海の精霊3

 わたしたちは、再び海の精霊と相対する。

 黒い威容が咆哮を放った。海中を振動が伝わり、わたしの全身を震わせる。

 咆哮に混じって、またあの痛ましい声が聞こえてた。


『イタイ……クルシイ……』


「クロちゃん……」


 ミュウがわたしの手を握ってきた。

 わたしも強く握り返す。

 お互い、目を合わせる。

 ミュウの瞳は不安に揺れていた。大丈夫だよ、と微笑みかける。


「怪我人を助けてあげて」


「……うんっ」


 繋いだ手が離れる。

 暴走する海の精霊に蹴散らされ、負傷した人魚たちの元にミュウは泳いでいった。


「大丈夫っ?」


「ミュ……ミュウ様?」


 治癒能力を使って、ミュウは負傷者を癒やしていく。

 あっちは任せておこう。わたしは海の精霊に向き直る。

 改めて見ると、大きな魚のような輪郭をしている。

 その全身が、黒い闇のような物に覆われていた。

 たぶんあの黒い闇が、マナの穢れなんだろう。

 わたしは腰のポーチから三本の瓶を取り出した。


「これ、身体能力を強化する薬」


 三本のうち二本を、ロゼとチコに一本ずつ渡す。

 残りの一本は、わたしの分。だけどこれは身体能力強化の薬じゃない。

 ロゼとチコが薬を飲んでから、わたしも自分の薬を飲む。

 これで準備は整った。


「ロゼ、チコ」


「ああっ!」


「はぁい」


 ロゼが細剣を抜き、チコが両拳を打ち合わせた。

 二人は同時に飛び出し、海の精霊に向かって高速で泳ぎ進む。

 薬が効いてくるのを少し待ってから、わたしも海の精霊に近づいていく。


「やああああっ!」


 ロゼは連続で刺突を繰り出す。

 銀の剣閃が海の精霊を穿った。

 だけど、海の精霊は微動だにしない。

 海の精霊が頭部と思しき部分を動かし、ロゼを見た……ような感覚がした。

 再び海の精霊が吠える。

 それは水圧の壁となってロゼを襲う。


「ぐうっ!」


 直撃を受けたロゼが吹き飛ばされる。

 ロゼっ! と叫びそうになるのを、わたしは必死で我慢した。

 ここで声を出すわけにはいかない。


「こんのおおおおお!」


 チコが海の精霊に突っ込んだ。

 薬で強化された拳から放たれる突きの連打を、海の精霊に浴びせる。


「なんですかぁ、この不気味な手応え……ううん、むしろ手応えがない……?」


 チコが怪訝そうに言う。


「とにかく攻撃を続けるぞ!」


 戻ってきたロゼがチコの肩を叩き、再び海の精霊へと向かっていく。


「命令しないでくださぁい!」


 チコも後に続く。

 二人の戦いを祈る思いで見つめながら、わたしは息を殺して泳ぐ。

 大丈夫、まだ気づかれていない。

 もうちょっとだ。後少しで、海の精霊に接近できる。

 わたしの姿は今、透明になっている。

 さっき飲んだ薬の効果だ。

 でも完全に姿を隠せるかというと、そうでもない。

 声や気配で気づかれる可能性もある。特に精霊は、そういうのに敏感だし。

 だからロゼとチコに注意を引いてもらう必要があるのだ。


「くらえっ! チコちゃんの超絶イナズマ蹴りいいい! って今チコ足ないんでしたぁ!」


「なにをやってるんだ君は!」


 ……大丈夫かなぁ。


「自分が斬り込む!」


 ロゼが細剣を真っ直ぐに構え、海の精霊に突撃する。


「海中だろうと関係ない! 烈火の如く燃え盛れ、我が剣……イグニートピアス!」


 猛然と繰り出されるロゼの刺突。高速で幾度も突き出されるそれが、海の精霊を穿つ。

 ちょっとちょっと、あんまり傷つけないでって話、忘れてない?


「いよーし、次はチコの番です! クロさんとチコのラブラブパワーを見よ!」


 チコはなにを言ってるんだろう。


「クロさんとチコの愛が! 石をも破壊し、天をも驚愕させるぅぅぅぅ!」


 妙なことを口走りながら、チコが海の精霊に向かっていく。


「くらえっ! 愛の合体奥義! クロ×チコラブラブ拳んんんんんんんっ!」


 恥ずかしい技名やめて! あと合体奥義って、わたし関係ないじゃん。チコひとりで放ってるじゃん!


 全力でそう叫び散らしたいのを我慢する。

 そうこうしている間に、わたしは海の精霊まで十分に接近できた。

 ここまでくれば――その油断が命取りになる。


「!」


 海の精霊が、わたしを見た。

 全身を射抜かれるような感覚が駆け巡る。


「まさかクロ、見つかったのか!」


「クロさぁん!」


 ロゼとチコの声が、やたらと遠くに聞こえる。

 落ち着け、わたし。

 海の精霊はまだ、こちらの正確な位置まではわからないはずだ。

 慌てずに移動すれば、あるいは――

 ダメだ。わたしは自分の手を見る。透明だった手は、薄らと元に戻りつつあった。

 間の悪いことに、薬の時間切れだ。

 だけど、ここまで近づいたなら一か八かだ。

 海の精霊が吠える。

 その大きく開いた口へ、わたしは自ら飛び込んだ。


「クロちゃん――!」


 海の精霊が口を閉じるその瞬間、ミュウの声がわたしを呼んだ気がした。

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