとすぐにでもトイレに駆け込むだろう。いや、駆け込まないかもしれない。分からない。分からないんだ私には。そう、判断ができない。今私の目の前で誰かと楽しそうに電話をしながら喫煙しているスーツ姿の男性が、気づいていないだけなのかどうなのかが分からない。

 これはそういう物なのか?

 でもこれは明らかに違うだろう……

 いくら何でもこれは信じられない。

 なぜこの男性は自身のスラックスの臀部を真っ青に染め上げているのだ。

 

 時間をさかのぼる事30分。私は日用品の買い出しに来ていた。私の住むマンションの近くには、そこそこ規模の大きいショッピングモールが存在する。今日は日曜日なので、それなりに人も多く、すれ違う人々に酔いそうになりながら、私は買い物をしていた。

 人混みが苦手な私が、何故日曜日にこのショッピングモールに来ているのか、疑問に思う事だろう。私が買おうと思っているのは日用品だ。トイレットペーパーとか、洗剤とか、まぁその辺の物だ。わざわざこんな所に来なくてもドラッグストアにでも行けば買い揃えられる。

 にも関わらずわざわざ、日曜日に、この馬鹿ほど人の多いショッピングモールに来たのはちゃんとした理由がある。

 買い物と言うのは案外体力を使う。何度もこのショッピングモールに来ているので、店の配置は頭の中に入っているが、必要なものを最短ルートで買って回っても、それなりの距離を歩かなければならない。加えて買い物をする度に荷物が増える。疲れないわけがない。

 じゃあ疲れた場合どうするか。

 ソファにでも座るか?

 それはナンセンスだ。通路のど真ん中に置いてあるソファなんかに座ってみろ、たちまち隣に人が座ってくる。とてもじゃないがリラックスなんてできやしない。むしろ疲れがたまる。そもそも日曜日の人が多いこの状況でソファが開いているわけがない。

 じゃあどうする?人が少なくて、通路にも面していなくて、気兼ねなく休めるところ。そんなところがショッピングモールにあるのか?否、ある。

 喫煙所だ。

 私がわざわざこのショッピングモールまで買い物に来ているのは、ここに喫煙所があるからだ。それ以外に理由などない。


 一通りの買い物を終え、品物が詰まったエコバッグを肩にかけた私は、やや速足で喫煙所へと向かった。

 【smoking area】と書かれたスライドドアを開けると、大げさな換気扇の音が私を迎え入れてくれる。中には誰もいなかったので、エコバッグを壁に埋め込んである台の上に置いて、ポケットからタバコを取り出した。

 スマートフォンで今後の気象情報の確認やネットサーフィンをしながら煙を弄んでいると、後からスーツ姿の男性が、電話をしながら入って来た。男性は私が室内にいるのを確認すると、軽く会釈して、ジャケットの内側からタバコを取り出し、器用にスマートフォンを頭で抑えながら、咥えたタバコに火をつけた。

 手に提げていた黒い鞄を足元に置き、煙を一回吐き出した男性は、私に背中を向けて、ドアに向かって話し始めた。直後、私の視界には真っ青に染まった臀部が飛び込んできた。


 要は二択なのだ。

 言うか、言わないか。

 もちろん彼の臀部についてだ。

 多分ペンキが付いているのだろう。この男性はきっとペンキを塗った後乾いていないベンチに腰を掛けたのだ。そして臀部が真っ青に塗りつぶされたことに気付かず、ここまでやってきた。ここに来るまでの間、沢山の人の視線を奪ってきた事だろう。だが、今ここで私が彼に指摘をすれば、彼はきっと新たなスラックスを買いにく。幸いこのショッピングモールには、メンズスーツの専門店がある。そこで安いスラックスを一本買えば解決だ。真っ青に染まっているスラックスも、クリーニングに出せばきっと綺麗になって帰ってくる。

 だが、だがしかし。

 私のこの思考が間違えている可能性もある。

 私は考える。ポケットから新たなタバコを取り出し、火をつけ煙を吸い込んで。それはそれは深く吸い込んで私は考える。

 そういうデザインであるという可能性を。


「ふぅー……」

 肺に貯め込んだ煙を吐き出し、俯く。

 さすがにないか?

 そんなデザインのスーツがあるのか?

 臀部だけが青く染まったデザインなんて存在するのか?

 分からない。分からないが、仮に最初に頭を過ったペンキが付着しただけだとしよう。

 気付かないなんて事があるだろうか?

 普通気付かないか?

 ペンキが乾いていないベンチに座って、立ち上がったら違和感を覚えるものなんじゃないのか?

 私はペンキが乾いていないベンチに座ったことがないので何とも言えないが、大体の人は気づくんじゃないか?

 この男性がよっぽど鈍感なら話は別だが……見たところ仕事が出来そうな感じだ。丁寧にセットされた髪型、喫煙所に私がいることを配慮して背中を向けて会話をする気遣い、電話でありながら、ハキハキとした受け答え。仕事が出来そうなエリートサラリーマンという感じだ。

 そんなエリートサラリーマンが、自身の臀部にペンキが付着したことに気付かないとは思えない。

 ならこれはやはりデザインか……?

 私は言うべきなのだろうか。「すいません、お尻の部分にペンキついてますよ」と。言うべきなのだろうか。

 もし、もしもこれがペンキではなく、デザインだったとしたらどうなる?

 絶対気まずくなる。

「あ、これそういうデザインなんですよ……」

「え!?あっ、その……すみません」

 絶対こうなる。間違いない。

 でも、これがペンキなら!この男性が!仕事の出来そうなこのエリートサラリーマンが気付いていないだけだとしたら!!

 親切心とは本当に厄介である。私がもっと冷酷な人間であれば、この男性の事なんか無視して、スパスパ煙を吸い込んでいることだろう。

 正直今はあまりタバコの味が分からない。


 男性が入ってきて、私が3本目のタバコを手にした時、彼が足元のカバンを拾い上げた。これはまずい。私が言うべきかどうか悩んでいる間に、彼はニコチンの補充を終えてしまったのだ。このままでは彼が出て行ってしまう。一度出られたら最後、もう声をかけることは出来ない。

 タバコを胸ポケットに仕舞い、男性は私の方へ一瞬だけ視線を向けて、瞳であいさつをした。電話はまだ繋がっている。言うべきか、言わないべきか。今になって気付いたが、電話が繋がっているという事は、電話の相手にも私の指摘が届いてしまう。彼か私の恥のどちらかが知られてしまう。

 だが時間がない!彼はもうあと数秒で喫煙所を出てしまう!

 男性がスライドドアに手をかけた!


 私は――

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