第十三篇 ティーンエイジャーよ聞いてくれ

帰巣本能、昨夜キョウシュウエリアを飛び出した俺をアンインエリアまで導いた引力の名前がそれであるならば、今俺を走らせる力の名前は何なのだろう。足や羽が枝に引っかかって擦れるのに構うことなく、オオカラスの居場所に疾走させている力の正体は何だ?


あいつに聞かなきゃならないことがあるからか? そうかもしれない。あいつが知っていて俺の知らない過去のこと、親のこと、それを洗いざらい聞かなきゃならない。


でも、それだけじゃないな。セキレイは思った。

頭上の小さな翼を目一杯広げ、セキレイは一心不乱に森の中を駆ける。追いすがるアルマーとセンが大きな声で呼びかける。


「おいセキレイ! 当然どうしたのさ!」

「どこに向かって走っているんですか!」

「決まってんだろ! オオカラスがこっちにいるんだよ!」


セキレイは振り返り、自分が走っていく先の方角をまっすぐに指差した。


「オオカラスさんに会って、どうするんですか?」

「話を聞くんだよ! 結局あいつが真実を全部握っているんだ。」

「真実を知って、それであなたはどうしたいんですか?」

「それは———」


セキレイは一寸言葉に窮した。


真実を知りたいと思う好奇心は確かにある。しかしそれだけじゃないと、セキレイは首を振った。もっと根源的で、雑多で、感情にも似た理由が胸の内で燃えていることにセキレイは気づいていたのだ。


(俺は、あいつに「家出してごめんなさい」と「育ててくれてありがとう」って言いたいんだ。)


けれどこの気持ちをそのまま言葉として発するのは子供っぽくて嫌だったので、ちょっとだけ斜に構えた答え方をした。


「俺はあいつと話がしたいんだ。」

「あらそうですか。」


答えを聞いたセンとアルマーが見透かしたようにニヤけ顔で見返してきたので、セキレイは余計に恥ずかしくなり、ムキになって吠えた。


「うるせぇ! 子どもが親に会うのにいちいち理由が要るのかよ!」


そんな捨て台詞を吐くと、一層スピードを上げて森を駆けた。すると、


「ここは・・・」


目の前に突如として現れた大穴を見てセキレイは急ブレーキをかけた。淵から身を乗り出して穴を覗いてみると、その穴は直径30m、深さは10m程度。目を凝らすと竪穴の底には草むらが生い茂り、その中にオレンジ色の花がぽつぽつ咲いていた。この穴は報告書の中で助手が記述していたケシの花畑がある大穴であった。


「この下にオオカラスがいるはずだ。」

穴の底をセキレイは指差す。

「えっ? でも人影はどこにも見えませんが?」

「すぐ来るよ。とりあえず降りる、俺に掴まって!!」


センとアルマーを胴に掴まらせると、セキレイは淵を蹴って小さな翼で空を掴み、竪穴へ飛び込んだ。その時だった。

竪穴の底部を囲んでいる岩壁の一番遠い所が突然赤く光り弾けた。轟く爆発音と砂煙の向こう側から姿を現したのは、セキレイがうんざりするほどよく知る長身のフレンズだった。


「オオカラス・・・」


セキレイは小さな声で呟くと、オオカラスはその声に気づいたかのように顔を上げ、その金色の瞳は羽ばたき落下してくるセキレイの姿を真っ直ぐに見据えていた。

穴の底、ケシの花畑にふわりと着地したセキレイは二人を立ち上がらせると、ケシの花を踏みつけながらオオカラスの立つ場所へと歩き出した。オオカラスもセキレイの方に向かってゆき、セキレイとオオカラスは花畑の中央でピタリと向き合った。セキレイの前に立っているのはオオカラス、しかしそのきらびやかな髪や瞳の色はセキレイが知るものではなかった。彼女が放つプレッシャーに晒されつつもセキレイは恐る恐る口を開いた。


