第7話 感謝

「そりゃ第三者が結果だけ見たらそう思うかもしれません」


初めてこの部室に来た時のことは、今も明確に覚えている。


意気揚々とここに来た僕に対して、先輩は思いきり目を丸くした。僕のような細身の人間が来ると思わなかったのだろう、相撲という競技のことを考えれば先輩の反応は至極全うだった。


そして先輩からの最初の指示。厳しい練習でもなく小難しい指導でもなくただ一言。『30キロ太れ』、普通に生活をしていたら決して言われるはずのない言葉だろう。


僕は実行に移そうとした。父さんに頼んで食事量も増やしてもらった。真剣に相撲に取り組みたいからこそ、僕は必死だった。


それなのに、僕の体重は10キロちょっとしか太らなかった。そのために行動していたのに、身体が言うことを聞かないのである。


豪林寺先輩は、僕が30キロ太らない限り取組はしないと言っていた。だから僕は、ずっと1人で鍛練を続けていた。


でも、我慢の限界が来た。鍛練を続けるだけで、どれだけ自分が強くなったか分からないのである。分からないまま鍛練だけを続けるのは、正直少しキツかった。


だから初めてワガママを言った。自分と一戦交えるよう豪林寺先輩に頼んだ。僕だけのためじゃない。部員が2人居るのに、個人練習ばかりさせていることに申し訳なさを感じていた。


先輩はずっと渋っていたが、ついには折れて向き合ってくれた。ここで僕が強さを見せれば、太らなくとも先輩と立ち会うことができる。そんな甘いことを考えていた。


そして僕は、倒れたときに打ち所が悪く、左腕を骨折した。自業自得の極みだった。


太れない上に簡単に怪我をする。絶望的なまでに相撲に向いてないと、結果が全て教えてくれた。


その後、僕の腕の治療中に先輩は思ったのだろう、ここに居ては自分の実力がさび付いてしまうと。


部活としてでなく、上に立つべき存在として、相撲部屋へ入門することを決めた。相撲部は、ほぼほぼ休部と同じ扱いになった。


結果だけ見れば、相撲部に入った僕を怪我させたあげく見捨て、相撲部屋で自分だけ相撲に打ち込めているように思える。



「でも、過程を知らない人間にとやかく言われる筋合いはないです」



先輩は、明らかに相撲に向いてない僕に対しても真摯に指導してくれた。初心者だからと決して緩めることはなく、相撲で勝つための技術を教えてくれていた。


太れないなら太れないなりに、先輩には馴染のない『変化』というものも教わった。全ては僕を、力士にするために考えてくれていたことだ。


それをぶちこわしたのは他でもない僕である。先輩に無理を言って、無駄に罪悪感を負わせてしまった。それがなかったら、先輩は今も一緒に相撲に取り組んでくれていたかもしれない。


「先輩が相撲部から離れても、学校に来る回数が減っても、僕の憧れた先輩はずっと変わりません。だから嫌うだなんてあり得ないことですよ」


僕は断言してみせた。親身に指導してくれたことを感謝することはあっても、否定する気なんて更々ない。腕だって今は問題なく動くんだ、いつまでも気にされる方が困るというものだ。



「そうか……」



首を搔きながら、先輩は呟いた。誰かに聞かせるでもなく、自分に言い聞かせるように。


「というか、僕の方こそすみません。僕が未熟なばかりに、先輩の時間をたくさん奪ってしまいました」


嫌う嫌わないの話をするなら、僕が先輩に嫌われていてもおかしくない。2年の1学期、先輩はまともに相撲を取ることができていない。その原因は、紛れもなく僕にあるのだから。



「……はは」



僕の謝罪に対し、先輩は笑ってみせた。呆気に取られる僕に、先輩は言う。



「まったく、似たもの同士だなワシらは」

「えっ?」



先輩の言葉の意味が分からなかった。僕と先輩が似ている? とても喜ばしいことだが、僕が先輩の水準に到達できているはずがない。そんな簡単に到達できる領域なら、あの日強烈なまでの憧れを抱くことはなかっただろう。


それでも先輩は、軽く微笑むとその言葉の真意を伝えた。



「ワシも、お前さんには感謝しとるんだ」

「か、感謝?」

「そうだ。ワシはお前さんが美化しとるような人間じゃない」



そう言って、先輩は僕にとって思いがけないことを口にした。



「ワシはそもそも――――相撲が好きだったわけじゃない」



強烈な一言だった。僕の根幹にあるものが崩れてしまいそうなほどに、想像もしていない内容だった。


「小さい頃から身体ばっかり大きくてな、近所の相撲好きのおじさんに進められて始めた。そしたら思いの外勝てて、初めて出た大会で優勝した」

「すご……」

「ワシも初めは誇らしかった。皆に褒められ、才能があると言われ、浮かれておった。だが、そのせいで引っ込みがつかんくなった」

「引っ込み?」

「ああ。続けていくうちに気付いた。ワシは、相撲で勝つということにのめり込むことができなかった」


先輩の表情に陰が差す。相撲に愛された人間の、紛れもない胸中。


「大相撲へ行くことを嘱望され、中学時代は相撲漬けの毎日だった。それが災いして、学校で仲が良い友人はほとんどいなかった。ワシはずっと不満だった、好きでもないことに取り組んでいるせいで、学生らしい生活をまともにできていないことに」


