第9話 解放
鳥の囀りで目が覚めると、制服に着替え階段を降りる。
「おはよう父さん。また徹夜したの?」
「原稿が上がったさかい、仮眠や」
父の継男は丸眼鏡を外しながら寝室へ向かう。
「早く食べないと遅刻よ」
母の百枝が鏡台の前で紅をひきながら言った。彼女は家をあけていた間にパートをクビになって、目下求職中である。
「はぁい」
「あぁ、柊が売っちゃったからアクセが無いわ」
彼女は失踪時、唯一身に付けていたネックレスをしながら、毎朝同じ文句を言う。
「夕方塾に寄るから遅くなるわ」
私はアルバイトを辞め、ただの高校生らしい日常を取り戻した。学習時間が不足していたが、もとより出来る方なので問題無かった。バイト先の店長が「優秀な学生を装った事は口外しないように」と言ってきたから、「優秀なので問題ありません」と言ってやった。
「今日は濡れるから、タオル持っていくのよ」
「はぁい」
百枝は昔から少し変わっていて、彼女が濡れると言えば雨が降った。他にも、ペンのインクの無くなる日を知っていたり、転んで帰ると絆創膏を手に待っていた事もある。
「あらやだ」
その母が驚いて立ち上がった。
「どうしたの?」
「黒い衣服の青年が鏡に映ったわ」
百枝はまるで幽霊でも見たかのように、三面鏡の右側の一枚を指した。のぞき見るが不審な点は無い。
「きっと昨夜見たゾンビ映画のせいだよ」
私はパンを冷めたスープで流し込み、そそくさと玄関に向かった。
「そうかしら……」
「そうだよ! 行ってきまーす」
ただでさえオジサン忍者に手を焼いているのに、お化けが増えては身が持たない。
通学路の坂を登り切ると、息が上がって苦しくなった。
『今日も精進してくるのじゃぞ』
次郎丸の穏やかな声が空中からきこえる。用があって出掛けているのか、拉致事件以後も教室にはついて来ない。
「待って、次郎丸」
私は深く呼吸して、持て余しているお化けの名を呼んだ。
『なんじゃ?』
「その……国松様は生きてはったんやし、もう自分を許してええんちゃう?」
私は4百年の呪縛から彼を解き放つ言葉を紡いだ。
『拙者の罪が許されると申すのか?』
「あたり前田や。だから、そろそろ成仏する?」
感情がバレないように、「そろそろご飯にする?」ぐらいの声色で尋ねた。
『……そなたは平気か?』
「もちろん」
平気なわけ無かった。次郎丸といると楽しくてほっとする。彼がいたら鬼山田に叩かれてもへこたれないし、受験も乗りきれるだろう。だがそれを口にするのは反則だ。
『承知した。では日没と共に逝こう』
「わかった……緋色くんも呼ぶわ。どこで落ち合う?」
天草がいれば、みっともなくすがりついたりせず送り出せる。
『河川敷はどうじゃ? あそこなら親衛隊にも見つからぬ』
最近天草には熱狂的ファンによる親衛隊が出来た。主婦層で構成される隊員は神出鬼没で気が抜けないが、堤防は急勾配で見つかりにくい。
「わかった。じゃあ夕方ね」
私は唇を噛んで校門をまたいだ。
※
「柊さん、大丈夫?」
気づくと天草緋色が私の顔をのぞき込んでいた。昼食時間が過ぎ、いつの間にか昼休みになっている。
「ごめん。何だった?」
「四郎が何故忍者を助けたのかって話」
「理由が分かったの?」
彼は頷くと右手の拳を開いて、飴玉を二粒出現させた。
「昨夜この体が……あの日の夢を見たんだ。大木の穴に隠れていた忍者は、羽柴天四郎の義兄、つまり大人になった国松くんと同じ顔をしていた。四郎はひどく驚いて、咄嗟に隠してしまったのさ」
緋色は包み紙を開いてにこりと笑い、飴玉を私の口に押し込んだ。黄金色の飴玉は蜂蜜の味がした。
「それはもう、生き別れの双子とかじゃないの?」
双子は忌み子とされたと聞くし、隠す為に歳をずらして里子に出したのなら説明がつく。
「さてね。だとしたら影武者として現れた子は疎ましく思われただろうし、情報が外に漏れれば、秀頼の落し胤として命を狙われたかも知れない」
「あ……彼、辻斬りにあったって……え?」
ドクドクという、心臓の音が聴こえた。
「それは、計画的だったのかもね」
天草は「ま、たぶん他人の空似さ」と肩をすくめた。
「ぐすっ……その話、次郎丸には内緒にしてくれる?」
私は飴玉を噛み砕いて袖で鼻水を拭いた。万が一にでも、国松様に近しい人物の犯行の可能性があるのなら、彼の耳には入れたくない。
「なぜ?」
「次郎丸は日没と共に逝くわ」
「えっ!? それはまた急だね、柊さん大丈夫かい?」
天草緋色は指で私の頬の涙を拭った。
「平気。あなたも河川敷に見送りに来てくれる?」
泣いた顔で不器用に笑うと、彼は美しい微笑みを返した。
「もちろん。日没前に会いに行くよ」
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