「オオカラス、だよな?」

「そうです。セキレイ様。」


神獣らしい黄金のオーラを纏ったオオカラスは、セキレイが聞き慣れている平らな口調で答えた。


「まるで神さまみたいだ・・・」


セキレイの後ろから神々しい姿のオオカラスを眺めたセンがふと呟いた。オオカラスは小さく苦笑いして、


「神さまみたい、か。返す言葉もありません。ところでセキレイ様、こんなふうに姿が変わっても、私がオオカラスだとわかってくれたのですね。嬉しいです。」

「まあな。お前みたいに背の高いフレンズはそうそういないし、後ろに博士たちがついてきているし。それに・・・」

「それに?」

「子どもが親の顔を忘れたりなんかするもんか。」


セキレイのギラリとした睨みに驚き、オオカラスはぎょっとして顎を引き目を背けた。セキレイは睨みつづけたまま、


「後ろの二人はよろずやのセンとアルマー。俺は二人と一緒にこの島に来て、お前が俺に言わずにいた真実をいくつか知ったよ。森の中にあった墓も見た。」

「・・・」

「お前はさ、この島の真実を俺に知ってほしくなかったんだろ。その理由はよくわからないけれど、真実を知ることは俺にとって不幸せなことだと思ったんだろう。だから俺に鵺島に近づくなと教えていた。でも俺は家出をして、更にお前の言いつけを破って鵺島に来てしまった。ごめん、オオカラス。」

「いいんですよ。いつか話さねばならない日が来ることは私もわかっていましたから。私はセキレイ様の幸せのためと言い訳して責任から逃げていた。ただあなたに真実を伝える勇気が私にはなかっただけのことなのです。」

「じゃあさ、今教えてくれよ。俺に伝えなくてはならないことがあるんだろう。」

「それは・・・」


たじろぐオオカラスの前でセキレイは花畑にどすんと腰を下ろして胡座をかき、ニンマリと微笑みかけた。


「いいんだよ。お前にとって俺は永遠に子どもかもしれないけど、俺だっていつか子どもを卒業して、お前と対等に話せる日が来る。それを今にしよう。お前が100年間抱えてきた苦悩と困難を、俺とここにいてくれるみんなに伝えてくれ。そして分け合おう。」

「良いのですか?」

「俺は受け止めてみせるさ、お前の記憶、思い、愛情も全て。だから話してくれ。」


するとオオカラスは観念したように静かに花畑に座り込み、フーっと大きく息を吐いた。


「本当は、あなたにはあんな忌まわしい過去のことなど知らないで、フレンズやヒトたちに囲まれた今の充実した日々を送って欲しかったのです。こんな記憶を背負って苦しむのは私一人で十分だと思っていましたから。」

「それがお前の本心か?」

「それが私の親心。ですが今回の件でセキレイ様が過去のことで苦しみ、私に反発し、自らこの島のことをお調べになった。過去の真実を知ることよりも、知らないでいることの方が、あなたにとって不幸せになってしまうのならば、私は隠すことをやめることで、あなたの不幸せの種を取り除いて差し上げなくてはならない。あなたに幸せを与えると、私は約束したのだから。」

「約束?」

「そう、約束したのです。100年前に、あなたのお母さんと。」

「母さん・・・」


———先代のセキレイのことだ


「そうです。今から私がお話しするのは100年前に私がこの目で見てきた、あなたのお父さんとお母さんのことです。」

「わかった。聞かせてもらうぜ。」


セキレイの眉や肩から力みがすっと抜けたのを見て、オオカラスはセキレイの真正面に座った。それから懐の手帳から一枚の古ぼけた写真を取り出し、心を決めたようにゆっくりと話し出した。



***



この写真は今から100年前、この島で撮られたものです。本当はもっと多くの写真があったのですが、月日が経ち殆どが失われてしまいました。この写真は唯一残った3人で撮ったものです。

この白飛びした写真に辛うじて見えるのは3人の人物。優しい笑みを浮かべている右の人物はハクセキレイ、あなたの母親。中央にいる黒づくめの地味な女が私。左の歯を剥いた笑顔の浅黒い肌の男がヨウ。この男があなたの実の父親なのです。

彼がこの島にやってきたのは忘れもしない1975年の春のこと。森の中で一人木の実を採っていた私の前に突然見たことのないフレンズ型の生物が現れました。フレンズにしては逞しい体格の、浅黒い肌の生き物。私はギョッとして後ずさりました。相手も唇をピクリと引きつらせ、右手に握った拳銃くろがねの先を私に向けました。しばらくの間二人は睨み合った後、私の方から声をかけました。


