閑話 狼に墓標はいらない 1


 ガチャリと牢の扉が開いた音で、ルークは薄目を開け、ゆっくりと身を起こした。


 身体は休息を要求しているが、すぐに反応しないと容赦なく鞭が飛んでくるのだ。

 もちろん反抗などすればそれ以上に殴られるし、右手と右足が鎖で繋がれているため、まともに防御姿勢もとれない。


 この拘束具は普通に歩くくらいなら可能なのだが、走ったり跳んだりするのにはとことん向いていないのである。

 そんな状態で朝から晩まで強制労働に従事させられるのが監獄だ。


 ちなみにルークがいま従事させられているのは街道の修復工事である。『金糸蝶』没落の原因となった崩落現場の工事だ。皮肉なことに。


「二百十四号。出ろ」


 呼ばれてのろのろと独房を出る。

 名前で呼ばれることはない。ここにいるのは人間ではないからだ。


「これより入浴を許可する。時間は半刻(一時間)だ」


 看守の言葉でルークの顔に精気が戻る。

 監獄での楽しみなど食事と風呂くらいしかない。しかし風呂は一週間に一度だけだし、時間だってすごく短い。

 半刻も使ってゆっくりできるなど、シャバにいたとき以来である。


 連れて行かれた浴室にはすでに湯が張られ、石けんやカミソリまで用意してあった。

 もちろん鉄格子つきの浴室だが。


 ルークを中に入れ、鉄格子の間から手を出すように看守が要求する。

 わけもわからずに従えば、右手の鎖が外された。続いて右足も。


「恩赦がある。貴様の獄を解いてくださる貴人と面会するため身支度を調えよ」

「…………」

「返事は?」

「はい!」

「よろしい。では時間になったら迎えにくる」


 そう言って看守は踵を返し、すたすたと去って行ってしまう。

 これもまた異常なことだった。

 カミソリのような刃物を、監視もなしに使わせてもらえるとは。


「……いったいなにが……?」


 首をかしげつつ囚人服を脱ぎ、入浴するルーク。

 粗食と強制労働で痩せ細ってしまってはいるが、しっかりと鍛え上げられた肉体だ。


 身体を洗い、髭を剃り、用意されていた服に着替える。

 たったそれだけのことが本当に特別で、思わず目元を拭ってしまった。


 ふと、さっき髭剃りに使ったばかりのカミソリが視界に入る。

 鋭利な刃物だ。

 看守を脅すくらいはできるし、上手く使えば二、三人は殺すことができるだろう。


「…………」


 手を伸ばしかけて思いとどまる。

 余計なことをすべきではない。かつてライオネルも言っていたではないか、状況がどう動くか判らないとき、自ら不利になる要素を背負ってはいけない、と。


 たかがカミソリを隠し持ったところで、状況をひっくり返せるだけの戦力になるはずがない。

 むしろ隠しているのがバレてしまったときの方が厄介だ。


「隠していることがあれば動作が不自然になる、だったな。くそ。こんなときにヤツの言葉を思い出すなんて」


 舌打ちしたとき、看守の足音が聞こえてきた。







 ルークが相まみえたのは、筋骨隆々とした中年の男だった。


 頭はすっかり薄くなっているが、それ以外に年齢を感じさせる部分はない。

 眼光も鋭く、戦場にあることを常としている人間だということがうかがえる。


 襲いかかったとしても素手では絶対に勝てないだろうな、と、ルークは分析した。


 しかも、看守や所長の対応を見ていると、かなり上位の武人らしい。

 将校……あるいは将軍位にある人かもしれない。


「汝、『金糸蝶』のルークで間違いないな?」

「はい」


 ごく簡単な人定質問は、同時にこの武人がルークと面識がないことを証明している。


「汝の獄を解く。国王モリスン陛下のご威光に感謝せよ」

「ありがたき幸せにございます」


 深々とルークは頭を下げた。

 目の前の武人は国王の名を出したが、もちろんこれは形式的なことだ。恩赦とは国王の名においておこなわれるものだから。


 現実には国王は一人一人の囚人のことなんか知らないし、興味もないだろう。ようするにこの武人は、国王からの許可がもらえるほどの地位にいるということである。

 そりゃあ看守連中もかしこまるよな、と、ルークは内心で苦笑した。


「失礼を承知でおたずねします。閣下。このたびの恩赦は、どなたかの推挙によるものなのでしょうか」

それがしの推挙だが。なにか不満かな?」

「滅相もございません」


 一言で封じられ、ルークは頭を下げる。


 しかし、この一言で判った。何の根拠もなく彼には判ったのだ。


 目の前の武人は、誰かに依頼されてこのようなことをおこなった、ということが。

 そしてその誰かとは何者なのか、ということも。


 顔を戻したとき、彼の瞳には青い炎が燃えさかっていた。


 あいつだ。

 あいつが余計な手を回したのだ。

 おそらく個人的なコネクションを使って。獄に繋がれた自分を哀れんで。


 ふざけるな。

 だったらそのコネを『金糸蝶』の危機に使ってくれても良かったではないか。

 いまさらになって、恩着せがましく手を差し伸べるのか。


 ルークの腹の中で、マグマのように感情が煮えたぎる。


 しかし顔だけは笑顔だ。

 歯ぎしりしそうなほどの悔しさを押し殺して。


「少しばかりだが、取っておくが良い。生活を立て直すにも金が必要だからな」


 そんなルークを面白そうに眺めていた武人が、小さな革袋をテーブルに置いた。


 おそらくは、これもあいつの仕業だ。

 あいつからの施しを、愛想笑いを浮かべて受け取らなくてはならない。

 まるで乞食のように。


 気死してしまいそうな屈辱感のなか、ルークはそれに手を伸ばした。


「ありがたき幸せに存じます。閣下」


 なんとか、声を絞り出して。

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