第28話 母
「やめろ。もう死んでいる」
デボラは振り上げている両手をぴたりと止め、顔を上げた。血に濡れ真っ赤になっていた。表情はなかった。
ラルサンの背中から立ち上がると、キートンに包丁を向けた。
「来ないでください」
「別に君を殺したりはしない。だが、聞きたいことがある」
「聞きたいこと?」
キートンはデボラを睨みつけた。「どうしてアンやグレタまで殺したんだ……。友達ではなかったのか」
「友達だからですよ。生きていても、いいことなんてありません」デボラは首を振った。血で固まった髪の毛が少し揺れた。「ご主人さまを殺したからといって、自由になれるわけじゃありません。また新しいご主人さまに飼われ、痛みつけられるだけです。奴隷に自由はありません。奴隷は奴隷です。あの子たちも、殺されてほっとしたはずですよ」
「だからといって!」
「あなたはお優しい方です。だからこそ奴隷の気持ちなんて解らないんですよ。私がご主人さまを殺そうと思った気持ちなんて、一ミリも解らないんです」
キートンはなにも言えなかった。デボラの言っていることが正しかったからだ。
デボラは包丁を下ろした。
「でも、だからといってあなたを悪く言うつもりはありません。本当にお優しい方だと思っています。そういう人にこそ、生きて欲しいと思います。こう思うのは、勇者さまだからでしょうか?」
キートンはデボラを見つめた。彫刻のようにぴくりとも表情は動いていなかった。
「……知っていたのか」
「はい。食堂で、ご主人さまとあなたが話していた時に。でも、私は勇者さまだろうとなんだろうと、あなたのことを慕っていたでしょう。きっと勇者さまだから優しいのではなくて、あなただから優しいんですね」
「……俺はそんな人間じゃない」
「前にもそんなことを言っていましたね。あなたも、色々と苦労を背負ってきたんでしょう」
デボラはそう言うと、乳児ベッドの方へ向かった。
「おい、なにをする気だ!」
しかしデボラは言葉を聞かず、包丁を持った手で、ベッドからコールを抱き起こした。
殺すつもりかと思ったが、そうではなかった。コールを見つめ、ただ抱いているだけだった。
「子供は可愛いものです。殺したりなんてしません」とデボラはコールを見つめながら言った。「あの人との子供だけど、この子に罪はありません。私は、コールを愛しています。けど時々、心が暴れだしそうになることがあります。この子を殺してしまうんじゃないかと思ってしまうんです。だから、私は心を殺すことにしました。でも、色々と限界がきてこうなったんです」
「これから、どうするつもりだ……? 君はコールの母親だろう」
デボラはその場に座り込むと、コールを膝元に置いた。
「そんなの決まっているでしょう? コールを頼みましたよ」
キートンは大きく目を見開いた。デボラは自分の喉に刃を突き立てた。
「――よすんだっ!」
キートンは駆け出した。右手をいっぱいに伸ばした。だが、デボラが包丁を喉に突き刺す方が速かった。赤黒い血が傷口から漏れ、それがコールにかかった。コールはびっくりして泣き出した。
デボラは、コールにあやしつけるように、優しい微笑みを見せた。つうと口から血を流し、涙を落として微笑んでいた。それはとても愛に満ちた顔だった。初めてみた表情であった。コールの顔に、ぽたぽたと涙が落ちた。
デボラは突き刺した包丁を、右に回した。デボラはコールのいる前には倒れようとはせず、後ろに倒れ込んだ。一度痙攣を起こしたあと、動かなくなった。全ては一瞬だった。大事なことは、いつも一瞬で過ぎてしまう。
コールは泣き続けていた。誰に向かって叫んでいるのか、キートンには解らなかった。
「どうして……」
キートンも言葉を漏らした。だがそれも、誰に向かって言った言葉なのかよく解らなかった。
奴隷を虐げていたラルサンに言ったのか、こんな惨劇を起こしコールを一人残し死んでいったデボラにか、それとも気づくのが遅すぎた自分にか。
キートンは立ち尽くすことしかできなかった。コールの泣き声が、いつまでも聞こえていた。
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