「見かけない顔ですが、あなたは何のフレンズですか?」


けれど彼が発したのは意味の全くわからない音の羅列。私はもう一度問いかけました。


「あなたは誰? 私はオオカラスというフレンズよ。」


そう言って両手を上げた私を見て、相手は首を傾げながら拳銃を下ろし、幾らか落ち着いた眼差しで私の頭から爪先をジロリと眺め、それから私のことを指差して、


「オ、オカラス?」


私は何度も首を縦に振り、相手にも名乗るようジェスチャーで促しました。すると相手は戸惑いながらも自分のことを指して、


「ヨウ」


そして彼は息をつき、白い歯を剥いてニカッと笑って見せてくれました。その笑みはフレンズの笑みとは異種の、力強さや安心感を含んだものでした。

これがフレンズである私と、ヒトである彼とのファーストコンタクトです。



その後私は彼となんとかコミュニケーションをとり、彼とその仲間達をフレンズの集落に案内しました。初めて見るヒトの姿に島民のフレンズたちは最初は大変驚いていましたが、島民は生来気のいい連中ばかりですからすぐに彼らと打ち解け、彼らを盛大にもてなしました。それからいろいろあって、彼らは船が修理し終わる間、この島で私達とともに暮らす事になりました。

彼らが来てから半年の間、フレンズとヒトの共同生活はけっこう上手くいっていたんです。特に彼やダンという男はフレンズの社会にかなり馴染んでいました。漁村の生まれだったダンは漁業の技術をフレンズに教えてくれ、元工兵だったヨウは私たちに木で小屋や道具を作ってくれました。それから彼は意外と博識でしたから、文字や外の世界の知識を私達に話してくれました。他の連中も特に怪しいとは思っていませんでしたが、いつの間にかどこかに消えていました。



ヒトとの共同生活の中で、ヨウは私やセキレイと特に仲良くなりました。3人で島の名所に出かけたり、魚を獲ったり、いろいろなことをして遊ぶ日々が何ヶ月か続いた後のある朝、寝床に一人いた私の所にセキレイが来ました。いつも朗らかな子でしたが、その時はいつにもまして嬉しそうにニコニコしていたのを覚えています。どうしたのと私が尋ねると、セキレイは顔を真赤にして答えました。


「ねえ聞いて! 私、ヨウのお嫁さんになったのよ!」


・・・私は心から祝福しました。いつの間にそんなことに、と多少驚きはしましたが、友達が幸せそうにしているのですから是非とも祝わなくてはと、そう思いましたから。彼女のお腹の中に子どもがいるとわかった時も、私は同じように二人に祝いの言葉をかけました。その度に彼と彼女は嬉しげに「ありがとう」と笑っていました。


そんな私たちの日常が変わり始めたのは、彼らがこの島に来てから1年が経としていた頃。フレンズたちに熱心に漁業を教えていたダンが突然姿を消し、それに続いて島民のフレンズが一人、また一人と行方不明になっていったのです。同じ頃から、島の東側で夜になるとこの世のものとは思えない、絹を裂いたような歪んだ叫び声が聞かれるようになりました。


———鵺です。


姦しい叫び声を上げフレンズを連れ去り、食らうという謎の怪物”鵺”の噂は、またたく間に島民の間に広がり、私とセキレイ、ヨウの耳にも入ってきました。

ある日の晩、彼は私とセキレイに向けてこんなことを言い出しました。


「もう十人もフレンズたちが行方不明になっている。これ以上犠牲者が出るのは見ていられない。俺が鵺を退治してくるよ。」


当然私たちは彼を止めました。あなたに何かあったら、私やお腹の子はどうすればいいのとセキレイは涙ながらに訴え、彼の腕を強く抱きました。


「そうですよ、ヨウ。あなたには愛する妻と子がいるんです。鵺退治に行くのは独り身の私でいい。」


私もハッキリとそう伝え、妻を見る彼の横顔を穴の開くくらいじっと見つめました。けれど彼は何も言わずにセキレイの腕を振りほどき、テーブルの引き出しから弾丸の込められた拳銃を取って、それをポケットにねじ込むと、私達の間を素通りし小屋の扉を開けて外に出ました。


