第二部 大英雄アイリーン

第15話 英雄の始まり

 王国の旗を揺らす、片側の前輪が外れた荷台。馬はもがき、地を這うように土を盛り上げる。

 鎧が無残に潰れ、原形も留めない王国兵の死体が転がる。

 荷台で怯える夫婦。

 二メートルは優に超える巨体をもつ灰色の熊が、周囲をうろつく。全身筋肉に固め、肩のコブが発達した巨大な熊。

「お前には、きっと、私より素敵な人が見つかるだろう……私が喰われている間に、逃げるんだ」

 勇ましいことを言いながらも声は震えている。

「い、いえ。貴方と一緒に、貴方以外、考えられません」

 こちらも声が震え、さらに目に涙を溜めて、夫と抱擁を交わす。


 その様子を窺う、草むらに潜む人影。

 手には槍を、防具もつけていないシャツとズボンだけの薄い格好。青い瞳は巨大な熊を捉えた。

 槍に糸で巻いて括り付けた赤肉ごと、近くの林に投げ入れる。

 鈍い音に荷台から顔を逸らした巨大な熊は、ニオイに鼻腔を動かしてゆっくりと林に向かう。

 草や土が抉れるほどの足跡を残して、林の中に入っていくまで見守った人影は、しゃがんだ姿勢で荷台に近寄っていく。

 柔らかく揺れる金髪、長髪を後ろで結んで編み込んでいる。

 荷台を包む布を捲り、怯えている夫婦に向けて人差し指を唇に添え、手招く。

 震えながら何度も頷く夫婦を先に行かせて、林に正面を向けながら、ゆっくりと後ろへ下がった。


 近くに小さな、村があった。

 大きな柵で村全体を囲い、村の入り口や中央には鐘が吊るされている。

 門の内側で、腕を組みながら浮かない表情をした男が誰かを待つ。皮製の胸当て、籠手、ブーツを身に着けている。

 赤い短髪を後ろに撫で上げ、眉を顰め、目つきは険しい、筋肉質。

「デヴィン、どうした彼女が心配か?」

 畑を耕している村人はからかう様な口調。

「うるせ、あいつを勝手に行かせやがって」

 荒れた口調で返すデヴィンと呼ばれた男は、村人を睨む。

「ワシに言うなや、ローグに言え、お前も突っ立ってないで助けに行ったらいいだろうに」

 デヴィンは村人に人差し指を突き付けて、

「あのな、俺まで出ていったらこんなクソみたいな村、誰が守るんだ? ジジイとババアなんか喰われて終わりだ」

 さらに顔を険しくさせた。

「まったくデヴィン、年上に敬意を払わんか……やれやれ」

 鍬を肩に乗せた村人は呆れてしまう。

 村の外から騒がしい足音と息を切らす吐息、数人の声。デヴィンはすぐに門の外を覗いた。

「デヴィン! 門を開けてくれ」

 少し低めの声が聞こえ、デヴィンは急いで門を開ける。

 門が開いている途中でも割り込むように入ってきた夫婦と、デヴィンと同じ防具をつけた男。

「無事だったんだな……アイリーンは?」

「あぁ無事だ。もうすぐ帰ってくる」

「それは良かったけどよ、こいつらは? 熊を遠くにやるんじゃなかったのか?」

 デヴィンは、怯えて抱き合いながら座り込む夫婦を横目に覗く。

「アイリーンが王族の馬車を見つけたんだ。熊は林に追い払ったから大丈夫だと」

「……そうかよ」

 不満げな表情のデヴィンに、

「そんな顔するな。アイリーンの強さを知ってるだろ?」

 肩を叩いて微笑む。

「うっせ、ローグ」

 男をローグと呼び、手を払う。

「相変わらずだな……お、噂をすれば、だ」

 軽快に走り、村の門を余裕でくぐる。息を軽く整え、鋭い青い瞳と口元に笑みを浮かべ、デヴィンとローグと目を合わせた。尖った顎に目立たない高い鼻をもつ。

 片手を挙げるローグと、遅れて渋々といった表情で片手を挙げるデヴィン。

 二人に両手を挙げ、掌を軽く叩き合う破裂音を響かせた。

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