After Dark
喫煙所とは往々にして、大した設備が整っていないものである。
高級なホテルや大型ショッピングモールならいざ知らず、そこらにある喫煙所なんて、精々錆びたスタンド灰皿としょぼい換気扇があるくらいだ。それすらもないところも多い。外に灰皿が置かれているだけ何て事もある。喫煙者が年々減少しているこの時代において、そんなに珍しい事でもないのだが。
そして今俺がいる喫煙所も、例外ではない。
今俺がいる喫煙所は、自宅から徒歩10分ほど歩いたところにある寂れた無人駅の喫煙所だ。この喫煙所は、外に設置されてある小さなプレハブ小屋の中にある。中央には見慣れたロゴのスタンド灰皿と、綿がはみ出たパイプ椅子。天井には入り口のスイッチで起動する蛍光灯が一本室内を寂しく照らしている。無論、エアコンなどあるはずもなく、今現在隙間風が室内をめぐっている。
さて本題だ。
俺が住んでいるアパートは築30年のボロアパートの癖に禁煙となっている。一度アパートの外にある共用の庭で喫煙したことがあるが、同じアパートに住む住人に、これでもかと言うほど睨まれたので、控えている。
つまり俺がタバコを気分よく吸うためには、わざわざ歩いてこの喫煙所までこなければならないという事だ。
季節は冬、時間は午後23時、温度計がないので正確な温度は分からないが、恐らく気温は4℃程度だろう。この喫煙所は7℃くらいか。持ち物は財布とケータイ、買ったばかりのZIPPOと、中身の入っていないKOOLと書かれたタバコ……。
……ふざけるな。なんのために俺はわざわざ10分かけて寒い中ここに来たと思っている。タバコを吸うためだ。だがその肝心のタバコがない。こいつは何の冗談だ?
「帰るか……」
一言呟き、俺は喫煙所を出る。冷たいドアノブを回した刹那、冷風が容赦なく俺を襲う。ポケットに両手を突っ込み、速足で自宅方面へ歩き出す。
「ねぇ、お兄さんタバコ持ってる?」
歩き出していた足が止まる。振り返ると、一人の女性が俺の後ろに立っていた。
「もし持ってたら一本くれたら嬉しいんだけど」
分厚いコートに身を包み、首元に派手な色のマフラーを巻いた女性は、そう言いながら少しずつ俺に近づいてくる。俺はすぐさま踵を返し、再び自宅へと足を進めた。こいつが誰かは知らないが、こんな時間にこんな場所で見知らぬ男に声をかけるような奴と関わる気はない。
「あ、ちょっと!無視は酷いって!ねぇ!」
歩く俺を駆け足で追い抜き、そいつは俺の目の前に止まった。
「悪いがタバコは持ってない。他を当たってくれ」
ぶっきらぼうに俺は返す。
「嘘はだめだよお兄さん、今そこから出て来たじゃん」
喫煙所を指さしながら、そいつはにやけた顔で言う。
「……忘れたんだ、家にな。だから持ってない」
俺は素直に忘れた事を伝えた。こいつが単にタバコを求めて俺に声をかけただけなら、俺がタバコを持っていないと分かれば用はなくなるはずだ。俺はもうとにかく帰りたかった。ないとは思うが、誰かにこんなところを見られたら、通報されかねない。まぁ俺は単にタバコをたかられているだけなので、別に悪い事をしているわけではないが、このご時世何を言われるか分からない。だからこういう輩とは関わらないのが一番だ。
「ふーん、じゃあいいや」
そう言ってそいつはコートのポケットからタバコを取り出し、喫煙所へ向かって歩き始めた。
「おい、ちょっと待て。それは何だ」
思わず声をかけてしまった俺を、誰が責められよう。言うさ、誰だってな。こいつは今俺にタバコをたかってきた。そして俺が持っていないと分かるやいな、自分のタバコを取り出した。そりゃあ誰でも呼び止める、そうだろう?