「守りたいものを守るために戦うのが男さ。セキレイにオオカラス、俺にとって君たち二人、それからこの島のフレンズ達は守りたい、大切なものなんだ。」


彼は背中でそう言い、それから私達を振り返って白い歯を見せるいつもの力強い笑みを浮かべて、


「大丈夫。すぐ戻ってくるよ。」


と大きな声を私達にかけると、扉をバタリと閉めて行ってしまいました。


彼は本当に頼りがいのある優しい男でした。いや優しすぎた。妻だけでなく、ただの女友達でしかない私や島民を守るために、彼は妻子を残して行ってしまったのだから。私達二人も彼のその優しさに甘えてしまった。あの時無理矢理にでも彼を止めていれば、あんな悲劇は起きなかったはずなのに———



私とセキレイは彼が鵺退治から帰ってくるのを何日も待っていました。けれど1週間、2週間経っても彼は帰って来ず、ついに3週間が過ぎた頃、しびれを切らしたセキレイと私は彼を捜し始めました。そして捜し始めてから1週間経った日の夜、彼が見つかったのです。


その夜はひどく鵺が鳴く夜だったのを覚えています。上空から彼を探していた私とセキレイは、島の東の岩場付近を走って西へ移動している一つの人影を見つけました。地上に降りて声を駆けながら駆け寄ると、その人影はギョッとしたように体を硬直させ、それから恐る恐る私達の方を振り返りました。そして声の主が私達だと分かるとひどく安堵したのか大きなため息をつきました。


「ダン?」


必死の形相で駆けていたのはヨウではなく漁師のダンでした。私の問いにダンはコクリと頷くと、背負っていた大きなものを私達の前にそっと置きました。セキレイはダンが置いたものをひと目見るなりたちまち青ざめて、


「あなた!!!」


と金切り声を上げ、駆け寄りました。

ダンが背負っていたもの、それはヨウでした。かすかに息はしていましたが、全身は生傷や痣だらけで意識も曖昧、セキレイの呼びかけに対して目を少しだけ開けるというのが精一杯というような様子でした。手足をピクリとも動かせないヨウと、泣きながら彼を抱くセキレイの姿を、私は一歩後ろから呆然と見つめることしかできませんでした。

彼の隣でひざまずき、わなわなと震えていたセキレイの肩にダンはそっと手を置き、早口に言いました。


「奥さん、あなたの主人は渡したぞ。すぐこの島から逃げるんだ。」

「ダン、いったいヨウに何があったの!」


セキレイはヒステリックに叫んでダンに飛び掛かりましたが、ダンは彼女を軽々と振り払い、小さいが威圧感のある声で一喝しました。


「逃げろ!さもなきゃ殺される!!!」


ダンの大声が響いたのとほぼ同時に、ドゴオォッというけたたましい音が炸裂し、ほぼ同時に足元の地面が爆ぜ、私達は皆吹き飛ばされました。地面に叩きつけられた私は数分間意識を失い、なんとか意識を取り戻すと身体を起こし数メートル手前に倒れたダンに駆け寄りました。しかし、


「ダメだ・・・」


うつ伏せに倒れて動かないダンの背中には無数の穴が開いており、そこから血液が滾々と流れ出していました。


「ダン、どうして・・・何が起こったんだ・・・」


私は立ち上がって周囲を見回していると、動物の鳴くような音声がうっすら聞こえてきました。暗闇の中、どこから聞こえてくるかさえわからない声はだんだんと大きくなっていき、私に迫ってきます。


アヒャヒャヒャヒャ

アキャキャキャキャキャ

キャキャキャキャヒャヒャヒャヒャハハハハハ———


理性のタガの外れた異常者たちの叫びのような狂った音声は鼓膜の裏でぐるぐると乱反射し、私の精神をかき乱しはじめました。体の芯が急速に冷凍されてゆく感覚、目眩のあまり自分が今地面に立っているのかさえ分からなくなっていく感覚———思いつく限りのありとあらゆる不快な感覚が頭から爪先まで駆け巡り、たまらず私は耳を塞ぎ、フラフラとその場に崩れ落ちました。


鵺だ。ここは鵺の狩り場だったんだ———ああ、だめ。おかしくなりそう。


氷のように冷たく湿った手足は震えるばかりで力が全く入らず、私は一歩も動けませんでした。鵺の狂気にあてられて、私まで正気を失いかけていたのでしょう。なんとも情けない話です。このとき死を覚悟した私でしたが、


