第2話 次郎丸の不在
「昼間の……人間じゃないってアレ、どういう意味?」
ため込んだ宿題から解放されてベッドに横になると、ようやく次郎丸に尋ねた。
『やつには人間特有のニオイがない』
「あんた鼻ないやんか」
『刀は持てずとも、鼻は利く。忍は修行で特殊能力を身につけるが、某は生まれつきでな』
「そ、そう」
言われてみたら彼は鼻歌も歌う。父のカセットテープの中の、雨の慕情という曲が目下お気に入りである。
「じゃあ転校生は何者なの?」
『それが、花のような強い香りが混じっておって、はっきりせん』
彼の声は耳元から聞こえた。吐息のようなこそばゆい感覚を覚えた気がして、隣を向くが姿はない。
「なあ、あんたに触る事は出来へんのやろ?」
『無理じゃ』
「せやな」
自身の発言に狼狽える。お化けに触りたいなんて、いくら人恋しくてもどうかしている。
『すまぬ、実体が無いのは妖力が足りぬせいじゃ。不完全体でな』
それなら完全体は何なのか、気になったが聞かないほうが良い気がした。
「ねぇ、そもそも何であんたは甲冑に……」
『とにかく、あの男は警戒すべきじゃ』
取り憑いていたのか、という問いは遮られ言葉に出来なかった。強い眠けに囚われ、また明日にでも尋ねようと考え目を閉じた。
ところが翌朝彼を呼んでも返事がなかった。
「次郎丸?」
どこかへ飛んでいってしまったのだろうか。四六時中話しかけてきた声が無くなると、変な感じがした。
「おーい、不完全体くん」
挑発してみても反応はなく、それでも学校では問題なかったが、日が暮れる頃になると寂しくなった。
『拙者のいないときに、あの男に近づいてはならぬぞ』
そう言えば夢の中で彼の声を聞いたような気がする。
「次郎丸、どこ?」
あれは離れるという意味だったのか、それとも浮遊した先で何かあって動けないのだろうか。
不安になって、彼の居そうな場所を探した。街灯や質屋にも寄ってみたが、収穫はなかった。雨の慕情を聴くと、彼の姿があった事など一度も無いのに和室が広く感じて、空間を埋められぬまま一週間が経過した。
私は言いつけを守らずに転校生の跡をつけた。放課後、天草緋色は校舎の一番端の図書室へと消えた。
尾行する探偵のようにカウンターの陰から身を滑らせ、本棚を挟んで天草と対面した。隙間から様子を窺うと、彼は気づく様子もなく本に読み入っている。端正な顔立ちは、造り物のように美しい。
「キリシタン?」
それは江戸時代の歴史本のようであった。
「あ…」
ギクリとした。茶色がかった瞳から涙が流れ、白い頬を伝って滴が本に落ちた。彼は袖で涙を拭い、本を棚に戻すと図書室を後にした。
先刻まで彼が見ていた本を手に取ると、漆黒の表紙の中央に鈍い金色の十字架の描かれた分厚い歴史書だった。じっくり頁を捲っていくと、半分読んだ辺りに涙で汚れている箇所が見つかった。島原の乱で一揆軍が海を渡り、原城に籠城した記述であった。
チャイムが鳴り気づくと、いつの間にか16時をまわっていた。慌ててその頁をスマホのカメラに収め、アルバイト先へ急いだ。
この日の仕事は散々だった。電話口で怒鳴られ「親の顔が見たい」と嫌みを言われ、謝罪の途中で受話器をガチャンと切られる始末で、なんでこんな思いをしなくてはならないのかと両親を恨んだ。
「私だって父さんと母さんの顔が見たいわ」
帰り道、追討ちをかけるようににわか雨が降ってきた。張り詰めていた糸が切れて、無性に次郎丸の声が聞きたくなった。
帰宅するとすぐに風呂を沸かし、湯に潜って20秒数えた。
「馬鹿みたい」
考えてみたら顔も知らない男に随分と依存してしまった。
「せめてあの転校生の正体がわかればなぁ」
天草は才色兼備であること以外は、普通の高校生に見えた。何者かなんて皆目見当もつかない。
「もしかして、宇宙人?」
元カレに強引に見せられた映画を思い出す。宇宙船の乗組員が突然触手を伸ばして仲間を襲うという、何ともおぞましい話だった。
「それとも吸血鬼とか……」
耳は尖っていなかったけれど、それならイメージ出来ない事もない。館に足を踏み入れたが最後、後ろからがぶっと……
『ハズレじゃ』
「ひゃっ」
待ちわびていた声は、またしても入浴中に聞こえた。
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