銀と黒

桜枝 巧

銀と黒

 その人は、常にストップウォッチをひとつ、ポケットに潜ませていた。

 銀色で、曇りひとつない、ぴかぴか光るストップウォッチだった。

 大学の準教授である彼は、演習の発表時間を、いつもそのストップウォッチで測った。「それでは、芥くん、どうぞ」という声と共に、カチリ、と軽やかな音がした。

 銀色のそれは彼の掌にきっちり収まり、時折指先で弄ばれた。発表が終わると、彼はストップウォッチを止め、ちらと液晶を見る。そうして、「もう少し、内容をまとめてください」だの、「まだ時間はありますよ」だの、コメントを述べるのだ。

 ストップウォッチ無しでは、彼の演習は成り立たなかった。我々ゼミ生も、幾度もそれがカチリ、カチリと仕事をするのを目にした。ストップウォッチもまた、我々の仲間だったとも、言えるだろう。

 だが、私は、そのストップウォッチが何故か疎ましくて、仕方がなかった。


「先生、そういえば、あのストップウォッチはどこで買ったのですか」

 ある時、調べ物を終えて手持ち無沙汰になった私は、丁度研究室に顔を出していた彼に聞いてみた。

 狭い室内に二人きりだという事実も、私の気を微かに緩ませていた。

「おや、気になりますか? なかなか良い代物でしょう」

 彼は、小さく笑って、あのストップウォッチを取りだした。

 藍色のスーツの袖からは、白いワイシャツが見えていた。銀色の円形は、彼の服装の全てに調和していた。私には、それが何故か腹立たしかった。

「これはですね、君の先輩が卒業する時に、貰ったものなんですよ」

 曰く、数年前の教え子に、感謝の気持ちと共に送られたものらしい。「僕にぴったりでしょう?」と彼は言った。確かに、常に時間を意識せよと指導する彼へのプレゼントとしては、これ以上ないほど合ったものだった。

「彼女も時間に厳格でした。いつも、講義の十二分前になると、教室の真ん中辺りに座っていました。それはもう、鮮やかなほどに」

 彼は夜のように笑い、語った。

 卒論は『伊勢物語』であったこと、それが素晴らしい出来であったこと。鋭い指摘をする為に、他の学生からはやや恐れられていたこと。「それがおかしくて。いや、失敬」と、彼は顔をほころばせる。

 その細めた目には、今もなお、件の教え子の姿が浮かんでいるに違いなかった。

 掌では、銀色のそれが微かに音を立てる。

 ああ、と、私は気がつく。

 私は、ストップウォッチに触れる彼の笑みが、ずっと気に入らなかったのだ。

 ずい、と体を乗り出す。

 「先生」と呼べば、彼の首が横に傾く。

 彼は、准教授であるにも関わらず、私たちに自身のことを「先生」と呼ばせた。昔、中学校の講師をしていたらしく、その名残だそうだ。だが、そうでなくとも、私は彼を「先生」と読んだに違いなかった。

 彼は、どこの誰よりも、先生だった。

「先生、私が卒業する時には、新しいストップウォッチを贈らせてくださいね。今度は静謐な、黒のストップウォッチです。きっと、先生にお似合いでしょう」

 そう言って、笑ってみせる。

 ああ、きっと、似合うに違いない。私が去った後も、彼は黒いストップウォッチを使い続けるだろう。それは、今よりずっと違和感なく、彼の掌に収まるのだ。

 ーーすると彼は、あっさりとこう言った。


「おや、おや。そうですか、楽しみです」


 私は押し黙った。

 その表情は、少しも変わらなかった。あの夜のような微笑が、静かに浮かんでいた。

 急に、彼の持つ銀色のストップウォッチが、浮いて見えた。酷く周りの景色に合っていないような、そんな気がした。

 一瞬、光の反射具合で、その色を黒と見間違える。

 だが、それが何色であっても、彼の表情は変わらないのだろうと、そんな確信があった。

 私は、すとんと乗り出していた身を引いた。机に放り出していた資料と、荷物をまとめる。

「……ええ、先生。それでは、さようなら」

「はい、また明日の演習で」

 私は研究室を出た。訳が分からなかった。だのに、酷く悔しい思いだけが、肩にのしかかっていた。

 研究室の隣には、准教授の部屋がある。

 主のいない扉は、当然沈黙を保っていた。

 私は想像する。あの先生の部屋には、一体いくつのストップウォッチがあるのだろうか、と。

 銀、黒、白、或いは赤、カラフルなそれらは、きっとどこかの棚に束になって仕舞われている。いつか、カチリ、カチリと音を鳴らし、従順に働いていたそれらは、今、光を見ることも叶わない。

 彼の掌に収まることも、ない。

「……出来るだけ、真黒なものを選ぼう。深く、深く、掌を飲み込んでしまいそうな、黒を」

 呟いた声は、研究室へは届かなかった。

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銀と黒 桜枝 巧 @ouetakumi

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