「オオカラス!!」


と私を呼ぶヨウの声によって我に返りました。横を見ると、ヨウはセキレイに抱えられながら私のことを見ていました。その時の彼の瞳はいつもの力強い光を取り戻していたように私には見えました。

彼の声と瞳は私にかかっていた金縛りを解いてくれました。手足の指に力が戻ってきたことを実感した私は両脇にヨウとセキレイを抱え、思い切り地面を蹴って空へと飛び上がりました。


「逃げましょう!」


私達は鵺の狩り場を全速力で抜け出し、西の森の中に逃げ込みました。西の森は鬱蒼とした木々と夜霧で見通しがききませんから、鵺に見つかりにくいと思ったのです。


私とセキレイは彼の傷の手当をしようと彼を地面に寝かせ服を脱がせましたが・・・その時既に、私達に彼を救う手段は何一つ残されていませんでした。さっきの地面の爆発によって彼の右腿は深く裂かれていたのです。足をきつく縛っても傷口から血が溢れ、セキレイはなんとしてでも出血を止めようと、自分の手や腕が真っ赤に汚れるのもいとわず傷口を手で懸命に圧迫していましたが、無情にも彼の周囲の血溜まりは広がっていくばかりでした。

みるみる唇が乾き、顔から血の色が退いていく彼に向けて、私とセキレイは彼の名を叫び続けました。何度目かの呼びかけの後、彼はごほっと咳き込み掠れた声で「ここは?」と言葉を返してくれました。


「あなた、しっかりして!!」


彼はセキレイの声のする方に少しだけ首を傾けて、


「セキレイ。それからオオカラス。ごめんな、すぐ、帰れなかった。君たちに怪我はないか?」

「私達のことなんて今はいいのよ!」

「散・・・・・・ものを撃ちやがる。」

「どうしたの?」

「・・・そうだ、ダンは?」


彼の問いに私は何も言わず首を横に振りました。彼は落胆して目を閉じ、それから諦めたようにフッと小さく微笑んで、


「なあに、死ぬ順番が少し前後しただけだ。」

「だめよ。死んじゃだめ! 死んじゃだめだってば!!」


セキレイは彼の血だらけの胴にしがみつきひたすら泣き喚き出したので、私がセキレイの代わりに腿の傷を押さえましたが、その時の彼の肌にはもう熱がありませんでした。濡れた石のような無機質な冷たさが今もこの掌に残っています。

彼は力の入らない腕で何とかセキレイの背に左手を伸ばし、その手が背中に触れるとセキレイは泣くのをやめて彼の顔を見つめました。もう目が見えていないのか、彼の虚ろな目の先は彼女に向いておらず、何も無い夜の森の天井を見上げていましたが、それでも彼は彼女の背を抱いて語りかけました。


「戦争で死んでいたかもしれない俺が、今こうして君の胸の中で死ねるんだ。幸せさ。あの世がどんなところかはわからないけど、オオカラスや島のフレンズたち、それから君と過ごした楽園での日々の素晴らしさには、決して叶うまいよ。」

「・・・そんな事言わないでよ、ねぇヨウ?」

「———愛してるよ、セキレイ。」


その言葉に彼女はまたワッと泣き出してしまいました。彼は少し困ったように微笑むと、今度は私に語りかけました。


「オオカラス、いるかい?」

「います。あなたの側に。」

「・・・君に二つ、頼み事をしたい。一つはセキレイとお腹の子。よろしく頼む。」

「・・・」

「もう一つは、すぐに残りの島のフレンズを、クプ島から、脱出させてくれ。」

「それは・・・皆に島を捨てさせろと?」


私は狼狽えて聞き返したが彼は頷かず、そのまま続けた。


「あの洞窟には、エニグマ・・・フレンズを近づかせるな・・・君にしか頼めない。」

「わかったわ、ヨウ。私に任せて。」


この時の彼の言葉の真意を私が理解するのはずっと先のことです。この時の私には彼の最期の頼みを聞きとることで精一杯でした。私が頷いたのを察した彼は穏やかな顔となり、左手で妻の背を抱いたまま、静かに息を引き取りました。