「何って?」
「とぼけるな。お前が持ってるそれはなんだ」
「ああ、これ?タバコだよ。知らないの?」
「タバコなのは分かってんだよ。俺が聞きたいのは、何でタバコを持っているのかという事だ。さらに聞くなら、何故自分で持ってるくせに俺にタバコをせがんできたんだ」
「なんでだと思う?」
「質問に質問で返すなボンクラ」
「口悪っ!まぁ、あれだよね。今私が持ってるタバコ後3本しかなくてさ、買いに行くのも面倒くさいし、どうしようかなって思ってたらお兄さんが喫煙所から出てきたから貰えないかなーと思ってさ」
「思ったよりクソみたいな理由だな。じゃあ俺は帰る。せいぜい残りの3本を大事に吸ってろ」
「まぁ待ってよ」
「あ?」
「こうして出会ったのも何かの縁だよ。少しお話していかない?」
喫煙所を指さしながら女は言う。
「断る」
「なんで」
「お前がマヌケ面でタバコを吸っている所を見ながら、下らない話を聞く趣味は持っていないからだ」
「ねぇ、なんでそんなに口が悪いの?怒ってるの?」
「怒ってないように見えるか?」
「質問に質問で返さないでよ」
……手がかじかんでいて、本当に良かったと思う。もしかじかんでいなければ、俺は本気で拳を握りしめていただろうから。
「いいか?俺はお前が誰かを知らないんだ。お前も俺を知らない。要は俺らは赤の他人だ。俺は赤の他人から話をしようと持ち掛けられて応えてやるほど大人じゃない。俺になんのメリットもない。付き合う理由がどこにある?」
「メリットならあるじゃん。私と話せる。そして……」
「これを一本あげよう」
ボックスから1本タバコを取り出し、こちらに向けて女は言った。
「ね?私のタバコ1本上げるから付き合ってよ。別に減るもんじゃないしさ」
時間が減る、と答えそうになったが、寸前で言葉を飲み込んだ。こいつはどうしても話し相手が欲しいらしい。これ以上断り続けると、かえってそっちの方が時間を食いそうだ。
「1本分だけだ。吸い終わったら帰るからな」
タバコを受け取り、喫煙所のドアを開く。女に顎で先に行くよう促し、扉を全開にしたまま、タバコに火をつけた。
「ドア閉めてよ。寒い」
「断る。見ず知らずの女と個室で二人きりになってたまるか。これは譲れない。どうしても閉めろと言うなら、残念だが俺はこいつを捨てなければならない」
人差し指と親指で挟んだタバコの火種を、灰皿の穴に向けながら言った。
「じゃあいいや。開けといていいよ」
「お前何様だよ」
ケタケタと笑いながら、タバコに火をつける女を横目に、煙を吐き出す。
吸ったことのない銘柄だったが、昔からなじみのあるかのような口触りだった。
「お兄さん、弟か妹いるでしょ」
真っすぐこっちを見つめながら、女は言う。
「ああ、弟がいる。なんだ?お前は俺のストーカーか?」
「いやいや、私普段接客の仕事しててさ、いろんな人を見るからその人の大まかな事とか分かっちゃうんだよね」
「素晴らしい特技だな。で、なんで俺を見てそう思った?」
「うーん、見てというか話して思ったんだけど、お兄さん面倒見がいい人だなって思ったの。ほら、さっき私かなりわがまま言ってたのに、最終的には今こうして話に付き合ってくれてるし」
自覚はあったんだな、と返し灰を落とす。
「まぁ私末っ子だし。わがままなのは末っ子の特権でしょ?」
「そのわがままを赤の他人に行うな」
「それは失礼。でさ、さっき私が誘った時お兄さん頑なに断ってたよね。それでああ、この人普段からこういうわがままは言われなれてるんだなぁって思ったわけ」
確かに俺の弟も割とわがままで、年も離れているのでそれなりにわがままには付き合わされたが、応じたならともかく、断った相手に対して面倒見がいいなんて思うものなのだろうか。逆じゃないのか
「面倒見がよくない人なら、そのまま無視して帰ると思うんだよね」
……言われてみれば確かにそうだ。
こいつが俺の前に立ち、話を続けた時俺は律義に断り続けたが、別にそんな事をしてやる必要なんてなかった。こいつの言う通り、無視して帰れば良かったのだ。
「なるほどな」
「見ず知らずの私に対して律義に断り続け、しかも最終的には私の話に付き合ってくれる。つまり面倒見のいいひと。普段からそういう事に慣れている人。って事は下の兄弟がいる、と推理したわけですよ。どう?私探偵になれるんじゃない?」
「探偵の仕事を甘く見るな」
俺がそういうと、女は露骨に不貞腐れた顔でタバコを灰皿に落とした。
俺も同じように灰皿にタバコを落とす。
「吸い終わった。俺は帰る、ごちそうさん」
申し訳程度の礼を言うと、女は大げさに「いーえー」と返して最後のタバコに火をつけた。
「気を付けて帰れよ」
そう一言呟いて、喫煙所を出る。
「そっちもね」という言葉を背中で受け止め、俺は足を進める。
駅を離れ、少し歩いた先で時計に目を落とす。時刻は丁度24時を示していた。
いつもとは違う香りを衣服に纏わせながら歩く帰路が、普段と違って少し明るく見えたのは、街灯が新調されたからという事にしておこう。
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