幽霊からの手紙

小杳燈露子

第1話

引越しというのは何回やっても慣れないものだ。

期日までに十分な期間を設けていても、やらなければいけないことも詰めなければいけない物も後から後から出てきてしまう。

「きちんと計画を立てて取り組まないからだろ。最終目標を決めてそこから逆算して作業を進めていれば十分余裕があったはずだ。」

おっしゃる通りです。

部屋の外から呆れ顔の夫が、床に散乱した大量の荷物に囲まれた私を見ている。私の方は彼から視線を逸らしている。

「お前だけここに残るしかないな」

「えー。退去時の立会って明日じゃなかったっけ?」

「わかっているなら、何で古新聞なんて読んでいるんだ?」

「いや、なんか、自転とか引力の関係で月って地球に落ちてくるって記事があって・・・」

「いつ?」

「えっと・・・、65億年後だって!」

「なるほど、じゃあ今すぐ取り組むべき問題じゃ無いな。今最も優先すべきことは?」

「荷造りです・・・。」

「わかっているんだったら、口を動かしていないで急ピッチで作業を進める。もうすぐ引越し業者から連絡が来るぞ。」

「・・・はーい。」

釘を刺すだけ刺すと夫は自分の作業を進めるため別の部屋に戻っていった。

自分から話しかけてきた癖に。

そんなことを思いながらも何も言うことが出来ない。彼がいうことのほとんどが正論で、その上、彼は荷造りをはじめ、この部屋の解約や引越し業者の手配など、引越しに関するほとんどの事柄を一手に引き受けてくれていた。おかげで私は極々僅かな自分の分の荷造り作業だけで済んだのだ。私に文句を言う権利があるだろうか。いや無いだろう。

それにも関わらず、この為体である。足の踏み場の無くなった床や、荷造り途中で不規則に空きの出来た棚を尻目にしつつ荷造り作業を再開する。思えば私はずっと彼に頼りっぱなしだった。


ある程度何が入っているのだけは後から把握できるように気をつけつつ、作業スピードを優先し荷物を段ボールに放り込んでいると、数冊のアルバムを発見してしまう。それを開いてしまいたい欲を押さえながら段ボールに詰め込もうとした時、1冊のアルバムに挟まった何かに気づいた。

何だろう?引っ張り出すとそれは、見覚えの無い手紙が出てきた。

宛名は私だ。差出人は書いていない。

いつ誰にもらった手紙だったっけ?記憶を手繰り寄せながら、封を開いて手紙の中身を確認した。


“26歳の誕生日おめでとう。

直接だと言いづらいので手紙を書きます。”


夫からの手紙だった。私は今年27歳になる。ということは去年の手紙?でもこんな手紙をもらった記憶がない。手紙には私達が付き合っていた頃から結婚生活での思い出を振り返った内容が書かれていた。手紙の内容を読みながら私も今までの出来事を少しずつ思い返していた。


夫と知り合ったのは友達の紹介だった。会う前に話を聞いていた印象は明るい優等生って感じで、人が苦手でネガティブな私には合わないと思っていた。そのため、やんわりと会うのを先延ばししていたのだ。けれど会ってみたら良い意味で先入観は裏切られた。

ヤンチャな雰囲気やアングラな印象は無く、ネガティブな部分が全くないわけではないけれど、ポジティブな印象の方が断然大きい。だから大枠の印象を外れたわけではないのだけれど、話で聞いていたより子供っぽいというか少年らしさを残した人だった。それは無鉄砲ということでは無くて、むしろ人一倍礼儀正しく、でも押し付けがましく無く、そうきっと本当の意味で強くてとても優しい人なのだろう。それが彼に対する第一印象だった。そして、初めて会った時、私は少し驚いていた。こんなに良い印象しかない人にあったことがなかったのだ。

だから戸惑っていたのだろうか。私は惹かれていることを自覚しながらも中々素直に慣れなかった。それにも関わらず、全くもって不思議なことだが、彼も私に好意を持ってくれたらしく、さりげなく連絡をくれるようになっていった。それは第一印象の通りさりげない物で、ゆっくり少しずつ距離を縮めていくように。今思えばきっと歯痒いことも何度もあったではないだろうか。野良犬の餌付けをしている気分だったかもしれない。いや、もしかしたら野良犬では無く狼の方が近いかも。そんな警戒心を拗らせた私に対して根気強く向き合ってくれたおかげで、私たちは交際を経て結婚までたどり着くことが出来たのだ。

しかし、結婚後も私は彼に対して完全に心を開くことが出来なかった。

夫のことがどんなに大切になっても、いつかこんな私に愛想を尽かしてしまうのでは無いかという想像は消えることがなく、いつも何処かで斜に構えて何かでバランスを取ろうとしていた。いつも私は彼の気持ちを全力で受け止めないようにしていた。

結局私はどこまで行っても自分に自信が持てず、どこまで行っても私以上に彼を大切に出来なかったのだ。


夫からの手紙には今まであった様々な出来事が面白おかしく書かれていた。

一年前ということは丁度私達の間がギクシャクし出した頃だ。

「作業が全く進んでいな・・・」

物音がしなくなったため様子を見に来た夫は、私の手の中の手紙と膝の上のアルバムを見て自体を察したらしい。

「・・・本当は去年の誕生日に送るつもりだったんだけど」

沈黙の後、彼は小さく呟いた。

去年の私の誕生日は夫と過ごす予定だったのだけど、既に関係が悪くなりつつあったため気まずくなった私はドタキャンしてしまった。仲直りのために用意してくれた計画を潰してしまったのだ。それでも夫は、そんな私の中にもやり直したいという気持ちが残っているかもしれないという希望にかけて、この手紙をアルバムの間に挟んでおいたのだろう。結婚式の時のアルバムに。

手紙の最後はこう締め括られていた。


“いつも一緒にいてくれてありがとう”


文字が滲んでゆく。

「・・・ごめんね。今まで気づけなくて・・・。こちらこそありがとう。」

夫は私の側に座るとそっと私の肩を抱き寄せた。

「良いよ。今気づいてくれたから」

そんな優しい言葉にも私は顔を上げることが出来ない。私は彼の左手を見ることが出来ない。

夫の最後のサインを見逃した私は、結局彼の心をつなぎ止めておくことが出来なかった。目の前にいる夫は相変わらず優しい。厳しい言葉も全部私のために言ってくれているのだろう。でも彼の心の中にはすでに他の人が住んでしまっている。

その事実を知った時、私は何も言うことが出来なかった。私に文句を言う権利があっただろうか。いや無いだろう。他でもない彼の優しさに甘えていた私自身が招いたことなのだから。

離婚届は引越し後に夫が郵送する予定になっている。早ければ明日には夫は私の夫では無くなってしまう。

手紙の中の文章からは私への愛が溢れていた。けれど目の前にいる夫の私への愛情はもう形を変えてしまって、その原型は残っていないだろう。手紙の中の感情は当時の夫の残留思念のような物なのだ。

幽霊みたいだな。

そう考えたら可笑しくなってきて少し笑ってしまった。

「うん?」

夫が私の方を見る気配がする。私はそれに答えるようにもう一度笑って、ふざけた口調で答えた。

「やっぱり。私だけもう少しここに残ろうかな?」

夫はそれに対して良いとも悪いとも言わずに同じく少しだけ笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幽霊からの手紙 小杳燈露子 @koharubi-tsuyuko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