最後に彼が穏やかな顔になったのは、鵺からフレンズたちを守るという使命を私に託したことで肩の荷が下りたからだと、私は思っています。彼はフレンズみんなから好かれ、彼もまた妻と同じくらいフレンズを心から大切にしていたのです。


夫であるヨウの死後、セキレイは彼の体の側から離れようとはせず、子を宿したお腹を擦りながら彼がまた動き出すと信じて疑わないような瞳で、彼の顔をひたすら見続けていました。私が島民に島外へ逃げるよう呼びかけている間も、彼女は食事も摂らず、彼の横で抜け殻のように佇み、時折思い出したかのように彼の髪や頬を撫でるばかり。セキレイはもともと快活なフレンズで、あれ程病んだ彼女を見たことはありませんでした。



彼が死んで2日目の朝。彼の死体に寄り添うように座っていたセキレイに私は驚かせないよう気を払いながら話しかけました。


「何でも良いから食べなさいよ。」


しかしセキレイは私が持ってきた果物や魚には目もくれず、彼の愛用の金属のコップに入った水をグイと一気に飲み干しただけでした。もう一度彼女に食べ物をすすめましたが彼女は要らないと言うばかり。

この時は私も疲労や睡眠不足で精神的に限界に来ていたのだと思います。あまりの彼女の暗さや無気力さに、私はついカッとなって言ってしまいました。


「あのね、あなたが食べないとお腹の彼の子も育たないのよ。」

「———!」


私の言葉にセキレイは逆上し、目を猫のようにぎょろりと剥くとフーッと鼻を鳴らし私に飛びかかってきました。彼女は私を押し倒し、襟を掴んで痛々しく喚き散らしました。


「私だってわかってるのよ!! でもそんな気になれないの今もお腹の子が中で動いて、そして私にしきりにお願いしているのよ。おなか空いたよ、ごはん欲しいよって。でも食べたくないんだよ! ごめんね、ごめんね、お母さんこんなにフラフラになっちゃって。いつもならお父さんがいてくれるから大丈夫なんだけど、今は・・・あああああぁぁぁ・・・」


そして私の胸を弱々しい拳で叩きながら大声を上げて泣き出してしまいました。こんな時どうすれば良いのかなんて私にはわからず、彼女の心を襲っている激しい嵐が過ぎ去るのをひたすら待っていることしかできませんでした。

やがて泣き疲れた彼女は拳を振るのを止め、私にこんなことを言いました。


「オオカラス、どうしてここにいてくれるの?」

「決まってるじゃない。こんなズタボロな友達を置いてどこに行けるっていうのよ。」

「また夜になれば鵺が来る。そしたらあなただって危険なのよ。なのに私のために残り続けるというの?」

「そうよ。それにあなたとお腹の子を頼むと、彼は私に託してくれたからね。」

「そう。昔から義理堅かったよね、オオカラス。」


そう言うと彼女はニコリと微笑みました。それからゆっくりと体を起こすと、私が持ってきたご飯をむしゃむしゃ食べ始め、あっという間に平らげてしまったのです。


「大丈夫なの?」


彼女の様子の急変化に戸惑い尋ねた私に、セキレイは見慣れた朗らかな笑みを浮かべ、ウインクして答えました。


「うん。落ち込むのはもうおしまいにしておくわ。私がずっとあんな調子じゃ、オオカラスが私の側から離れられなくなってしまうから。」

「私のことなんていいのよ。」


しかし彼女は首を横に振って立ち上がり、少し膨れたお腹を優しい手付きで撫でながら、


「オオカラスっていつもそればかりね。それがあなたの良いところではあるんだけれど。でもね、私だって一人の大人、これからお母さんになるフレンズだもの。いつまでも他人の世話になりっぱなしじゃ、彼やこの子に合わせる顔がないわ。」


そして、水を飲んで来ると言って、斜面の下にある谷の川原に一人で飛んでいってしまいました。ひとまず彼女が立ち直ってくれてよかったと私は一息つきました。しかしその安堵もつかの間、斜面の下の方でガサガサッと何かが空から森の中へと落ちるような音が聞こえました。まさか・・・と、この時私は背筋が凍るような嫌な予感がし、音のした方向へ一目散に向かいました。


この時の予感は、残念ながら当たっていました。


その音はセキレイが森に墜落した音だったのです。

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