先輩の話を聞きながら、僕は自分の中学時代を思い出していた。

トラウマのせいでまともな学生生活を送れなかった。それが当たり前だと思っていたから豪林寺先輩のように不満を抱えるようなことはなかったが、生活がつまらなかったのは事実だ。陽嶺高校に来ていなかったらどうなっていたか、今考えても少しゾッとする。


「それで高校に上がるとき、ちょっと抵抗した。相撲部はあるが強豪ではない学校に入学したいと言った。勿論揉めたが、無名校から自分の名を挙げたいと言ったら渋々納得した。それで入ったのがここ、陽嶺高校だ。ここなら相撲部もあるし、偏差値も低くなかった」


偏差値という単語を聞いて、僕はゾッとした。大相撲に行こうとしている人間が学校の偏差値を気にするはずがない。つまり先輩が陽嶺高校に来た理由は。



「もしかして先輩、相撲を辞めようと思ってたんですか?」



豪林寺先輩は僅かに微笑んだ。僕の発言を肯定するように。


「以前ほど相撲づくしじゃない生活は、想像以上に楽しかった。ワシの体型に驚く者はおったが、友人も数人できた。こんな風に充実してきたら、相撲を軸にした生活をする必要がないと思ってた。そもそも先輩たちが卒業したら相撲部はワシ1人。いくらでも口実を付けて辞められると思っとった。ワシの中で相撲の存在が消えかかっとったそんなときだ、お前さんが相撲部に入部してきたのは」


そう言うと、先輩ははっはっはと笑った。


「最初は部室を間違えたんだと思った。とても相撲をやる体型に思わんかったからな。でも、お前さんの瞳を見て考えを改めた。本気で相撲に取り組みたいという意志が感じられた。だからワシも、気を引き締めてお前さんを指導した」

「先輩、結構スパルタでしたね」

「お前さんが本気だったからな、ワシも応えねばと必死だったんだぞ」


お互いに笑い合うと、先輩は話を進めた。


「初めて指導側に立ったとき、相撲に対する考え方が変わった。ワシの相撲はいわゆる横綱相撲、どっしりと構えて相手と向き合うもの。小細工なくともそれでずっと勝利してきた。でもそれだとお前さんは勝てない、勝たせるためにどうすれば良いか考えていくうちに、相撲の奥深さを理解した。当たり前のように向き合うだけで勝てるわけじゃないと、勉強していくうちに分かった。どんな手を使われると厳しいか、そんなことを考えていくうちに相撲が楽しくなっていった」


今の話を聞いて、僕はようやく腑に落ちたことがあった。


僕は先輩が相撲を好いていないようには思えなかった。充実そうに、時には楽しそうに取り組んでいた。


成る程、先輩は僕と相撲を続けながら、相撲に好感を持ち始めていたのか。僕がきっかけというのは、素直に嬉しく思う。僕だって、先輩がきっかけで相撲を好きになったんだから。


「楽しくなったなら組みたいと思うもんだが、お前さんと向き合うわけにはいかんかった。体重が倍近く違う相手と戦っても怪我をさせるリスクがあるだけで練習にもならない。組むのはずっと先になると思っとったが、お前さんは不満だったんだな。そりゃそうだ、練習だけさせられて試合ができないんじゃ成長したかも感じられない。ワシはお前の熱意に根負けして組んだが――――それはあまりに浅はかな選択だった」

「先輩、それは」

「お前さんは悪くない。何年も相撲やっててうまく倒せなかったワシが悪かった」


ここだけは何度先輩と話しても譲らなかった。ワガママを言ったのは僕なのに、立ち会った時点で自分が悪いと言ってきかない。あの時ほど、無茶したことを後悔したことはない。父さんにもしこたま心配されたし。


「だがな、お前さんは痛みを堪えながら言った。『あはは、次は絶対負けないっす』と笑いながら。それを聞いた時に思ったんだ、こんなに後輩が死に物狂いで頑張ってるのに自分は何してるんだと。才能に胡座をかいて、弱小校で何をやっているのか。自分にはもっと適切な、戦う舞台があるだろうと」

「もしかしてそれで……?」

「ああ、相撲部屋に入ることを決意した。お前さんのおかげで、相撲の楽しさも分かってきたしな」


恥ずかしながら、少しだけ涙腺に来た。


僕はずっと、自分のせいで先輩は相撲部に居づらくなったのだと思っていた。僕が怪我したから、先輩は学校で相撲を続けることを自粛したのだと思っていた。


けど違った。豪林寺先輩は前向きな気持ちで相撲部を出ていった。それほど好きではなかった相撲で、戦う場所を求めて。それが分かって、僕は心の底からホッとした。


「ありがとな廣瀬、お前さんはワシに相撲と向き合える理由をくれた。感謝してもしきれん」

「そんな、僕はただ先輩の姿に憧れただけで……」

「それが感謝なんだ、お前さんはワシのたった1人の部活動後輩なんだから」


そして先輩は、歯を見せてニコニコ笑う。僕が練習を乗り切った時に見せる温かい笑顔。



改めて僕は、この人と部活ができたことを誇らしく思った。

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